第7話:断罪
赤い月が、冷たく地上を見下ろす。
王都郊外に広大な敷地を有するレクシオン大学は、およそ千年の歴史を誇る、近隣諸国でも屈指の最高学府だ。
その一角に聳え立つ、五階建ての研究棟。外観は重厚で伝統的な石造りだが、一歩足を踏み入れれば、まだ公にされていない機材や無数の配線が壁を埋め尽くしている。
まさに、異様な知性の巣窟。
ロイは、負傷を微塵も感じさせない足取りで、キアラの半歩先を歩いた。そのアイスブルーの瞳は、この国の脅威を排除するという強い使命に満ちている。
「ここは危険です。貴女が来る必要はなかった」
ロイの硬い声が、無人の廊下に反響する。
これに対し、キアラは小さく首を振った。
「ううん。これはわたしの問題でもあるの。……もし、叔父さんがパパとママの事故に関わってるなら、わたしが自分の目で確かめなきゃ」
キアラの青い瞳の中心で、橙色の光が揺らめく。
あの日も……両親が亡くなったあの日も、屋敷でひとり待っていた。ただひたすら帰りを待っていたのだ。何も知らずに。
「お願い。わたしを、真実から遠ざけないで」
ロイは、短く呼吸を止めた。
彼の中の軍人は、警護対象である彼女を即座に退避させるべきだと警告している。しかし、彼はその合理性を棄却した。
キアラというひとりの少女への個人的な敬意が、彼の行動原理を上書きしたのだ。
「……承知しました。ですが、絶対に私から離れないでください」
「うん。……ありがとう」
最上階にあるユタスの研究室は、不気味な静寂に包まれていた。
古びた羊皮紙の書籍と、青白い燐光を放つ装置が雑然と混在する室内。中央のデスクには、複雑な配線を施された端末が、まるで毒蜘蛛のように鎮座している。おそらく、あれを使用して、コアへ不正にアクセスしたのだろう。
「……来ると思っていたよ、キアラ」
部屋の奥。
掛け時計の音に混じって聞こえた声は、まぎれもなくユタスのものだった。だが、そこに慈愛など微塵もない。
椅子に深く腰掛け、ふたりのほうへと向き直る。月明かりに浮かび上がったその表情には、すべてを諦めたような虚無が張りついていた。
「叔父さん。パパとママの事故……あれは、本当に『事故』だったの?」
キアラの問いに、ユタスは乾いた笑みを漏らした。
「いいや。僕が組み立てた計画の帰結だ」
「……っ!!」
心臓を、氷の楔で貫かれたような衝撃。
ロイの手が、音もなく腰のホルスターへと伸びた。
「……どうして……っ、どうしてそんなこと……っ!!」
キアラは声を張り上げた。肩が、全身が、震える。
込み上げる怒りに視界が滲み、言葉にならない悲鳴が喉の奥に灼きついた。
「どうして? ……姉さんは僕の光……僕のすべてだった。成果だけが価値を決める地獄のようなあの家で、姉さんだけが、僕の唯一の居場所だったのに。……よりにもよって、自由のない王国の影なんかに嫁ぐなんて……っ、ヴァイザーは……この国は、僕から光を奪ったんだっ!!」
ユタスは額を押さえ、慟哭とも哄笑ともつかぬ声を上げた。
バレル家は、厳格なエリート一家。子どもは愛される対象ではなく、家名の価値を高めるための資質としてのみ評価された。
わずかな瑕疵も許されない過酷な環境。そんな中、唯一ユタスに無償の愛を注いだのが、姉であるキアラの母だったのだ。
「僕は、姉さんを捕らえたすべてを壊したかった……奪われた分だけ、奪い返したかった……」
「……それで、パパを殺したの?」
「そうだよ。この国を恨んでいる連中を雇ってね。本来は、義兄さんだけを……なのに、実行役が失敗した。……庇ったんだって、姉さんが。仕方がないから、事故を装い、あの崖から車ごとふたりを突き落としたんだ」
「……わたしのことも、殺そうと……?」
「……ああ。そうだよ」
時計の秒針が、心臓の鼓動を急かすように、大きく鳴り響く。
歪んだ偏愛を吐露するユタスの瞳は、仄暗い混濁に沈んでいた。その言葉のひとつひとつが、鋭利な破片となって、キアラの心をずたずたに切り裂いていく。
優しかった叔父は、もういない。……否、最初からいなかったのだ。
あの笑顔は偽りだった。ともに過ごした時間も、全部、全部——。
「キアラ……君が成長していくにつれて、姉さんに似ていくのが苦しかった」
ユタスが、ゆっくりと立ち上がる。
「声も、顔も、笑い方も……君を見るたび、姉さんが僕を責めているようだった」
そうして、デスクの引き出しから、おもむろに黒鉄の塊を取り出した。
「叔父さんっ!!」
キアラが叫ぶと同時に、身体を前に投げ出したロイが、その銃口をユタスへと向けた。
「……ロイ・バージェス。レクシオンに忠実な人間兵器。……君に——この国に、殺されてなんかやらない」
そう言い放ったユタスの声は、恐ろしく静かで、澄んでいた。
直後。
ユタスは、自身のこめかみに狙いを定め——
「……っ、キアラ様!」
——パァンッ!
迷うことなく、引き金を引いた。
幾度となくキアラの頭を慈しむように撫でた、その手で。
血飛沫が舞う寸前、ロイは反射的にキアラを抱き寄せた。大きな大きな手のひらが、キアラの視界を優しく、そして強引に遮る。
「……見なくていい」
低く、確かな声。ロイの手のひらを、キアラの熱い涙が濡らしていく。
ユタスの凄惨な最期を、その身勝手な愛の終焉を、ロイはひとりで引き受けるように見届けた。
夜が明ける頃。
大学の敷地内には、大勢の警官の姿があった。
公平性を担保するためだろうか。先ほど運び出されたユタスの遺体は、別の大学病院へと移送されたのちに、そこで司法解剖が行われるらしい。
事情聴取をひととおり終えたキアラは、夜露を残すベンチに座り、白んでいく空をただ眺めていた。その細い肩には、ロイの重いコートが掛けられている。
遠くで、機関車の汽笛が聞こえる。
また、昨日と同じ一日が始まる。
「……ロイ」
「はい」
「わたし、生きてて……よかったのかな」
今にも消え入りそうなキアラの声が、冷たい空気にぽつりと落とされた。
みんな死んでしまった。父も、母も、叔父も……みんな。
呪詛にも似たユタスの告白を聞き、キアラは、己の存在そのものが禍根であるかのように思えてならなかった。
長い長い沈黙。
やがて、ロイはキアラの目線に合わせるように片膝を折ると、その小さな頭に自身の手を添え、胸元へそっと引き寄せた。
「もちろんです」
ロイの声が、優しくキアラの耳朶を打つ。
キアラは、ロイの胸に顔をうずめて泣いた。声を上げて泣いた。両親を喪ったときでさえ見せなかった、幼い子どものような泣き顔で。
朝日が差し込むまでの、わずかな時間。
ロイは、一度もその腕をほどくことなく、キアラの悪夢が夜明けとともに消え去るのを、じっと待ち続けていた。




