五(最終話)
さよならの日は、いつも通りだった。
週末だからか境内には人影絶えず、常に輪をかけてニノメは丁寧に朱印帳へ筆を走らせたし、オノイチは夜風ですっかり落ちたイチョウの葉の片付けに追われ、遠海稲荷の朝昼夕はあっけないほどあっさり終わった。
いつもと違うところといったら、オノイチが始終ニノメの具合を気にかけることぐらいか。
「仕えるべき主どのに怪我をさせるようじゃ、眷属失格だ」
何かと仕事を手伝いに来てはぎゅうと青い目を細め、なぜだか自分をひどく責めているようだった。
瞬きする間に夕陽は海へぽとんと落ち、白波を金と銀に思うさま輝かせて夜を呼んだ。
週に一度、日曜の晩はニノメの楽しみがある。
少しだけごちそうを作る。
母やきょうだいとわいわい囲んだ大好物だ。みんながいなくなってからも、ひとりでこの習慣を続けてきた。
卓袱台にドンと載せた大皿に、ずらりとならぶ狐色のいなり寿司。
甘っぽい味がひたひたに染みたおあげに、五目を混ぜた酢飯がきゅっと詰まっている。細く薄くきざんだ椎茸、蓮根、人参、筍。かんぴょうにも味をしっかり。噛むたび味が舌で踊る。自慢の味だ。刻んだ大葉や、紅ショウガのみじん切りも添えている。ちょっぴり乗せて薬味の香りと刺激が加わると、またたまらない。
はずだ、いつもなら。
ニノメは小さくひとくち口に運んでは、ぱたん、ぱたんとふさふさのしっぽを揺らした。いつもは自然とそうなるのに今日はわざと動かしている。おいしいのに、噛んでもじゃりじゃりするばかりで、少しもうれしくならない。
向かいのオノイチはどうなのだろう。
すんなりした毛長の白い尾は先っぽをゆらゆらさせている。大きな手は鼠でも捕まえるように、忙しなくいなり寿司を掴んでは口に放りこむ。
いつも通り、ちょっと食べ過ぎみたいだ。
「オノイチ、明日の朝ごはんの分まで作ったつもりだった」
「よけておくべきだったな。狐はおあげに弱いものです。じゃあ最後にもうひとつ」
オノイチはすまし顔で、四つ並んだお稲荷の右端をひょいとつまむ。「もお!」と怒るそぶりの苦笑いにはあまり咎める響きはない。
三つも残ればいい。
オノイチの分は、明日はいらないのだから。
途端、胸の中を掻きむしる嵐が起こった。
ぺろりと親指を舐めたオノイチがニノメを見る。
「なあ、ニノメ、今夜は──」
「ごめん! 私、もう寝る。昨日のことでとても疲れてしまって」
遮って早口にいい、ニノメは逃げるように居間を立ち去った。
縁側を早足で歩く。
広いガラス窓に満月が映っている。希望みたいに輝くくせに、あの月はニノメからオノイチを奪っていくのだ。
畳敷きの自室に飛び込んで、叱られそうな勢いで障子を閉じた。
昨日から敷きっぱなしだった重たい布団にもぐりこむ。
もう早く明日になってしまえばいい。
ちゃんと別れも言えない薄情な自分が、嫌でたまらなかった。
くちびるを噛んで小さくなるニノメを知っているかのように。
「ニノメ。いい月だよ」
障子越しに、鼓動を跳ね上げる呼びかけが届いた。
声の主は尋ねるまでもない。
ニノメは深くかぶった掛け布団をおそるおそる押し下げる。
月光に青白い障子の向こうに、オノイチの影があった。
座り込む気配がある。あわてて布団を退けようとする仕草を見ていたように釘をさされた。
「出てこなくていいですよ、主どの。そのままでいい。少し話がしたかっただけだから。起きていたでしょう?」
「うん……。でも──」
「俺の役目は今日でおしまいなので」
絶句してしばらく戻せなかった返事を、オノイチは急かさなかった。
「……知って、いた?」
「まあ、ねえ……。眷属の〈お約束〉なので」
しゅるんと衣擦れの音がした。オノイチは体の向きを変え、障子の境目に寄りかかったようだった。
満月を、見ているのかも知れなかった。
「…………」
「なあニノメ、あのヤバ……すごい薬、本当はなんだったんです?」
もう黙っている意味もない。
声が震えないよう息を大きく吸って、ゆっくりと告白した。
「オノイチに、ずっとの命を、もらいたかった」
