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光の雫、影の帳  作者: 『光の雫、影の帳』制作委員会
玻璃の天蓋/橘紀里
28/38

一、雪灯

 初めてこの地に降り立った時、その最も高い塔の上からシーファが目にしたのは遥かに広がる雪原と、美しく満ちた月。それから、彼女を憧憬と敬愛、そして少しの好奇心に満ちた眼差しで見つめる人々だった。


 ——どうかこの地に光を。


 そのざわめきを、今でも覚えている。


 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 どこまでも遠く広がる紺色の空の下、いつもと変わらずふらふらと散歩をしていたシーファの前に、それは唐突に現れた。真っ白な雪原にくっきりと浮かび上がる、夜の闇よりもなお暗い髪。肌はよく日に焼けた小麦色で、閉じた目元の彫りは深い。このあたりの人間には見えなかった。


 立ったまましばらくその姿を眺め、その胸がわずかに上下しているのを確認して、シーファは首を傾げながら白く細い指先で唇を撫でた。夜半に出歩くことでさえ、見つかればずいぶんうるさく言われてしまう。見ず知らずの行き倒れを拾ったとなれば、長い長い説教を覚悟しなければならないだろう。一刻で済めばいい方だ。

「これも御神のお導きかなあ」

 そう小さく呟いて、男をぐるりと囲むようにして雪の上を音も立てずにゆっくりと歩く。白く編み上げたサンダルの隙間から入り込んできた雪は、彼女の素肌に触れてもさらさらとすり抜け、すべり落ちていく。反対に、男の周りに降り積もった雪は、その熱で少しずつ溶け流れている。けれど、そのぬくもりが奪い去られ、反転して凍りつくまでそうはかからないだろう。

「暖かいんだねえ」

 片足を軸にして、その場でくるりと回る。見る人がいれば踊っているようだと評するだろうか。腰まで届く長く淡い金の髪がふわりと舞って、その優雅な動きに合わせて、両のこめかみあたりの髪に編み込まれた貴石の飾りがしゃらりと鳴った。


 右には深く透き通る紅焔珀と橙柑石に黄水晶。左にはとろりとした色の翡翠、瑠璃、その先には光を吸い込むような藍銅晶と紫菫石。


 と、白い雪の上に影のように倒れていた男の目が、ゆっくりと開いた。あたりの雪灯りと、半分を過ぎた月の光に照らされたその瞳は、思わずシーファが目を奪われるほど鮮やかな色をしていた。

「……何者だ?」

 思いのほか、はっきりとした声にシーファは我知らず微笑んだ。その声は怯える様子も脅すような気配もどちらもなく、純粋に疑問を浮かべていたからだ。こんな状況で、ただ誰何(すいか)してくるなど豪胆にもほどがある。

 一歩近づいて、シーファは手を差し伸べた。男は視線だけで不審げに見上げてきたが、ややしてその手を取ろうと右手を伸ばした。途端、ぎしりと全身に痛みでも走ったかのように顔を歪めた。

「ああ、やっぱり。『影の境(グレオースク)』を無理に越えてきたね? あれは招かれぬ者を決して許しはしないから」


 指先をわずかに浮かせたまま、男はじっと静かにシーファを見つめる。その先の言葉を窺うように。

「そもそもよく通り抜けられたねえ。普通なら(さかい)を越えようと踏み入れた瞬間に半身が裂かれてもおかしくないのに」

 物騒なシーファの言葉に、けれど男は不思議と動じた様子はない。知っていたのか、あるいは命など惜しくもないという自暴自棄な性質なのか。どちらだろうか、とじっと見極めるように見つめる彼女の眼差しを、男はやはり静かに受け止めている。と、その瞳に強い光が宿った。何かに気づいたかのように。

「『灰暁の瞳(グリニエリヴェ)』。光の紡ぎ手か」

 射抜くような強い眼差しに、シーファはさらに頬を緩めた。自分の瞳をそんなふうに呼ばれることは、(ひさ)しくなかったので。


 膝をつき、男の(ひたい)を手のひらで覆うように触れる。思ったほど冷えてはいない。雪のつめたさにも、境の圧にも屈しないその強さにひときわ興味がわいて、シーファの灰色の瞳が星が宿ったようにきらめいた。

