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光の雫、影の帳  作者: 『光の雫、影の帳』制作委員会
玻璃の天蓋/橘紀里
31/38

四、月耀の天輪

 翌日、日が沈む頃に宿を訪れたシーファの様子は、ラディールには普段と変わりないように見えた。二人でロヴィが用意した少し早い夕食をとり、普段と変わらぬ挨拶をかわして宿を出た。ロヴィはわずかに眉根を寄せたが、後で自分も向かうから、とそれだけ言って彼らを見送った。


 月の塔は、『影の都(タッドースク)』の南のはずれにあった。東から昇った月は、もう南天に近く、真白い光を放っている。シーファは塔から少し離れたところで立ち止まり、()(びさし)をしてその真円を眺める。

「今日はひときわ綺麗だねえ」

「そうか?」

「きっと天輪も美しく織り上がるよ」

 笑いながら、その場で軽やかに片足でくるりと回る。淡い金の髪がふわりと舞って、一つだけ残された貴石の飾りがしゃらりとさやかな音を立てる。体重を感じさせない動きで、指先で天と地を指し示しながらゆるやかに舞うその姿は、この世のものならぬもののように見えた。淡い金の髪がふわりふわりとベールのようにその身を包み、また華やかに飾り立てる。

「シーファ様、祈りを捧げられるなら、塔の上で」

 割って入った静かな声に、シーファはぴたりと動きを止めた。軽やかで楽しげな気配がすっと消えて、ただ静かな——人形のような表情で声のした方を見つめる。

 二日目に宿に訪ねてきた神官と同じような——それよりも明らかに緻密で美しい刺繍のある白い衣装をまとった青年。歳の頃はラディールと同じくらいだろうか。背の半ばまである、シーファとは質の違う濃い金髪に、宝石のような鮮やかな緑の瞳には不思議な熱情のようなものが見てとれた。

「まだ時間はあると思っていたけれど?」

「もちろんです。ですが、お客人を立たせたままというのもいかがかと」

「この国に着いて以来、『織り手の君』のお供で歩きっぱなしだ。そんなにやわじゃない。だが、お気遣いはありがたく受けておく、神官長殿」

 からかうような言葉にも青年は動じる様子もなくラディールに向き直り、優雅に一礼した。

「申し遅れました。オルヴィーレ・ユーリスと申します。ラディール・ラハ殿。遥かな()の国から、ようこそいらっしゃいました」

 ラディールを見つめる瞳は、シーファを見つめていたときとは異なる色を浮かべている。

「光紡ぎを間近でご覧になりたいとか」

「そのためにはるばるこの『影の都』までやってきたんでな」

 オルヴィーレはただじっとラディールの何かを推し量るように見つめ、ややしてそっと目を伏せた。その口から祈りの言葉がこぼれたように聞こえたが、ラディールには理解できなかった。


 シーファに促され、塔に入る。白い石を組み上げたその塔は、灯りもないのに壁が淡く輝いている。ゆっくりとシーファについて階段を上がりながら、ふとラディールはその壁面に時折、何かが刻み込まれているのに気づいた。それが、彼の国でも見かける古代の文字だと気づいて、その一つずつを追っていく。


 宵待草、月白花、夜光百合、深緋蘭、星竜胆。


 どれもが夜に花を咲かせる植物の名だった。

「ああ、それは代々の織り手たちの名前だね」

 シーファが近くの壁に手を触れながら愛おしそうにそれを撫でる。

「私たちはみな、御神がおつくりになるときに元とした植物を冠した名を与えられるから」

「あんたのも花の名前なのか?」

「そう、灰孔雀花(シファルフィア)。あなたの国ではたしか、月下美人というのではなかったかな」

「ああ、一夜仙人掌ともいう。ずいぶん(はかな)い名だな」

 幾重にも開く白い花びらの美しいその花はラディールも目にしたことがあった。砂漠の真ん中のオアシスで、あるいは高い岩壁の縁で空を臨むように堂々と開く花は女王のように美しい。だが、日没に開き始め、夜明けには(しお)れてしまう。

「月の神の好きそうな花だが」

「そうだね。御神は何をも等しく深く愛しんでくださるから」

 壁に刻まれた文字を指先で追う横顔はひどく幸せそうで、そのくせ、その名の花と同じように儚く見えた。なぜ、と問いかけるより先に、シーファは再び歩き出し、そしてすぐにそこにたどり着いた。


 いつの間にそれほど高く登っていたのか。階段を上がり切り、くぐった先は白い柱が四方に配され、影の国を一望できる。中央には祭壇のような台座があった。地上からはざわめきが聞こえてくる。皆が光の紡ぎ手を待ちわびているようだった。

 すい、とシーファが腕を伸ばした。その指先は塔の天井に向いている。つられて視線を向ければ、円蓋(キューポラ)の中心には天窓が空いており、真円の月がのぞいている。

 するりとその肩から白い薄物の羽織がすべり落ちて、大きく背中が開いた衣装が(あら)わになる。思わず視線を逸らしかけたラディールに、シーファがくすりと笑った。


 ——見ていて。


 声には出さず、唇の動きだけでそう告げる。ラディールが見つめる前で、シーファの背から淡い光があふれ出した。やがてその光は細く鋭いかたちをとった——鮮やかな四枚の羽に。それは羽というよりは虫の翅のようだった。()(みゃく)はなく、(うん)()のかけらをごく薄く剥がして美しく整えたような。


