第3話 陰陽師の紫苑
「まぁ。紫苑。どうしたの? 返事の文は届いていないけど……」
四郎に紫苑の来訪を告げられて慌てて出迎えれば、紫苑は楓がしたように、ぐるりと視線を巡らせていた。
物の怪を探すような雰囲気に、桔梗は眉を曇らせる。
「桔梗。汝ときたら。素性の怪しい白拍子の言うことを真に受けるなんて。この邸はきちんと護りを施してある。おかしなものは入り込まない」
「え? ええ。それは……わかっているけど」
「四郎も、昔からの誼とはいえ、桔梗に甘い顔ばかりしては困るのだが」
ピリリと尖った紫苑の口調と眦に、四郎と桔梗は顔を見合わせる。
「い、いやしかし、楓殿には姫様を助けてもらった恩があってだな」
「鮮やかな手並みだったと? 自分で仕掛けたものならば、いかようにも解決できるだろう。見合った礼をするくらいで済ませればよかったのに、邸にまで呼ぶなんて!」
「それは……姫様の退屈しのぎにもなればと……」
語尾が小さくなった四郎にずいと顔を寄せて、紫苑も声を落とす。
「四郎も息抜きをしたいのだろうが、それは外でお願いする。桔梗のいる邸ではくれぐれも……」
「そ、そういうことはござらん! 誓って!」
慌てて手を振りながら、四郎は一歩下がった。
元服したばかりの紫苑に詰め寄られる大男は少し滑稽で、己の才能に自信たっぷりに振るまえる紫苑を桔梗は羨ましく眺める。
自分にも陰陽の才能があれば、双子陰陽師として世間の目も少しは優しかっただろうに。できるのは田舎で隠れ暮らすことばかりだ。
「紫苑なら、きっとすぐに有名になるわね。誇らしいわ」
「ああ。待っていろ。すぐに力をつけて桔梗を呼び戻すから。桔梗が『影』に怯えなくてもいいように、『影』など見えなくなるように……」
「ああ! そう! そうなの! 文には書かなかったけど、楓殿はね、『影』を斬って散らしてくれたの! そんなこと、他の誰もできなかったでしょう? 吾に取り入っても得られるものは少ないのだもの。そう疑わなくても……」
ようやく笑顔を見せた紫苑の顔が再び強張った。
「『影』を斬った……?」
「……紫苑?」
低く小さな声に、桔梗は紫苑へと一歩近づいた。
「どうしたの? 積もる話は座って……」
中へ誘おうと手を伸ばしたところで、ぐわっと黒い影が紫苑の背から湧き出した。驚き一歩後退った桔梗を四郎がそっと支える。
「し……しお……」
「桔梗、騙されるな。どんな奇術を使ったものか。誰にも出来ぬことを成したと吹聴するつもりか? 不届き者めが! 桔梗。家族と長く離れ不安にさせてすまなかった。そんな影などないと言っておろう? 桔梗の純真な心に付け込もうとする輩は、我が正体を明かしてやる!」
めらめらと燃え上がるような影の揺らぎに、桔梗は青褪めて声も出ない。
そのまま紫苑は従者を呼びつけて慌ただしく出ていった。
呆然として桔梗はその場に座り込む。
「姫様! 大丈夫でござるか? 兄君さまは姫様を心配して……」
「わかっ……わかってる。そうじゃなくて……『影』……『影』が……」
「なんですと?」
眉を顰める四郎の袖を桔梗は強く握りしめる。
「紫苑の背に大きな『影』が……どうして……どうしましょう」
おろおろと焦るばかりの桔梗に、四郎の判断は早かった。
「……兄君は楓殿のところへ向かったに相違ありませぬ。我らも行きましょう。近くの神社の手伝いをしていると申しておりました。誰かに訊けばすぐにわかりましょう」
言うが早いか、「牛車の用意を」と四郎は駆け出して行った。
楓の居所はすぐに知れた。
美貌の白拍子は有名で、寺の敷地に合祀された小さな社を手伝っているという。宿坊のある寺は限られている。先に行った紫苑もそこに向かったのだろう。
急いで駆け付ければ、境内で紫苑と楓が睨み合っていた。
一見、ただ話し合いをしているようにも見えるが、紫苑の背後の影はごうごうと音がするかのよう。桔梗が近づくのをためらって足を止めると、四郎が察して二人の間に割り込んだ。
「紫苑殿。姫様が心配しておりまする」
「心配?」
四郎の視線の先を紫苑が振り返っている間に、四郎は楓に頭を下げる。
「楓殿、少々行き違いがござって……」
掃き掃除をしていたのか、巫女姿で竹箒を持ったままの楓は気分を害した風でもなく、微笑んでただ頷いた。
「四郎! 桔梗を連れてくるなんて! それに、行き違いとはなんだ。何も違ってはおらぬ!」
「行き違いでなければ、早合点でございましょう。姫様を案ずる気持ちはわかりますゆえ、どうぞ少し落ち着いてくだされ」
「落ち着いておるわ!」
「四郎殿」
袖を引き、楓が大丈夫だと四郎に並ぶ。
「疑わしく思われるのもごもっとも。紅葉の君はご家族に愛されておられるのですね」
「当然だ。心配無用ゆえ、わかったようなことを言って桔梗を惑わすのはやめていただこう」
「では、兄君は紅葉の君の不安を取り除いてあげるおつもりなのですね?」
「そうだと言っている。ないものを視るのは不安が大きいからだろう。我らにも非はもちろんあると知っている。言われるまでもなく、そのようなものを見ないように……」
穏やかだった楓の顔が、スッと表情をなくした。紫苑の言葉を最後まで聞く前に口を挟む。
「『ないもの』と仰いますか。陰陽師も市井の人々が視えないものを扱う仕事ではございませんか。紅葉の君は「誰にも取り合ってもらえなかった」と話してくださいました。貴殿は妹君の話を否定してはいけないのでは?」
「なっ……!」
顔に朱を上らせ、握ったこぶしに力の入った紫苑の背後の影が一層黒さを増して揺らめいた。
「わかったようなことを! 魑魅魍魎は師にも我にも見える! だが、影とやらは桔梗にしか見えぬという。それは力のない桔梗が己が心を守ろうとするための幻であろう!?」
ずいと詰め寄る紫苑を四郎が慌てて止めに入る。
桔梗も、怖気ていてはだめだと、紫苑の横を駆け抜けて彼の前に立った。
「紫苑、紫苑……やめて。影が……影が紫苑を飲み込んでしまう……」
「……はぁ!?」
涙声の桔梗の言葉を聞いて、楓はハッとした顔をした。
「紅葉の君、それは何処に」
振り向き、瞳を揺らしながら桔梗は小さく漏らす。
「兄の……背に」
「こ……の、女狐めが!! 幻術でも使ったか!」
激高した紫苑の背で影が天を衝くように大きくなった。
息を呑んでそれを見上げる桔梗の耳に「ケン」と何かの鳴き声が響く。
駆けてきた小さな狐が紫苑の背に向かって飛び上がり、その体に黒い影がするすると吸い込まれていくではないか。
振り返った紫苑も四郎も、飛びかかる狐を振り払おうと態勢を整え、しかし黒い影を存分に吸い込んだ狐は、桔梗と四郎の目の前から忽然と姿を消した。
「え? 消え……?」
「紅葉の君、離れて」
楓が桔梗を背に庇い、四郎へ目配せする。
紫苑は懐から取り出した符を指で挟み、鋭く空を斬るような動作をした。
「狐はたった今、尾の増えた化生と成りました」