「……ずっとの?」
「そう。でも、やっぱり、神通力が足りなかったの。失敗だった」
「そうか。早く言ってくれりゃよかったのに。もう少し神妙な心持ちで飲めた。……てっきり、みんなわかっていて、俺に罰を与えているのかと」
最後の方はもごもごとしてうまく聞き取れない。
小さな異和には気づかず、空回りを知られた恥ずかしさで、ニノメは布団で鼻を隠した。声が籠る。
「ごめんね。毒にも薬にもならない変なものを飲ませてしまって」
それでもちゃんと音を拾ってくれるオノイチは、弾けるように笑い出した。
「変な……ハハッ! そうだな、きっと二度とは出会えない味だった。いや、おいしかったですよ。心にはね。主どのが俺のために懸命にしてくれたことですから。フフッ。ああ、本当に──」
「そんなに笑わなくても。悪かったと思ってる」
境界線の向こうを窺えば、笑いを収めたそぶりでいてときどき堪えるように肩を揺らす影が月明かりで明らかだ。
「俺はね、ニノメのそういう懸命なところが好きだった。あと、筆跡がとても綺麗なところもね。楽しかったよ、俺は。お前の眷属として働けて」
オノイチが何をしにきたのかはもう疑いようもなかった。
「……お別れを、言いにきてくれたんだね」
「ああ、ケジメをつけたい。なあニノメ。主どの。俺はあんたの眷属だ。もういいというまで、そばにいます。とお誓いしました。役目を解いてくれますか」
また影がくるりと動いて、オノイチが姿勢を正す。
影が低く小さくなる。
あの美しい所作で頭を垂れているのだろう。
ニノメは起き上がる。息を溜める。
凛と、声を張った。
「遠海のニノメのオノイチ。もういいよ。よく働きました。役目を解きます。お疲れさま。……いてくれて、とてもうれしかった」
最後までちゃんと言った。
倒れ込むようにして、布団を頭までかぶる。
それを合図に、障子の向こうの気配は煙のように消え失せた。
悟って、さむがりな狐の仔のように丸くなってしっぽを抱いた。
ぎゅうと目を閉じ奥歯を食いしばる。
喉を絞って「うう」と唸った。
「……いなくなって、ほしくなかった」
ニノメには、真っ暗な夜だった。
◇◇◇
翌朝は快晴だった。
こざっぱりと身なりを整え、縁側に面したガラス戸を開ける。
濡れ縁に、少し萎びたイチョウの葉っぱが落ちている。
真ん中に切れ込みのある扇型。
よい眷属が来てくれるよう、新月の晩に軒に下げた黄金色の葉。
ニノメは軸をつまみ、まだ白っぽい青空に透かしてくるくる回した。
これがオノイチだ。
狩りも神社のおつとめも上手。よく喋ってよく笑って、あっという間にニノメの日常になった。
「おはよう」と「おやすみ」を言いあえる二週間がどんなに嬉しかったか。とうとう伝え損なってしまった。
苦く笑う。
葉を落とした大イチョウが、濡れ縁から見渡せた。
奇跡みたいに現れた白狐の人狐。
眷属を呼ぶ術は大の苦手だったのに。
「もしかしたら、なにかコツを掴んだのかも……。なんてね」
呟いたら、さみしさの隠れた笑みがこぼれた。
また、次の新月には術を結ぶ。
新しい眷属に出会えるだろう。
でも、もし、できるのなら、……次に逢うのも。
ニノメは琥珀色の瞳を閉じた。
「オノイチがいい」
「そりゃよかった。このオノイチでよければ、よろしく頼むよ」
間近の声に肝がつぶれ、目を開けたところにいた何者かは、あまりに見知ったオノイチで──。
ニノメは、金切り声を上げた。
しっぽはぴんぴんにトゲの立ったタワシのようにふくらんで、ニノメは目を白黒させた。
「すまない。落ち着いて。驚かせて、ごめん。本当に……」
オノイチは狼狽するばかりだ。ぎゅっと身を縮めてぶるぶる震えるニノメの肩口をさすり、眉を下げ神妙な顔つきで「すまない」と繰り返した。
「消えてしまったはず。もしかして、……あの変な薬が効いて?」
「いや、そうじゃないんだ」
思い当たる節で前のめりになるのをあっさり裁き、オノイチはゆるく首を振った。
「種明かしというのもおかしいが……。遠海のニノメ。俺は、学舎にいた花嶋のオノイチだよ」
