第4話 紫苑の意地
「姫様、こちらへ」
四郎に促され、社の近くまで離れる。
紫苑が空に印を結ぶのを桔梗は手を組んで見守った。
何が起きているのかわからないけれど、紫苑も楓も焦る様子はない。
それでも、鋭い風が紫苑の袖をはためかせ、横へ後ろへ飛び退く様はハラハラする。少し離れてそれを見守っていた楓は、紫苑が大きく後ろへ飛び退くのを見計らって紫苑の前に出た。
懐から取り出した短刀で風を斬りつける。
何か、音にならない振動が耳の奥に伝わった気がして、辺りは静かになった。
「……終わっ……たの?」
呟く桔梗を振り返って、楓は微笑んだ。
「おのれ、余計な真似を! 桔梗の前でよい恰好をしようというのか!」
舌打ちをする紫苑に、楓はふふと笑った。
「それも否定はいたしませんが。あの狐は先日紅葉の君を化かして、我にきつく灸を据えられたものなので……我が後始末をつけるのが道理というものでしょう」
「ふん。汝が初めから用意したものであれば、いかようにもできよう?」
紫苑の物言いは変わらないけれど、その勢いは先ほどより穏やかだ。背後の黒い影もまだあるものの、半分以下に小さくなっている。
「であれば霧で閉じ込めるような小細工などしませぬ。最初から今のような妖魅を放った方が話は早いでしょう」
「どうだか」
「それに、我ではあの急激な変化は起こせませぬ。貴殿ならできますか?」
黙り込む紫苑に少しホッとして、桔梗は二人へと近づいた。
「……あの狐に、影が吸い込まれたのです」
二人の視線は桔梗を向いた。
「紫苑を覆ってしまうかと思うような大きな黒い影がほとんど」
『影』の話を嫌う紫苑がまた怒り出しはしないかと気にしつつ、桔梗は楓に告げた。
「桔梗」
紫苑に呼ばれて、桔梗はビクリと身体を強ばらせる。
「それは……興味深いですね。では、兄君の『影』はもう無くなったのですか?」
「いいえ……まだ……」
「桔梗!」
「では」
スッと手を上げて紫苑の言葉を制し、楓は意味ありげに微笑んだ。
「よい機会です。兄君にも見ていただきましょう」
*
全員の困惑顔を見回して、楓は宿坊の中へとみなを案内した。
「四郎殿、蔀を上げていただけますか」
「あいわかった」
明るくなった簡素な部屋には鏡台が置いてあり、楓は鏡筥から取り出した鏡をそこにかけた。
「お二人は同じ血を分けた者、でしょう? であれば、難しくはないはずです」
桔梗と紫苑の手を合わせて、その手をさらに楓の両の手が包み込む。口の中で短い呪いを唱えれば、桔梗に紫苑の戸惑いが伝わってきた。幼い頃、紫苑が怪我をした時に同じ場所が痛いと泣いたことがあるが、その時の感覚にも似ている。大きくなるに従って、そんなことも減っていったのだけれど、紫苑は伝わらないようにと自ら工夫していたようだ。
陰陽の才を伸ばそうというのも、桔梗が『影』を怖がらずともいいように、桔梗を安心させるためだと。
「紫苑……」
口に出したが、口に出さずとも今なら伝わると解る。
紫苑の方は視線を左右に揺らして焦ったように手を離そうとした。それを楓が軽く抑えこむ。くすりと笑われて、紫苑はむっつりと不機嫌顔になった。
「しばしそのままで。紅葉の君、こちらが見えますか?」
楓が片手を離し上向けると、その手のひらに小さな鳥が現れた。
「まぁ。可愛らしい小鳥」
微笑み頷いて、楓は紫苑へと視線をやる。
「では兄君は鏡を覗いてご自身の背後をよぅくご覧ください」
腹立たしい思いのまま、それでも言われた通りに鏡を覗いた紫苑は、そこに黒々とした影を見る。驚きにひきつった紫苑の顔を鏡越しに見て、桔梗は同じものを見て、感じているのだと確信した。
「さて、ここからは我の興味につき合うてもらいましょう。四郎殿、そこに立てかけてある太刀で兄君の背後を斬ってもらえませぬか」
「我が? やってみますが……」
そこにあるのは先日邸で楓が使ったのと同じものだ。
四郎は軽い調子で太刀を振る。
「この辺りでよかったですかな?」
「ええ。ありがとうございます。では次に兄君ご自身でどうぞ。片手では少し不自由でしょうが」
四郎の振った太刀は影に触れていたけれど切れる様子はなかった。
紫苑は太刀を手に、しばしそれを眺めてから何度か手の中で持ち替えて、頭上に持って行った。刃先が影に潜り込む。
けれどそれ以上のことは何も起きなくて、紫苑の目は楓を睨む。
差し出された楓の手に太刀は渡り、まだ二人の手を押さえていたもう片方の手も太刀に添えられる。
紫苑も意地になったように、その太刀の軌跡を目で追っていた。
柔らかな太刀の軌跡は少し光の尾を引いているようにも見える。
すっぱりと斬られた影は、以前と同じようにばらりと解けた。
開いた蔀から入った風に影がかき混ぜられて消えていく。
「我にも見えませぬが、どうでしょう?」
霧散していく影の行方を目で追っていた紫苑は、楓に視線を戻すと諦めたように息をついて、そっと桔梗と合わせていた手を離した。「悔しい」という想いが桔梗の指先に残る。
「汝は何者ぞ」
それは当然の疑問で、しかし当の楓も首を傾げる。
「さあ。あちこちで教わったことを組み合わせているだけですので。身寄りもない身ですが、先祖に妖魅の血を受け継いだ者がいるのかもしれませんね」
「何が何だか、さっぱりわからん」
ひとり蚊帳の外だった四郎がぼやく。それを聞いて、みなが少しだけ笑った。
「紫苑、気分はどう?」
「どう、とは。悪くはない」
ぷいと横を向く紫苑に、邸に現れた時のピリピリとしたところはない。
「あまり根を詰めないでね」
「大丈夫だ」
「都では恨みも逆恨みも飛び交っておりますゆえ、そういうものが溜まるのでしょう。時に、あの狐のように突然力が大きくなるような事象は他にないのですか?」
紫苑は腕を組みしばし考える。
「個々の案件は耳にしたことはないが……百鬼夜行が起こるのは、もしやそういうものの影響があるのやも……」
「百鬼夜行となると、規模が桁違いですね……共通するようなことは何か……」
「北の一条通と二条大宮の辻で目撃が多いが……あとはそうだな。新月の前後が多いかもしれん」
「新月ですか。ふむ。次の庚申講がちょうどその辺りではなかったかな。どうせ起きているのですから、紅葉の君、一緒に調べ物をいたしませんか」
「また! 桔梗を巻き込むな!」
紫苑の剣幕に楓は肩をすくめる。
「ですが、『影』は紅葉の君にしか見えない様子。呪いをかけるのも、お守りするのも、傍にいた方が効率が良いでしょう」
ギリギリと奥歯を軋らせて、紫苑は楓に指を突き付けた。
「我も来るぞ。勝手はさせぬからな!」
言い捨てるようにして紫苑は部屋を出ていき、都へと戻って行った。
くすくすと笑ってその背を見送る楓を桔梗は見つめる。
「あの……本当に庚申の夜を一緒に?」
「ご迷惑でなければ。『影』を斬るとお約束しましたし、新月の夜に活性化するのであればその方が安心でしょう」
双子だと気づいたようなのに、忌避する様子もない楓に少しホッとして、確かに心強いと、桔梗は頷いた。




