第6話:継承
ロイが負傷した嵐の夜から一週間。
キアラは、女王ルミエラに招かれ、ふたたび王宮へと赴いていた。
夏の訪れを告げる風が庭園を吹き抜け、白い大理石の噴水が午後の陽光を散らしてきらめく。咲き誇る花々の色彩はどこまでも美しかったが、その景色さえ、今のキアラには、なにか非現実的なもののように思えてならなかった。
青空を透かすガゼボの下。ルミエラが、手すがら優雅に紅茶を注ぐ。
カップの中の琥珀色が、キアラの不安を映すように、ゆらゆらと揺蕩した。
「キアラ、気分はどう? 少しは落ち着いたかしら」
「はい、陛下。……お気遣い、ありがとうございます」
キアラの視線が、傍らに控えるロイへ心配そうに向けられる。仕立てのいい漆黒のコートの上からは窺い知れないが、その下には、いまだ生々しい傷口を覆う包帯が巻かれているはずだ。
「ロイ。キアラを守ってくれたこと、改めて感謝します。怪我の具合は?」
ルミエラの問いに、ロイはわずかに顎を引き、うなずく程度に一礼した。
ヴァイザー家の侍医も驚くほどの回復力ゆえ、本人としてもとくに問題はないのだろう。それでも、満足に休ませてやることのできないこの現状に、ルミエラはひどく心を痛めていた。
それは、キアラに対しても同様で。
「キアラ。以前、あなたをある場所へ案内すると話しましたね。ヴァイザー家の血が、この国にとって何を意味するのか……そのすべてを、今ここであなたに託します」
キアラの小さな手をそっと握り締め、その双眸をまっすぐに見つめる。
「大丈夫です、陛下。……どうか、教えてください」
これに対し、キアラは深くうなずいた。
迷いなどない。何を聞かされても、何を見せられても、怖気づいたりしない。あの夜、命を懸けて守ってくれた、ロイのためにも。
覚悟はもう、決まっている。
「ヴァイザー家の異名である〈レクシオンの鍵〉とは、単なる比喩ではありません。この国の行政、経済、軍事——すべてを統括する演算中枢〈レクシオン・コア〉を制御するための、生体認証キーの呼称なのです」
「……生体認証キー?」
「ええ。……現在、あなたの父君という鍵を失ったこの国は、緩やかに衰退の一途を辿っています。各都市を結ぶ物流ダイヤは乱れ、ガス灯の圧力供給さえ不安定になっている。これらを安定させるためのコアを制御することができるのは、ヴァイザー家の直系のみ……あなただけなのです」
『この国の平和の下には、ヴァイザーの血でしか御すことのできない、巨大な仕掛けが存在している』
ルミエラの言葉が父の遺した記憶と重なり、キアラの中で、ばらばらだったパズルのピースが嵌まっていく。
「コアは、王宮の地下深くに眠っています。この国をもとの形へと戻すためには、あなたが鍵となってコアを再起動させるほかありません」
ルミエラは、ここで一度言葉を切ると、そのエメラルドの瞳に沈痛な色を浮かべた。
「先日の襲撃は、おそらく、王国を陥れようとする者たちの犯行。あなたという鍵を奪い、この国を機能不全に追い込もうとしているのでしょう。もしかすると、あなたのご両親も、その者たちに……」
「……」
あまりに残酷な推測に、キアラの呼吸が浅く乱れる。
これに気づいたロイは、音もなく一歩踏み出すと、キアラの背に大きな手のひらを添えた。ロイの体温が、頽れそうなキアラの心を、しかと支える。
この光景に目を細めたルミエラは、立ち上がり、ふたりを王宮の地下へと案内した。
地上の喧騒を拒絶したかのような、耳が痛くなるほどの静寂。長い年月の刻まれた組積造の壁面には、青い燐光を放つ精密で不釣り合いな回路が、さながら血管のごとく張り巡らされている。
地下通路では、ロイは常にキアラの半歩先を歩いた。キアラは、その広い背中を見つめながら、彼が庇ってくれたあの夜の出来事を思い返す。
「ロイ」
名前を呼ぶと、ロイは足を止めることなく、少しだけ首をこちらに向けた。
「……ありがとう。そばに、いてくれて」
ロイは答えなかった。ただ、その逞しい肩の線がかすかに和らいだのを、キアラは見逃さなかった。
最深部に辿り着き、扉が開く。三人が足を踏み入れたのは、広大な円形のフロアだった。
古代の神殿と未知の未来が融合したような、異質な空間。中央には、どこか神秘的で精緻な紋様の記された台座が据えられており、上方には、巨大な光の輪が静止したまま浮かんでいる。
そして、その正面には、まるで永久の眠りについているかのような巨大な演算機が、ひっそりと佇んでいた。
「怖がる必要はありません、キアラ。……あなたのその瞳に、ここにあるすべてが応えてくれるわ」
ルミエラに促されるように、キアラは台座へと歩み寄った。
その瞬間。
「!」
キアラの瞳に呼応したのだろうか。止まっていたはずの光輪が、勢いよく閃いた。青い瞳の中心にある橙が、胎動を始めた太陽のように激しく揺らめく。
荘厳な重低音を響かせながら演算機が起動すると、フロアの中央に、光の粒子がいっせいに集まってきた。
光の粒子が形作ったもの。それは——父の立体映像。
『キアラ。これを見ているということは、お前が〈レクシオン・コア〉の新たな鍵になったということだ』
「……パパ?」
会話をすることこそできないが、青白い光に縁取られた父は、生前の記憶そのままの柔和な笑みを湛えていた。
父は教えてくれた。ヴァイザーの人間が有する双眸は、コアから溢れ出す膨大な情報を集約するための接点であること。青は国家の論理を、橙はそれを御する人間性を、それぞれ司っているということ。
『お前はこの国の要……だが、それ以上に、私の愛するたったひとりの娘だ。お前をこの場所に縛りつけることを、どうか許してほしい』
「……っ、パパ!」
慈愛に満ちた掠れた声が、キアラの胸を締めつける。思わず腕を伸ばすも、細い指先は虚しく光の粒子をすり抜けた。大好きな父、その体温に触れることは、叶わない。
不意に、穏やかだった父の声音が、わずかに翳った。
『……ユタスには気をつけなさい。彼は、ヴァイザー家を、にく——』
「え……?」
核心に迫ろうとした矢先に映像が激しく乱れ、父の姿はノイズの中に搔き消えた。
刹那。
静謐だった空間が、血のような赤に塗りつぶされる。
「WARNING: System Integrity Compromised.」
無機質な合成音声が、警告を発した。
「Unauthorized Access Detected. 侵入元——レクシオン大学研究棟」