 シーファの背と同じくらいの大きさに広がった羽が、天窓を通して降り注ぐ月の光で輝きを増す。否、それは——。

「光を集めて——」

 思わず漏れた呟きに、シーファがちらりと視線をこちらに向けたが、そのまま指を天に向けて軽やかにくるりと回った。そのまま台座の周りを巡るように、足音を立てずにひらりと淡い金の髪を靡かせて舞う。やがてその細く白い指先から光が糸のようにこぼれ、そしてシーファがなめらかに指先を動かすたびに、美しい紋様が織り上げられていく。初めは小さくランダムに、やがて規則正しく複雑な模様の浮かぶ円のかたちに。

 降り注ぐ月の光はかすかなもののはずなのに、まるで太陽の光のように明るくまっすぐにシーファの羽を照らし、そして吸い込まれていく。強い光をものともせずに、望むかたちに変えていく。


 ああ、とラディールの口から声にならない呻きのような息が洩れた。気が遠くなるほどの昼と夜を乗り越えた、長い長い旅路。


 目の前で月の光を集めた天輪が編み上げられていく。シーファはひどく幸せそうに微笑んで、舞いながら指先を滑らかに動かし、そうしてふっと何かを振り切るように最後に指を振った。

 途端、降り注いでいた月の光がやんで、代わりに美しい紋様の輪が台座の上に浮かび上がった。と、そのまま天窓に吸い込まれていく。ひときわ明るい光を放ったかと思うと、後には星だけが瞬いていた。

「終わったよ」

「天輪は……?」

「夜には必要のないものだからね。朝までは眠りにつくんだ。()と同じように」

「そう、か」

 シーファは台座を離れ、塔の端から地上を見下ろす。その背には、まだ美しい羽が煌めいている。見上げれば、天窓の向こうはただ暗い空があるだけ。紡ぎ手によって光を失った月は、この国では夜を守護することはない。

 もう一度、その羽とぽっかりと空いた空の深淵を交互に見やり、ラディールはおもむろに腰の剣を抜いた。同時に鋭い声が階段の方から響く。

「シーファ様!」

 視界の端で光ったのは、ラディールが帯びているのと同じような長剣。駆け込んできたのは、先ほど会ったばかりの神官長だった。ラディールは彼に向かって振り下ろされた剣を悠々と弾き飛ばす。剣こそ立派なものだったが、まともに振るったことなどないのだろう。

「衛兵もいないのか、この塔には」

「月の塔で武器を抜くような愚か者は、この千年存在しなかったからです」

 厳しい声と眼差しを彼に向け、石床に落ちた剣に縋りつこうとした神官長の目の前で、ラディールはその剣を蹴り飛ばす。カランカランと軽い音を響かせて転がったその剣は、そのまま軽薄な音を立てて階下へと落ちていった。

 オルヴィーレはそれを見向きもせず、ただどこかが痛むような顔でラディールと、その向こうでまだ彼らに背を向けたままのシーファを見つめた。


 それ以上オルヴィーレが動かないのを見てとって、ラディールはシーファへと歩み寄った。舞っていた時の華やかさは消え、地上を見つめる横顔はひたすらに静謐(せいひつ)だった。この影の国で出会って以来、見たことがないほどに。

「抵抗しないのか」

「それを御神が望んでおられるから」

 シーファの声はあくまで静かだった。

「私の羽は光を取り込み紡ぐことができる。けれど、一つの時代に光の紡ぎ手は一人だけ。私は、あなたの国で()の光を紡ぐことはできないから」

 まるで、ラディールがこれから為そうとしていることを許そうとでも言うように。

 否、シーファは確かに許しているのだ——だから、背を向けたままの静かな声がラディールを追い詰める。

「御神は全てをご承知だよ。あなたがこの国に来た理由も、あなたの望みも」

 ラディールがこの国で最初に出会ったのがシーファだったこと。帯剣したまま『影の境(タッドースク)』を越えられたこと。そして、シーファが光を紡ぐ、その最後の満月の夜に、彼がこの『月の塔(ランヴィトゥ)』に在ること。

 その全てが、月の神が彼の目的を知り、()()()()()ことを示している。


 ——だから、ためらう必要などないのだと。


 背を向けていてさえ、シーファが微笑んでいるのがわかった。この地を訪れて七日。彼女が見せてくれたのは、この国の美しさと人々の(いとな)み。それがどれほど尊いか、どれほど彼女がそれらを愛しているか。


 嫌だ、と心のどこかで声がした。こんなことは間違っている、と。けれどそんな迷いを見透かすように、シーファの柔らかな声が続く。

「一つの時代に光を紡ぐ妖精は一人だけ。それは揺るがぬ掟だけれど、御神はかたちも残さず消える私たちを憐れんで、一つだけ形見を残すことを許してくださるから」

 透き通る七色の羽がふわりと舞う。誘われるように、ラディールの手は剣を振り上げていた。


 ——あなたの大切なものは、私にとっても愛おしいものだから。


 四枚の羽はすっぱりと根元から元の形を保ったまま切り離された。石床に落ちるより先に、シーファの腕がそれらを受け止め、そして、ラディールの胸にそっと押しつける。

「どうか、役立てて。あなたの瞳のようなその空を守るために」

 私も見たいなあ。そう呟く声は、どこか遠い。それが目眩ではなく、周囲の風景が歪んでいるせいだと気づいた。音もなくただブレる視界の中で、シーファが彼の方に倒れ込んでくる姿だけが鮮明だった。

 その体からは、ぬるい温もりさえも失われ、氷のように冷えている。見上げてくる灰色の瞳は、それでもなぜか嬉しそうにきらきらと輝いていた。

「いつか、本当にその空を見られたら」

 がくり、とその体から力が抜ける。さらさらと光があふれ出すのを見届けるまもなく、ラディールの視界がさらに歪んだ。

「シーファ!」

 初めて呼んだその名に、シーファが嬉しそうに微笑んだのが見えた気がした。


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