一
夜明け前。裸電球ひとつ吊るされた六畳板張りの書庫。
ほこりっぽい古書が床に散らばり、真ん中に若い娘が座り込んでいる。本を手に、ひどく難しい顔つきだ。
立て付けの悪い引き戸がゴトゴト動く気配にはっとして、寝巻きのニノメは振り返る。
碧眼の青年が、ひょいと頭を出した。
「ニノメ、またここに居たんです? あれ、もしかして寝なかった? もう陽がのぼる。毎晩書庫で一体なにをして──」
「オノイチ、ノックぐらいして。……私のことなら気にしないでいいよ。調べ物があるだけ。ひとりで、大丈夫だから」
答えると、人一人分の隙間からするりと中に入り込んでオノイチと呼ばれた青年は人懐っこい笑みを浮かべた。
「手伝おう。どんな情報が必要?」
「いい。平気」
つっけんどんに黙りこんでもオノイチは笑顔のままだ。
「そう邪険にしなくてもいいでしょう。俺はあんたの眷属なんですから。ニノメがもういいというまで、そばにいますからね。上手く使ってくれりゃいいんです」
見透かしたように片目をわざとらしく閉じるので、琥珀色の瞳で睨む。
「もお! じゃあ、もういいからオノイチは先に社務所に行っていて。そろそろお参りの方がいらっしゃるかもしれないから」
ふさふさの狐のしっぽをパタンと床に打ち付けて、ニノメは眷属に命じた。
「了解、主どの。早く装束に着替えてくださいよ? まだしっぽが出てるぜ。参拝者を迎えるのなら、早くちゃんと〈人〉に化けなくちゃな」
月白色の髪で飾られた形のよい頭を流麗な所作で下げ、足音もなくするりとオノイチは去った。
ニノメは座り込んだまま肩を落とす。
『狐狸化け学大観』『稲荷神使のつとめ』『玉藻前の研究』
細い指で本の表書きをなぞる。
今度ちゃんと虫干しをしないと、とぼんやり思いながら部屋を見回す。壁の三面を埋める本棚に、ぎっちり詰まった古い書物のどれを引き出しても、役に立たない。
この五日で遠海稲荷にある資料は調べ尽くした。
「方法なんて、ないのかな……」
つぶやきは頼りなく揺れた。
オノイチを〈ずっと〉現世に留める手段はどこにも載っていない。
部屋の隅に飾られた鏡を見やる。
毎日おつとめで磨く、神社の書庫を守る銅鏡だ。
狐の足先みたいなこげ茶の髪と白い顔が映っている。早く櫛を通さなければ。おどおどした大きいだけの目の下には、ここしばらくの寝不足でクマができていた。淋しげにへの字になった口元はまったくの不景気だ。
うれしい顔などできそうにない。
『ニノメがもういいというまで、そばにいますからね』
そんなの、無理な話なのだ。
オノイチは、ニノメが創った眷属。
葉っぱに神気を込めて生み出したかりそめの命。
「満月まで、あと三日……」
口に出すとなおさらぞっとしてぶるっと頭を打ち振った。
ニノメは口唇を引き結んで立ち上がる。
まだ、諦めたくない。
パンパンと柏手を打ち、鏡に頭を垂れた。
遠いご先祖の天狐さまに「どうか」と祈る。
オノイチがいなくならないよう、お力を貸してください。
遠海稲荷神社の神職、人狐のニノメは稲穂色のしっぽを三度揺らして最上位の礼をする。
ピンと背筋を伸ばし、腰をポンポンと叩いて立派な尾をするんと消した。
これでもう、すっかり人間の姿だ。
◇◇◇
遠海稲荷は小さいが古い神社だ。
霊験あらたかな天狐を祀り、遠海の山に棲まうその末裔が代々社の守りびとを継ぐ。
いまはニノメひとりが宮司と巫女を兼ね、神社隣りの古家に住んでいた。
田舎町の端から遠海の山を見上げると、頂上の大イチョウを目印に本殿の辺りから、朱の鳥居を連ねた参道が麓までゆるい曲線を描いている。
石畳の参道は途中から苔むした急な石段になっていて、そこから先は空気の締まった静謐な神域だ。
ブナやカシがおおいに繁る山は海を背負い、本殿の裏手からは銀色に光る海が広く見渡せた。
夕陽の沈む凪の海を、ニノメは気に入っている。
今日も、長い石段を乗り越えて参拝者は来てくれたようだった。
「すみません。御朱印をお願いできますか」
近隣に観光地があるでもなく、人気の神社とはいえないが手ずから書く御朱印はひそかな評判で、日に何度かは頼まれる。
浅葱の袴を着けたニノメは緊張の面持ちで挨拶した。
「よ、ようこそお参りでした」
雪輪の吉祥模様に二頭の狐が遊ぶさまが描かれた朱印を、グッと丁寧に押し、心を込め〈奉拝 遠海稲荷神社〉と墨書する。
最後の日付を書き入れるとほっとしてキュッと身の引き締まる気持ちがするのがニノメは好きだった。
「ありがとうねえ。まあ、まだお若いのに立派な字! ねえあなたおいくつなの?」
あわてて人間の歳に換算する。
「ええ、と。じゅうはち、です」
予定にない会話は本当に苦手だ。
「そお、よっぽどお稽古なさったのねえ。すばらしいわぁ」
手渡した朱印帳をうっとり眺めてはにこにこする白髪まじりの女性に、ニノメははにかんで頭を下げた。
口は緊張でもごもごしてしまって、ちゃんと言ったつもりの「ありがとうございます」は届いたかどうかわからない。
ちいさいときから、書だけはニノメの特技だ。
楷書も草書もお手のもの。
遠海稲荷を継ぐにあたり、神使の学舎に通ったころも書道だけはよく褒められた。
ほかは落第すれすれだったから、そんな小さな美点を鼻にかけるわけにはいかないけれど。
「ここは空気がピンとしてとってもよいところね。また来たいわ」
玉砂利を踏む足音が遠ざかり、敷地に人の気配が絶えるとニノメは安堵の息を吐く。
以前はこの時間が一番好きだった。
けれどいまは、完全な静寂にはなり得ない。
ザ、ザ、と落ち葉を掃き集める音がする。
境内の大イチョウの下で、どこか気軽な調子で箒を動かすオノイチがいる。
もっともらしく無地の白袴なんて着けて、すっかりこの神社の一員の風体だ。手足が長くすらりと背が高いのでよく似合う。ふんわり跳ねた髪は陽に透けて銀色。白い狐の耳やしっぽは、陽のある間はちらりとも漏らす気配がない。
ニノメが創った眷属なのに、変化の術が自分より上手い気がして参ってしまう。愛想も良いからその場にいるだけでパッとするし、ちっとも主人には似ていない。書だって全然ダメだ。
『悪い。俺、自分がわかるようにだけささっと書く癖が……。ほかのことで頑張らせてもらえます?』
お勤めを終えた晩方、試しに筆を握らせてみたら卒倒するような悪筆で、ニノメは仕事の楽をするのを諦めた。
オノイチの白いしっぽがしょんぼり垂れていたのは今思い出しても顔がほころんでしまう。
「私が創ったはずなのになぁ」
自分に似ない能力のちぐはぐささえ、あの飄々としたオノイチには合っている気がして、ついついニノメの口元は上がってしまう。
のどがころころ震えて頬がぎゅっと上がる、嬉しい笑み。
彼が来てからいつもそうだ。
「オノイチ、お昼を食べよう」
呼びかけると、あまり大きな声でもなかったのに振り向いて、オノイチはヒラヒラ手を振った。




