第3話:試行
ロイ・バージェスという男は、徹底して命令以外に反応を示さなかった。
食事の時間になっても命令がないと口をつけない。部屋に入るときも、出るときも、すべて命令か否かを確認する。
雑談にも応じない。笑いかけても微動だにしない。もはや人間というより、命令にだけ反応する精巧な自動人形だ。
「ねえ、ロイ。一緒にトランプやらない?」
キアラがそう言ってテーブルにカードを並べたときも、ロイは顔色ひとつ変えずに立ち尽くしていた。
「……それは命令ですか?」
「ううん。ただのお誘い」
「……」
「命令じゃなきゃ、やってくれないの?」
「合理性の有無に関わらず、命令であれば従います」
キアラは、もう何度目かわからない溜息をついた。
ロイの目は、けっして冷たくない。冷たいですらないのだ。単純に、感情という回路が抜け落ちている。
別の日には、焼き菓子を作って振る舞った。湯気に絡まった甘い香りが、広間に充満する。バターと蜂蜜をたっぷり染み込ませた、キアラ自慢のスコーンだ。
「はい、召し上がれ」
「……それは命令ですか?」
「ちーがーう。おいしいから食べてほしいの」
数秒の沈黙のあと。ロイは、スコーンを手に取った。整った指先でそれをふたつに割り、無表情のまま口へと運ぶ。
「……あなたって、いつもそんな感じなの?」
「そんな感じ、とは?」
「感情が平たいってこと。怒ったり、喜んだり、悲しんだり……しないの?」
キアラの問いに、ロイはわずかに間をおいて返した。
「それらを必要とする訓練を受けていません」
「……誰かを、愛したことは?」
ロイの眉が、かすかに動く。
ほんの一瞬の揺れ。けれど、それは即座に消え、元の仮面のような表情に戻った。
「記憶にある限り、ありません」
「……そっか」
ぽつりと、キアラが呟く。彼と過ごして以来、ぽつんと心に灯った寂しさが、胸を締めつけた。
女王ルミエラは言った。彼は、自分にとって、最も信頼できる存在になるだろうと。……はたして、そうだろうか。
繰り返される命令と従順の往復。どうしたって埋められない空白。ふたりでいるのに、ひとりぼっちのような。
ここへ至るまでに、彼はいったいどんな人生を歩んできたのだろう。育ての親であるグラント大佐以外に、どんな出会いを、どんな別れを、経験してきたのだろう。
無理に詮索したいわけじゃない。ただ、少しでいいから、彼に近づきたかった。
いくらカードゲームが得意でも、いくらお菓子作りが得意でも、そんなものはこの際意味がない。
それでも。
「ねえ、ロイ」
「はい」
何かを変えたくて、諦めたくなくて、キアラは勇を鼓して立ち上がった。
「あなたに『命令』させてちょうだい」
真剣な眼差し。
子どものようで、大人のような、まっすぐで清かな光。
「あなたが従うのは、陛下からの命令だけでいいわ。つまり、わたしの護衛だけ。それ以外は、できる範囲で構わない。やりたくなければやらなくていいし、食べたくなければ食べなくていい。嫌なものは嫌でいいの」
「……」
「わたしのこと、鬱陶しいって思ったら、無視したっていい。……なんていうか、ちょっと……ううん、すごく悲しいけど、そのときは我慢する。あなたの心に浮かんだその気持ちを優先して。これはお願いじゃなくて『命令』よ」
小さな希望と大きな覚悟。その両方を宿した、静謐な眼差し。
おかしなことを言っている自覚はあった。子どもっぽいということも。だが、こうでもしなければ、前に進めない気がした。
ふっと、空気が揺れる。ロイの視線が、一拍だけ足元に落ちた。
そうしてすぐさま視線を持ち上げると、静かに、けれど、確かにうなずいた。
「……努力、します」
「……っ、ありがとう!」
ロイの新しい反応に、キアラの顔がぱっとはなやいだ。まるで陽だまりに咲くマーガレットの花のように、可憐に。
一方、ロイの面差しに依然として色はなかったが、その声音には、ほんのわずかだけ温度があった。
初夏の日差しが、室内に溶け込む。
まだ名もない感情が、ふたりのあいだに、ゆっくりと芽吹き始めていた。




