三
コトリ、と筆を置く。
十枚の御朱印の書き置きを仕上げると、朝ぼらけの遠海稲荷でニノメは宣言した。
「オノイチ、一日不在にするから私の代わりにお参りの方への対応やお勤めをしてほしい。ほら、御朱印は〈書き置き〉を作っておいたからこれをお渡しして。日付は頑張って書き入れてくれる?」
「承知しました。それくらいならお任せを。でもなあ、今日の不在って、あのやば……ありがたい薬の材料を取りに行くんだろう? 俺はご覧の通り元気そのものなので、あきらめません? ……ダメか、あんた結構頑固者だし」
「よくわかってるね。遠海のニノメは弱虫だけど諦めが悪くて頑固なの。母さんもよくいってた。じゃあ、お願いね」
「承知しました。主どの、早く戻ってきてくれ」
肩を落としていた白袴のオノイチは静かに纏う空気を変えると、スッと頭を垂れる。
礼を尽くした角度でぴたりと止まる、端正な仕草だった。
眷属はニノメの命を分けたものだから、礼法や祭祀の知識が身についているのは不思議じゃない。だが、オノイチの立ち居振る舞いはいつも、とても堂々として立派だ。
祭礼の最中の自分をまじまじと見る機会はないからわからないけれど、もしかしたら自分も同じにきびきびとおつとめを果たしているのかもしれない。
ちょっとくすぐったい気持ちが湧く。
だとしたら、自分もなかなか悪くない。立派な眷属を生み出せる人狐に近づいている可能性は、なきにしもあらずだ。
オノイチに見送られ、ニノメは遠海の山の裏手に飛び込んだ。
ぎゅっと目を閉じ、また祈る。
「大きく賢き天狐さま。遠海のニノメに、どうかお力を貸してください」
身軽な格好で腰にフタつきの籠を下げ、いつも陽の高い間は隠しているしっぽも耳も鼻も開放する。
途端、森の息吹が全身に流れ込む。
十一月の風の音、冬備えの草木の匂い、秋を寿ぐ鳥や獣の動く気配。五感が拾いすぎるから、実のところニノメはあまり狐に戻るのが好きではない。けれど、今日のような仕事をするには敏感な鼻や耳は素晴らしい道具だ。
山を治める人狐が来たと、早耳のシジュウカラが騒ぎ出す。
彼らから隠れるように、薮伝いにニノメは仕事を始めた。
「ええと、薬草の類は、母さんが教えてくれたところにみんなあるはず。渋柿は確か麓に近い廃屋に……」
メモ書きを確認しながら、籠にまずゲンノショウコを放り込む。大昔から人間や獣、人狐たちの間で重宝されてきた生薬だ。
今日回るつもりのルートを構築しながらふと昔を懐かしむ。
母やきょうだいがいたころは、野山をもつれて駆け回り薬草採りをしたものだ。
遠海の人狐のきょうだいは仲良しだったから。
みんなで神社をを守っていくのだと疑いもしなかったのに。
きょうだいたちは、適齢になると哀しいほどあっさりツガイを見つけ、この地を去ると決めてしまった。
『ごめんね、ニノメちゃん。イチメのねえねは遠くのお山にお嫁にいくの』
引っ込み思案のニノメをたくさん可愛がってくれた、イチメのねえね、オノニとオノミツのにいに。
遠海のオノイチは早くに亡くなっていたから、母が病に倒れると、あっという間にニノメはひとりぼっちになった。
時折のお手紙だけが繋がりになるなんて思いもよらなかった。
家族が幸福なら嬉しいし、幸い独りで居るのが苦痛な性質ではなかったから、ひとに思われるほど辛くはなかったけれど──。
みなでにぎやかに過ごすのを見つめ、ただにこにこしていられた時が二度と戻らぬ現実は、ニノメにときどき膝を抱えさせた。
スンスンと鼻を鳴らし、落ち葉をそうっとかき分ける。
「山ミミズ、山ミミズ……あっ、いた!」
上等の大物だ。飛び出してうねる黒光りの大ミミズをギュッと押さえて捕まえる。指の間からすり抜けそうになって慌ててもう一方の手を添え、ぬめりを虹色に光らせる軟体を籠の中に押し込んだ。
「よかった」
ふう、とひと息ついて額を袖口で拭う。どの材料も、探さなければ山のあちこちで出会うものなのに「いざ!」と意気込むとなかなか見つからなくて気を揉んでいた。
葉を落とした木々の間から空を見る。太陽は西に傾き始めていた。
すうっと冷たい風が森を抜けて、ニノメは肩をすくめた。
書の筆を置いたとき、本を読みやめたとき。
その年最後の、イチョウの落ち葉を掃き終えたとき。
ふと胸を締めつける突然の寒さは、あまり好きではなかった。
創った眷属がトカゲでもミミズでも、いてくれるだけでニノメの寒さはいつもほんの少し和らぐ。
だから、すこし欲張りになってしまったのだと思う。
オノイチが遠海に来て、たった二週ほどなのに。
「ニノメ、おはよう。今日はオノイチに、なにをさせてくれますか。一緒に遊びに行くなんてのも、面白いと思うけどどう?」
もし気安い友だちがいたら、こんな感じだったのかもと知ってしまった。
自分が密かに『誰かと一緒にいたい』と望み続けていたことさえも──。
秘薬の材料は無事集まりつつあった。
抜けがないか、一つ一つ確かめながら山をくだる。
十年前まで老夫婦が住んでいた廃屋。
手入れが絶え、蔓延る草木に飲まれかけた庭には枯れ池のほとりに古い柿の木が立つ。
書物の指示通りの、先の尖った渋柿だ。
「よかった。これで、全部そろう」
幹にサルノコシカケを生やした朽ちかけの古木。登るには適さない。
ニノメは眼差しで枝葉を辿り、よい実を探す。
物置の上にかかる黒々とした枝の先に、一つの傷もないぴかぴかの実がなっている。
ススキを掻き分け、立てかけてある木の板を足がかりに、物置の天板に手をかける。ぐっと身体を持ち上げてギシギシと鳴る足場を一歩一歩確かめた。
手を伸ばす。指がかかる。
もう少し、とつま先に力を込めた瞬間。
バキリ、と足元が鈍い音を立て体が沈んだ。




