二
いつもなら日暮れのあとは、しっぽを出しても耳を出しても構わない、ほっとできる時間だ。
オノイチなんてクルンと宙返りして白狐に戻り山へ狩りに出掛けてしまった。
けれどニノメはひとり、法螺貝を前にうなっていた。
三角の耳は忙しくなくあちこち動き、しっぽもぼわっとふくらんで、緊張しきりだとひと目で知れる。
胸が痛くなるほど息を吸い、練習したフレーズを繰り返す。
「遠海の、ニノメです。お、お元気ですか、老師さま。どうか、教えてください。創った眷属を、ううう、現世にとどめる術を探しています」
できるだけはっきりくっきりと。心がけても声は震えつっかえる。
はああ、と深くため息をつく。
母校である、神使の学舎へ連絡をつける。
眷属を現世にとどめる方法を訊く。
することはたったそれだけなのに、頭がきりきりして眩暈がする。
法螺貝での交信は苦手の極み、思うだけで脂汗が浮く。
姿も見ずに会話するなんて難しいことを、よくみんな平気でこなせるものだ。
でも、もうニノメには頼る先がない。
「老師さまは百年狐。世が世なら天狐の位にだってのぼったかもしれない立派な人孤。きっとなにかをご存じ──」
呪文のように言い聞かせ、だが法螺貝を見ると心がくじける。
なんて自分は情けない人狐なのだろう。
学舎には各地の稲荷神社の後継ぎが学びにきていたから、仲良しの人孤がいたなら、こんな悩みも相談できたかもしれない。
でも、下を向いてもごもごと話すばかりの一年で、ニノメはとうとう友達を作ることなくぎりぎりの成績で卒業した。
ときどきは「とても字が上手だな」「遠海はどんなところ?」などと話しかけてくれる同級生もいたけれど、ろくに返事もできなかったから結局は親しくなれないまま終わってしまった。
下を向いたまま見たゆらゆら揺れるしっぽが、同級生との情けない交流の記憶だ。
話しかけてくれて、嬉しかったのに……。
あの後悔を、ニノメは忘れていない。
腕をぐいっと振り分けて、パチンと両頬を引っ叩く。
「挑戦よ、ニノメ」
目を閉じて息を吸う。
法螺貝にふうっと神気を吹き込む。
リン、と澄んだ鈴の音みたいな響きを合図に、大きな巻き貝の口に向かって「神使の学舎へ!」と呼びかける。
パン、と柏手を打つ乾いた音がしたと思った次の瞬間。
『ハイハイハイハイ!! もしもしもしもし??』
尻餅をつきたくなるほど大音量であふれ出した老師の声に、負けぬようニノメは声を張り上げた。
「と、ととと、と、とみっ、遠海のニノメですっ。あの。だから、あのっ、老師さま、どうかお力を貸してくださいッ!!」
『はあ? うちはそば屋じゃないんだがねえ』
ニノメの希望の光は、ちょっとだけ耳が遠い。
まだもう一段、声量を上げなくてはいけないようだった。
◇◇◇
耳は遠いが、学舎の老師は耄碌狐では断じてない。
その晩のうちに、鈍色の大きなフクロウが二つの山を越え飛んできた。老師の眷属だ。
鋭い鉤爪に古い書物を結んだ組紐をぶら下げていた。
「本当にありがとう。老師さまによろしく伝えてね」
元が葉っぱだと思えばそう緊張もしない。
上等の山ミミズを駄賃に渡し、音のしない羽ばたきを見送ってニノメは本を胸にぎゅうっと押し付け抱きしめた。
法螺貝の話し口で繰り返し説明の末、ようやく話の骨子を掴んでくれた老師は神妙に語った。
『ははあ、なるほどな。遠海のニノメ、お前さんがやろうとしてるのは、相当に難儀なことだよ。天狐さまぐらいの神通力をもってするなら、秘術も成るやもしれないが。まあ、そんなに立派な眷属が作れたというなら、本を送ってやるから試してみるといい。そうしなきゃ納得しないのだろう? お前さんはそういう生徒じゃった。そういえば、なんといったか、覚えておるか……、ええと花嶋の、イチメのところの、忘れてしまったが、お前、親しかったか』
老師は昔話をしたそうだったが、あいにくニノメには友達もいないことであるし、これ以上の会話は前準備もできていない。
