第1話:起動
初夏の王都は、爽やかな風と穏やかな日差しに包まれていた。
単に季節のせいだけではない。この都市、否、この国そのものが、女王ルミエラの慈愛と惰性にも似た平和により、緩慢に息づいていた。
しかし、王家にゆかりのあるヴァイザー家の周囲には、その凡庸な安寧から切り離されたかのように、張り詰めた空気が漂っている。
さながら群青の絹を広げたように、深く澄み渡った晴天の午後。
ヴァイザー家の新たな当主となった少女——キアラは、王都北端の丘陵に佇む屋敷の広間で、ひとり立っていた。
齢わずか十五。肩口で揺れるローズゴールドの髪は光を反射し、星屑のようにきらめいている。ドレスの裾をきゅっと握り締める仕草は年相応であるものの、凛とした青の中心に夕陽のような橙が浮かぶ双眸は、見る者すべてに不思議な印象を与えた。
まもなく、この屋敷に、ひとりの男がやってくる。キアラの護衛として、王宮から遣わされた人物——。
元特殊部隊所属の退役軍人。それ以外の経歴は伏せられていたが、命令には絶対忠実であると、女王ルミエラが直々に保証した男だという。
ふう、と。キアラは、短く息を吐いた。
緊張で落ち着かない。ようやくひとりの生活に慣れてきたというのに。
——ザザッ。
不意に、視界が歪んだ。
砂嵐のようなノイズが奔走し、ざらついた灰色の粒子が世界を覆っていく。
「……っ、また……」
反射的に瞼を閉じ、こめかみを強く押さえた。耳の奥で、古い受像機が壊れたような、不快な音が鳴り響く。
この症状が現れ始めたのは、三か月前。両親を交通事故で亡くした、あの嵐の夜からだ。
その日、たまたま屋敷で留守番をしていたために自分は無事だったが、警察から連絡を受けた直後の記憶はない。かなり動揺していたのだろう。母方の叔父が対応してくれたそうだが、気づけば葬儀まで終わっていた。
両親の事故の詳細は、いまだ不明のまま。もしかすると、自分が子どもゆえに伏せられている事実があるのかもしれないが、だとするならば、それは余計な配慮だ。自分は、真実が知りたい。
ドアがノックされたのは、そんな思考の最中だった。
「ど、どうぞ……!」
焦ったはずみで応じると、静かにドアが開いた。
直後。季節外れの氷柱のような気配が、広間に入ってきた。
襟足の伸びたパールグレーの髪。年齢は二十八だと聞いているが、それ以上の風格を感じた。
彼は、キアラの元までゆっくりと足を運ぶと、一礼もすることなく淡々と名乗った。
「ロイ・バージェス。元第六特殊部隊所属。以後、貴女の命令に従います」
低く、深く、よく通る声。まるで教科書を読むような抑揚のない響きだった。
キアラは目を奪われた。彼の、その目に。
彫りの深い目元に嵌め込まれた、幻想的なアイスブルー。だがそこには、笑いも怒りも慈しみも、なかった。
端正で無機的。まるで、心が抜け落ちているかのような。
「はじめまして。わたしはキアラ・ヴァイザー。よろしくね、ロイ」
緊張で身体を強張らせながらも、キアラは手を差し出し、精いっぱい微笑んだ。年齢の割に落ち着いた、けれど、どこか子どもっぽい挨拶だった。
ところが、ロイは応えてくれなかった。不思議そうに、キアラが首を傾ぐ。
「……どうしたの?」
「貴女の手に触れてよいという許可を得ていません」
ぴしゃりと断ち切られるような返答に、思わずキアラは目を丸くした。
「許可がないと、ただの挨拶もダメなの?」
「許可及び命令されていない行動は、原則として取りません」
「そっか。じゃあ、許可するね。触れていいよ。……これからよろしく」
「承知しました」
機械的な応答。小さな手に、大きな大きな手が結ばれた。
キアラの胸中に、少しの安堵と一抹の不安が入り交じる。
これが、ふたりの始まり。
王国史上またとない、奇妙な主従関係の始まりだった。




