第5話:守護
その夜、王都の上空は、猛り狂ったかのような暴風と驟雨に塗りつぶされていた。
ベッドの中で、キアラは何度目かの寝返りを打った。眠れないまま、時間だけが過ぎていく。
ひときわ強く風が唸るたび、部屋の窓ガラスが割れんばかりに悲鳴を上げる。絶え間なく瞬く稲光が、調度品の輪郭を白く浮かび上がらせた。
心が落ち着かない。昼間、ユタスがロイに向けたあの刃のような眼差しが、胸の底に澱となって沈んでいる。
物心ついた頃から、キアラはユタスを慕っていた。賢くて優しい彼と過ごす時間は、両親の不在がちなキアラにとって心の支えだった。
けれど、成長するにつれ、どこか奇妙な違和感を拭えずにいたのも事実だ。
彼が時折見せる、焦げつくような視線。キアラを通して別の誰かを追い求めているような——そんなひどく飢えた感じをおぼえたのだ。
「……あったかいミルクでも飲んでこようかな」
独白が、湿気た闇に溶け込む。
キアラは、おもむろにベッドから抜け出すと、寝衣の上にガウンを羽織った。手に持ったカンテラの心許ない灯りだけを頼りに、廊下へと踏み出す。
異変は、唐突に訪れた。
——ガシャァンッ!!
鼓膜を劈く破砕音。高窓のひとつが、内側へと爆ぜるように粉々に砕け散った。
風雨が叩きつけるように屋内へと吹き込み、毛足の長い絨毯を容赦なく濡らしていく。
嵐の中から突として現れたのは、夜よりも深い黒を纏った影。……ひとつではない。壁を這い、床を蹴り、蜘蛛のような身のこなしで次から次へと侵入してくる。
だが、次の瞬間。
「キアラ様、下がって」
低く、鋼のような声が風を切ると同時に、ロイが飛び込んできた。
彼の動きには、寸分の無駄もなかった。キアラの前にすかさず身を滑り込ませると、手にした銃を迷いなく構える。
直後。闇の中に、銀の閃光が走った。
——パンッ!
乾いた銃声。続けて、もう一発。
影のひとつが、短い呻きを残して崩れ落ちた。
ロイの指先に、躊躇はない。的確に敵の動きを封じながら、その急所を確実に撃ち抜いていく。
勝機がないと悟ったのか、別の影が窓へと向かって駆け出した。……が、ロイの瞳は、それを逃さない。銃口が静かにその背を追いかけ、硝煙の匂いが再度立ち昇る。
——パンッ、パンパンッ!
耳を裂く絶叫。逃走を阻む鈍い着弾音。
ロイの射撃は、まるで精密に調律された楽器が奏でる旋律のようだった。
複数の黒い輪郭が床に沈み、屋敷には、嵐の咆哮だけが、ふたたび轟いていた。
そのときだった。
「!」
ロイの眉間が、かすかに動いた。
倒れ伏したはずの影のひとつが、震える手で、銃口をキアラへと向けたのだ。
軍人として合理的な判断を下すなら、すぐさま引き金を引き、確実に脅威を排除すべきだった。しかし、このときのロイに、訓練された論理を組み立てる余裕などなかった。
キアラが傷つく——その可能性が脳に届くよりも早く、彼の本能が、長年培ってきた戦術を凌駕した。
ロイは、自身の身体をキアラの前へと投げ出した。
放たれた銃弾が、一直線に空を切る。視界が、真っ白な光に覆われた。
そして。
「ロイっ!!」
悲鳴を上げたキアラの目の前で、ロイの肩が、大きく跳ねた。
あまりに鮮烈な赤。彼の白いシャツが、見る見るうちに染まっていく。
護衛対象を守るための肉の盾となること。それは、軍人としては極めて非効率な、生存を度外視した愚行に他ならない。
それでも、彼は選んだのだ。己の命よりも、目の前の少女をただ守り抜くということを。
衝撃を喰らいながらも、ロイは倒れなかった。片膝をついたまま、なおも片手で銃を固定し——
——パンッ!!
最後の一発で、影を仕留めた。
屋敷が、ようやく本来の姿を取り戻す。けれども、キアラの時間は、いまだ止まったままだった。
「……ロイ……っ、そんな……どうして……っ!」
震える足で駆け寄ると、キアラは手近な布を掴んで患部へと押し当てた。とめどなく溢れる鮮血が、キアラの指を染めていく。
しかし、ロイの表情に、苦悶の色は見られなかった。血に汚れた腕でキアラを抱き寄せ、目を伏せる。
「……貴女が、傷つくのは——嫌だった」
長い時間をかけて凍てついた感情に、ひとしずくの光が差し込む。
命令でもない。義務でもない。
ロイ・バージェスという男の心に、確かな熱が灯った瞬間だった。




