終、守り
「かほどに緑が早々と大地に戻るとは」
眼下の緑を眺め、傍らに立つ宰相がそう感慨深げに言った。見上げた円蓋の天頂には、淡く七色に輝く四枚の羽が嵌め込まれている。
陽の神が力を失い、その加護を失った陽の王国の人々は、月の神が自らの国で影を引き受けたおかげで、なんとか日々を繋いでいた。
それから数百年が過ぎ、陽が再び力を取り戻した。影は吹き払われ、日は長く伸びて大地を乾かしあまねく照らす。
だが、やがて人々は異変に気づいた。陽の神はいまだ戻らぬまま。
力を取り戻した陽は大地を灼き、大河もオアシスも干上がった。かろうじて、『影の塔』が作る影によって、都と水源の一部が守られ人々の命を繋いでいた。
さらに百年が過ぎた頃、塔の天頂に埋め込まれていた玻璃の鏡が砕けた。陽の光を吸収し、影をつくり都を守り続けた要を失い、陽の王国はさらに苦境に陥った。
民を守るため、蓄えも宝物も全てを食糧と水に替えて分け与え、自らの身を顧みずひたすらに民のために尽くした王族は皆、早世した。そうして、傍系も傍系、王冠など遥か彼方のものと思い、傭兵として身を立てていたラディールの元に、砂埃にまみれ、くたびれ果てた神官が訪れ、玉座に着くようにと懇願するほどに。
断りきれず、陽の国に戻ったラディールの目に映ったのは、枯れ果てた大地と病み衰えた民。
たとえ、傍系の末の末であっても、王族としての責務は理解していた。何より苦しむ人々を見捨てることなどできなかった。
——だから、この手で。
シーファの羽を切り落とした直後、ラディールは気がつけば、この場所に立っていた。陽の国を守る最後の要、影の塔、その最上階に。それは確かに月の神の奇跡の賜物であったろう。
「まさか、あの玻璃の鏡が『妖精の羽』であったとは」
宰相の感慨深げな声で我に返る。ラディールの即位を誰よりも後押ししてくれた彼は、『影の都』への探索には強硬に反対していた。危険すぎる、と言って。そうして、ラディールの帰還を誰よりも喜んでくれたのもこの男だった。
その彼にも、ラディールはあの都での出来事を一切語っていない。どうやって妖精の羽を手に入れたのかも。この国の誰にも、あの犠牲を知らせるつもりはなかった。
「かつて、天輪の織り手の妖精は、一夜限りの存在だった。月の神はどうせ破棄するものならば、と思っていたのかもな」
「左様ではありますまい。妖精の羽は本来、その存在と同じく脆く儚いもの。それが少なくとも五百年もの間、この塔の要であったのは、月の神の加護あればこそ」
「我らの神は、俺たちを見捨てて久しいというのにな」
「王よ、そのような不敬な言葉は——」
「何よりも慈愛深いものを犠牲にして、守り続けられるなど」
今でもあの肌の温もりを覚えている。ラディールの体温に温められるような、柔らかなのに無機質な温度。誰よりも楽しげに微笑み、幸せだと語りながら、ラディールにその羽を切り落とすように促した。
その、手応えのなさ。戯れに人形を壊したような、まるで実感のない、それでもこの手で確かに犯した罪の記憶。
この国は、シーファの羽が陽の光を吸い込み織り上げる影で守られている。
どれほどそれを疎ましく思っているか。シーファと過ごしたあの七日間がなければ、こんな風に痛みを感じることはなかっただろうか。
ふと、傍らに立つ宰相が目を上げた。その視線の先には青い尾羽の鳥。足には白い輪がくくりつけられている。宰相はその輪を取り上げ、結ばれていた小さな筒から丸められた書状を取り出した。手のひらに収まるほどの小さなそれに目を通し、彼は首を傾げた。
「どうした?」
「客人の先触れのようなのですが……」
差し出された紙には美しい手跡で古い言葉が綴られている。
『かくも麗しき高き空 ただ貴方の眸を想ふばかり』
「まるで、恋の詩のような」
怪訝そうに首を傾げる宰相の横で、ラディールはそれに気づいた。塔の麓のオアシスに、小柄な影が一つ。
唖然とする宰相に構わず階段を駆け下り、柔らかな緑の草原に囲まれた地面を走る。そうして、オアシスを前にしてラディールは足を止めた。
泉に無邪気に手を浸しているその横顔は、最後に会った時と全く変わらない。ただ、白い踊り子のような軽装の代わりに、厚手の日除けの外套をまとい、フードで覆っているのがやけに重たげだった。
これが夢ならば、醒めなければいい。あと数歩を踏み出せず立ち竦むラディールに相手はそんな彼のためらいなど一向に気にした様子のない、軽やかな動きで立ち上がった。
「やあ、ラディール。本当にあなたの国は遠いねえ!」
フードを下ろし、露わになった淡い金の髪は少し埃にまみれている。それでもその美しさは、変わらないどころか、満面の笑みで輝かんばかりだ。気がつけば、抱きしめていた。
「俺のこの半年間の後悔と罪悪感をどうしてくれる」
「ええ⁉︎ それはすまなかったねえ。人の子の身では飛んでくることもできないし」
「人の子?」
「そう、言ったでしょう?」
間近で柔らかく笑う気配がする。抱きしめたまま、ほんの少しだけ腕を緩めてその顔を覗き込めば、悪戯っ子のような笑みがそこにあった。
——御神はすべてご存じだと。あなたの願いも、そして、私の想いも。
たとえその出会いが神の導きによるものだったとしても、覚悟も、そして選択も彼らのもの。
「……俺にも言うべき言葉があるんだがな?」
「それはぜひ聞きたいな」
屈託のない笑顔で、何のためらいもなく両手を広げるその姿はあまりに自由で、だからもうラディールはただ引き寄せて、その顎を掬い上げた。
彼女が知らない、そして彼自身も自覚していなかった、その熱を伝えるために。
<了>