ニノメは息を飲み、目の前にいる青年を上から下まで丁寧に眺め回す。
名前は確かに知っている。
こんなに背が高かっただろうか。こんな目の色をしていただろうか。ああでも、稲荷の神使にふさわしいとても美しい白狐がいたことだけはニノメも覚えている。
──同級生。
記憶が芋づる式に溢れ出すと、耐えられないほど恥ずかしくなってきて、ニノメは肩をさする手からじりじり逃れてつま先を見た。
「まあ覚えていないよなあ。あんたいっつも下を向いていたから。でも、何度か話をしたことはあったんだぜ?」
うつむいた先で、垂れた白いしっぽが困りがちに揺れている。
ハッとする。
『遠海のニノメは、本当に字が綺麗だな』
『なあ、遠海ってどんなところなんだ』
下げた視界の端で、時々楽しそうに揺れていた白尾。
「ああ、あ、あの、時々、話しかけてくれていた……」
烏瓜よりも赤くなったニノメは、つっかえながら思い出をたどり、ぎこちなく首を捻った。
「でも、あの、どうしてここに?」
尋ねるとオノイチは頭をかいた。
「うちの花嶋稲荷は姉のイチメが継いだけど、ツガイの婿殿と折り合いが悪くて──まあ追い出されたんだ。旅でもしようかと考えたけどあてもなくて……。そうしたら、学生のころ『遠海はどんなところ』と訊いたとき『良いところ』とニノメが返事をしてくれたのを、ふと思い出した」
そういえば、そんな話も確かした。
ニノメのまなこは、まだまんまるのままだ。
「だけど、ただ訪ねてもびっくりさせると思って。そうしたら、新月の晩、軒に葉が吊るしてあったから、眷属になりかわるのを思いついた。お前が創ったのは、あの日は蝶々だったからな……。代わってもらったんだ」
ニノメはもう頷くばかりだ。
蝶々という残念すぎる結果もさることながら、気安く家族のように話しかけていた日々を思い出しては目眩に襲われる。
「初めは、すぐに言い出すつもりだったんだぞ。だけど、俺を眷属だと信じ込んでいるし。それに、だんだんと打ち解けてくれるのが嬉しくて、言い出せなくなって」
「そう、だったんだ。ご、ごめんね……」
「お前があやまることはなにもない。結果的に騙し続けたんだ。怪我までさせて、悪かった」
オノイチは垂れていたニノメの手をとると、少し持ち上げてそっと額を当てた。昨日ひねった手首には湿布と包帯が巻かれている。
ニノメはゆでダコになって、ぶんぶん首を左右に打ち振った。
「人狐だもの。こ、こんなのすぐに治ってしまうから。でも、ど、同級生。本当に、は、は、恥ずかしくて……。学舎では、私は落ちこぼれで、叱られてばかりで」
もう逃げ出してしまいたいとさえ思うのに、オノイチときたらニノメの手を握って離してくれない。
「うん。でもいつも、最後までやり遂げていた。秘薬を作ったときのように、自分が納得するまで。ここを一人で守っていたことも、わかった。ニノメはすごいよ」
「う、…………あり、がとう」
褒められ慣れなさにしおしお萎れ、蚊の鳴く声でする返事を今度もオノイチは、ちゃんと待ってくれていた。
「それで、だ。眷属としてじゃなく、花嶋のオノイチとして相談したい。もし、許してくれるなら、……俺が役に立てるなら。もう少しここで働きたいと思うのですが」
どうだろう?
オノイチは、拒絶を見越した沈痛な面持ちだ。
でも、答えはもちろん決まっていた。
我慢していた全部が鼻の奥をちくちくさせていた。
「そんなの、そ、そんなの。う、嬉しいに決まってる。だって、オノイチに、ずっと、いてほしかったんだから」
耐えてひと粒だけにした、大きな雫が頬を落ちた。
キラッと光ったそれを指先で拭い、オノイチは繋いだ手を解くと身を翻してくるんと宙返りする。
そして、白狐のしっぽを三度揺らして礼を尽くした。
とびきりの笑顔でだった。
「花嶋のオノイチ、遠海のニノメの〈なにか〉にならんと、お働き申す。どうぞこれからもオノイチとお呼びください」
しゃんと背を伸ばし、あの日のように頭を垂れる。
大イチョウの向こうから、まばゆい朝日がふたりを照らしていた。
おしまい




