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光の雫、影の帳  作者: 『光の雫、影の帳』制作委員会
遠海稲荷のニノメとオノイチ/七ツ樹七香
37/38

 東から登る月は、九分九厘ふくらんでいる。

 社の裏手から見える海はとうに闇だ。

 ニノメが神社に帰り着くと、オノイチは右肩のあたりに狐火を灯し、苛立たしげに純白の尾を振り戸外で待っていた。

「ニノメ、遅かった……な、おいっ、どうした!?」

 玉砂利を蹴立てて駆けてくる。

「オノイチ。遅くなってしまってごめんね。今日は大丈夫だった?」

 ニノメの服はあちこちかぎ裂きで、手も足も擦り傷だらけだ。

「こっちは問題ない。けど、あんた、なにをやってきたんだ」

 苦々しい顔つきでニノメの顎に指をかけ、頬の掻き傷を確かめる。息がかかる顔の近さに慌てる隙に、次は左手を取られた。ひねった手首の痛みに顔をしかめると、彼はいよいよ眉を寄せた。

 けれど、ニノメは誇らしげに腰の籠を叩く。

「なにって、材料集め。ほら、みんな見つけたんだから」

 オノイチは一顧だにしない。

「そりゃよかったよ。早く来い。ひどい怪我はないのか? 手当てを──」

「平気。あのね、急ぐの。今日中にみんな煮詰めてしまわないと」

「そんなの明日にしろ」

 ピシャリとした一喝は、しかしニノメの肩を縮めなかった。

 明日はもう、満月なのだ。

「今日でなければ、いけない!」

 ぞわっと産毛が総毛立つ。手を引く力に渾身で抗う。

 常のニノメからは考えられない強い抵抗に、オノイチが怯む。

「ん、……わかった。でも、先に汚れだけでも流して手当てをしなくてはね。稲荷の神職がそんななりじゃ天狐さまにも厭われますよ」

 短い息で苛立ちを逃すのが見てとれた。オノイチなりの切り替えなのだろう。次の口調はいつものように軽かった。

「さ、手伝います。今日は嫌とは言わせませんよ。俺は何をしましょう、主どの」

 わきまえた眷属のそぶりで、オノイチは小さく肩を沈ませた。



 ニノメは袴を着けると、急ぎ薬作りに取りかかった。

 オノイチがしかめっつらできっちり手当てしてくれたおかげで足も腕も絆創膏や包帯だらけだ。

 身を清めて本殿の天狐さまに参り、瓶子に入った御神酒を下げさせてもらう。

 台所に駆け込んで酒を鍋にあける。沸かして、ちぎった冬蓬を放ることから始めた。

 煮溶かして薬湯(やくとう)を仕立てるのだ。

「ええと、次は母子草。オノイチ、ミミズを黒焼きにしてくれる? 外の七輪、炭は狐火を放り込めばすぐだから」

「なあ主どの、俺、本当にこれを飲まなきゃいけません? ちゃあんと働いたでしょう。今日だって」

 うらめしげに語りかけるのを無視すると、オノイチはミミズを握りすごすごと勝手口を開けた。

 濃い緑の葉から溶け出した黄色い汁は他の材料を入れるにつれて、だんだん濁っていく。

 次は熟した烏瓜。結び文みたいな形の種を取り出し、薄い皮だけをこまかくちぎる。柿と山葵はすりおろした。腕は痛むしくたくただ。

 弱火でくつくつと煮詰めてゆく。

 からからに焼いたミミズをすり鉢で念入りに粉にして、合図に応じ鍋にさらさらと注ぐオノイチは、もう諦め顔だ。

 初めのよい香りはどこへやら、今は鼻の曲がりそうな薬くささが台所に漂う。

 絶え間なくかき混ぜる鍋の中身は、だんだんと粘りが出てきた。

 とろみのある薬湯に、ぷくんと大きな泡が弾けると、ニノメはふうっと吹いて自身の神気をこめていく。

 そのたび淡い金色の光が灯る。

 ニノメの力を吸った薬湯は、不思議と濁りが引いてゆき、葛を溶いたようなとろみのある汁に仕上がった。

 早鐘の胸で、白磁の湯呑みに注ぎ移す。

 最後の一滴までへらでかすってぽとりと落とし、とうとう秘薬はできあがった。 

 檜の三宝にのせ、捧げもつ。

「オノイチ、できたよ。外へ行こう」

 熱々と湯気をたてるうちにと、眷属を急き立てる。

 ざわざわと山を騒がす風が出ていた。

 ちぎれ雲がさあっと晴れて、天頂にまだ満ち足りぬ月が輝く。

 オノイチを控えさせ、ニノメは薬湯に月を映すと、高く頭の上まで掲げ古式ゆかしく祝詞を唱えた。

「かけまくもかしこき天狐の(みこと)に遠海のニノメ、かしこみかしこみもうす──」

 どうか、どうか、オノイチに健やかな永の命をください。

 心で唱えて、風に逆らいしっぽを左右に三度払う。

 薬を眷属に差し出す。

 ニノメだって、わかっている。

 自分が天狐さまのような神通力を持っていないことぐらい。

 稲藁より頼りない希望に縋っていることぐらい──。

 薬湯をじっと見つめてオノイチは、なにか考え込んでいるようだった。物言いたげに見えた蒼の瞳はニノメが促すように名を呼ぶと、パッといつもの明るさを宿し直した。

「ねえ、主どの。これ、本当に毒じゃないです? 俺、死にません?」

「大丈夫、たぶんひどく渋くて苦いだけ」

「うれしくねえなあ。でも、信じますよ。明日俺は、元気になるって。ね、ニノメがいいというまで、そばにいなくちゃいけませんから」

 ニノメの胸に深く刃を差し込んだことを知らぬまま、オノイチはひと息に湯呑みの中身を飲み干した。

 味は……、肩と首をすくめ口をすぼめ、しばらくもどかしげに足踏みをしていた様子で概ね推し量れた。

 ニノメは、ようやっと肩の力を抜いた。

 それが安堵なのか、もうこれでダメならという諦めなのか、胸の中身がもつれきっていてわからなかった。

「……オノイチ。今日は、ごめんね。ありがとう。おやすみ。また明日」

 変化を解き、寝ぐらにしている縁の下にとぼとぼ戻っていく白狐の背を見送った。

 祈る。

 天狐さま、老師さま、お母さん。みんなみんな力を貸してください。

 そうしたら、遠海を守って、幸いを祈って、ひとりでだってニノメはきっと頑張りますから。

 長い一日でクタクタの体を布団に挟み、ぎゅっと目をつむっても、目の前は真っ暗なばかりで夢もなにも訪れない。

 秘術の成った眷属は朝には黄金色の神々しい狐に変わるという。

 まんじりともせず白む空を待ち、雀の囀りで飛び起きる。

 ニノメは扉を壊さんばかりの勢いで縁側の雨戸を開けた。

 金色を、夢見た。

 いつものようにオノイチはそこにいた。

「おはよう、ニノメ。見てみろ。体の調子がいいような気も、しなくもないぞ」

 そういってオノイチは、美しいとんぼ返りを披露する。

 濡れ縁の向こうにいたのは、とてもとても美しい白狐だった。

 右に左にひらりひらりと跳ねてみせる。

「そう。よかった……。よかった」

 ニノメは、震えそうな唇を隠して笑った。

 今夜は、満月だ。


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