イチメという名の姉は確かにいるが、どこの人狐の娘も歳の順にイチメ・ニノメと名付けられるから老師はなにか勘違いをしているのだろう。
老師は話がとても長い。
お礼をいってそそくさと通話はご無礼した。
送られてきた和綴じの本は相当に時代がかかっていて、解読は大変そうだ。
ニノメは書庫に引き篭もると、本と辞書と首っ引きになった。
難易度はさておき、方法がないわけじゃないのなら、こんなに嬉しいことはない。
「ええと、ゲンノショウコに母子草、父子草。烏瓜、この上なく橙のもの。冬蓬……。よかった、今の時期にちょうどいい。ミミズに大きなカタツムリ……それから」
目を皿のようにしてひとつひとつ文字を追いながら、ニノメは手元にメモを残していく。
本の書き手は癖のあるくずし字で、項目を辿るのもひと苦労だったが、眷属に本当の命を与える秘薬は、思ったよりも知っている材料が多かった。
「これは……、今の時期にあるかなぁ」
首をひねるその上から、すっかり聴きなれてしまった声が降る。
「ニノメ、また勉強ですか?」
稲穂色の尾がびくんと真上に伸びた。
「わっ、あ。びっくりした。オノイチ、帰っていたの?」
「ああ。腹も満ちたし。しかし、そんな古い本よく読めるなあ。俺じゃなにもわからない」
夜の狩り、つまり食事を済ませてきたらしいオノイチはまた音もなく帰ってきて、背を丸めるニノメを覗き込んでいた。
もうすっかり人になりを変えていて、この神社での生活にもすっかり馴染んだ様子だ。
頭から湯気を出しながらとはいえ、難解なくずし字を危なげなく読んでいく様にオノイチは感心しきりでいる。
「あ、うん。子どものころから書道だけは得意で、ある程度は。文字をね、読むも書くのもすごく好きだった」
「すごいな。学舎の古文の先生にだってなれそうだ。それで、その手元のメモ、一体なにをするための材料なんです?」
オノイチの命を〈ずっと〉に引き延ばす方法。
だとは、言えなかった。
眷属は自分が有限の命を持つことなんてわかってない。
ショックを与えるのは避けたかった。
ただでさえ、彼らは生と死の狭間に立つ曖昧な存在だ。
意識が揺らげばそのまま術が乱れて解けてしまうことだってあると聞く。
コク、とニノメは息を呑む。
嘘を一つ。
「こ、これはね、眷属が元気に働けるようになるまじない」
「ええっ? 待って、……俺って、元気なく見えるんです?」
「その、もっとピリッと芯が通ると、掃き掃除を面倒だと言わなくなるかもと思って」
「いやいや、面倒だけどおつとめだってのはわかってますって。ああー、もうなにそのやばそうな材料……。一個一個ならいいけど、全部混ぜたらひどい味になりそう」
もう一度手控えを覗き、ぶるぶるっと震えてオノイチは眉を下げた。あまりにしょんぼりみえて笑ってしまう。
「ふふっ、山葵と渋柿も要るんだって。すり下ろすって」
追い討ちをかけると、オノイチは天を仰いだ。
「勘弁しろよ。ちょっとぐらいぐうたらだって、かわいがってほしいもんです」
どんなオノイチだって、本当はいいのだけれど。
そんなニノメの内心を知る由もなく、白狐の眷属は項垂れた。
「仕方がない。俺の主どのの心尽くしとあらば、観念して飲みますか……。ああ、でもせめて、ミミズとカタツムリは別添えになりません?」
味を想像してはあふれるぼやきを聴きながら、ニノメの笑みはわからないほどちょっぴりと、寂しげな色を宿す。
本に示されていたのは、さほど採取が難しい材料ではない。
明日見つけてしまえればきっと、術を結ぶことができる。
安堵してしまいたいニノメの耳元に繰り返し臆病風が囁く。
できる?
天狐さまになんて到底かないっこない、落ちこぼれの遠海のニノメに?
胸に僅かに差し込んだ一条の月明かりは泣きたいほど頼りない。
でも、だけど、それでも──。
そのことばの続きをニノメは胸の内で繰り返した。