「客人なんてずいぶん久しぶりだ。それに、とても興味深い」

 言って、額に置いた手をゆっくりと頬にすべらせる。ざらりとした感触に少し驚きつつも首から、胸へ。さらには二本の指で、全身の輪郭をなぞるように。初めは動じなかった男もやがて居心地が悪そうに視線を巡らせてくる。それでも動かないのは、シーファの意図を汲んでいるからだろうか。


 足先までゆっくりと指でたどり、ようやくシーファは手を止めて立ち上がった。それからもう一度、手を差し伸べる。

「もう大丈夫だよ、お客人」

 男は探るようにシーファを見つめ、それから一度目を閉じ、自分の中の何かを確認するようにゆっくりと一つ息を吐いた。

 そうしてまた闇を切り裂くような鮮やかな青が開いた。すぐに大きな手がシーファの手をつかみ、体重をかけずにするりと立ち上がる。すかさずぐいと引き寄せられ、すっぽりと包み込まれるように抱き寄せられていた。

「ずいぶん無防備だな」

 見上げれば、先ほどとは打って変わって悪戯っぽい、あるいは不敵な表情がシーファを見下ろしていた。そうして立ち上がってみれば、男はずいぶんと長身だった。シーファより頭一つ分は高い。鎧でこそないが、しっかりとした布地の旅装に包まれた体躯は、しなやかな獣のように引き締まっている。シーファの体など容易に砕いてしまえるだろう。


「そうかな。まあ私には危険なことなどないからね」

「ずいぶんな自信だな? 護衛も連れずにふらふらしていたら、あんたみたいな美人は、人攫(ひとさら)いに()っちまうぞ」

 低く言った声に、シーファはふるりと胸の奥が震えた気がした。見上げた先で面白そうな光を浮かべる瞳は鮮やかな青。シーファが見たことのない、晴れ渡った空の色だ。

「あなたが攫ってくれるの?」

 自身の中に浮かんだ不可思議な感情に首を傾げつつ、それでもシーファがほんわりと笑ってそう尋ねれば、男は呆気にとられたように口を開け、それから頭を抱えるように前髪を握りしめた。

「……こんな季節ににそんな格好で寒くないのか」

「あいにくと私は年中この格好だよ」


 細かな草の文様が縫い込まれたチュニックに、短いズボン、それから緩くまとった外套まですべてが同じ柔らかな白い生地でつくられている。肌触りは良いが、伸びやかにさらされた脚は編み上げたサンダルに包まれているだけだから、寒々として見えるのだろう。

「あなたはずいぶん暖かいねえ」

 ぴたりとその胸に頬を寄せれば、男が呆れたようにため息をついた。実際に呆れているのだろう。

「あんたはなんというか、妙な感じだな」

「妙?」

「温かくも冷たくもない。ぬるい人形を抱いてるみたいだ」

「それは言い得て妙かもしれないねえ」


 口の端だけで笑って、シーファは男から身を離した。相手は怪訝そうに、けれど何かを待ち受けるようにじっと彼女を見つめる。黒い髪に、青い瞳。その身を包んでいる灰色の外套にも、シャツにも細かで丁寧な刺繍が見てとれた。そして、精悍(せいかん)だが言葉ほどにはならずものには見えない、しなやかな所作。

「私はシーファ。この『影の都(タッドースク)』に歓迎しよう、お客人。案内するには、名前が必要なのだけれどね?」

 腕を組んでそう尋ねた彼女に、男は表情をわずかに変える。それまでのどこか飄々とした様子から、何かを狙う野生の獣のような気配に。ふと、シーファは男がその腰に剣を帯びているのに気づいた。この国では、生きるために武器を持つのは当然のこと。だが、『客人』が帯剣したままというのはなかなかに珍しい。

「……御神がそう、望んでおられるのなら」

「どういう意味だ?」

「何、こちらの話だよ。さて、お客人。境を越えてきたとはいえ、名無しでは案内はいたしかねる」


 そればかりは譲れぬ(おきて)だ。この国では(いつわ)りは許されない。さて、この男がそれを知っているだろうか?

 面白そうに答えを待つシーファに、男はしばし無言でじっと彼女を見つめた。信用するに値するのか、あるいは何をどこまで開示すべきなのかを見極めるように。無意識なのか、左手が腰の剣の柄に触れている。シーファは動かなかった。

「ラディール・ラハ。南方の最果て、()の王国より来た」

 やがてそう名乗った男は、そうして太陽(ラディ)のように笑った。


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