三毛4 竜の背中(最終話)
あれから数ヶ月。
季節は巡り、山々の木々は鮮やかな緑に染まっていた。
私たちは黒竜の住む山奥の小屋を訪れていた。
「うーむ、悪くない。そこだ、もう少し右……ああ、そこそこ」
庭先の芝生の上で、黒猫のソルが仰向けになり、だらしない格好でアルに腹を撫で回されている。
アルもアルだ。いつぞやの復讐鬼の面影はどこへやら、完全に猫吸いおじさんと化して、デレデレと指を動かしている。
「おまえ、ちょっと太ったか? いい毛並みだなぁ」
「フン、まあ悪くない手際だ。特別に喉を鳴らしてやろう」
ソルは偉そうに言っているが、喉からはゴロゴロと轟音が鳴り響いている。まったく、素直じゃないんだから。
「おまえの相棒のナデナデも、なかなかどうして悪くないではないか」
ソルが上から目線で私に言った。物理的には私の方が上にいるけれど。
私は今、庭の隅で丸くなっている黒竜の背中の上で、優雅に香箱座りをしている。
黒竜——ソルの言う『三本脚』は、気持ちよさそうに目を細め、その巨大な翼を傘のように広げていた。
まさか、三本目の脚が杖じゃなくて尻尾のことだったなんて。引きずってたのは脚じゃなくて、脚よりも長い尻尾。尻尾と脚の違いもわからないほどのバカな猫がいるなんて、同族として恥ずかしい限りよ。
黒竜は太い指先(鋭い爪がついているけれど)で、私の頭をそっと撫でてくる。その動きは慎重で、壊れ物を扱うように優しい。
「まあ、あんたの飼い主も、図体がデカいわりに手触りが優しくて悪くないわね。この鱗、夏はひんやりしてて気持ちいいし」
私が尻尾を揺らして言うと、ソルは得意げに胸を張った。
「だろう? 彼女の鱗は一級品なのだ。この素晴らしさを誰かに共有できて嬉しい限りだ。彼女の老い先は短いから、危うく吾輩が独り占めしてしまうところだった」
ソルがそう言って目を細めた先には、本当に幸せそうに日を浴びる黒竜の顔があった。
彼女がこうして堂々と外で眠れるようになったのは、アルのおかげだ。彼はこの数ヶ月、町でこう触れ回っていたのだ。「黒竜にはもう害がない。互いに平和に暮らすため、この山には近づかないこと」と。
先ほどその報告を聞いたときの、彼女の安堵した溜息といったらなかった。私には竜の表情はよく分からないけど、憑き物が落ちたような気持ちは伝わった。
「時折、こうして外で一緒に日向ぼっこをすることはあったが……以前の彼女は、いつもどこか怯えた目をしていたのだ」
ソルがポツリと、独り言のように漏らした。
「だが、見ろ。今の彼女の顔を。これほど穏やかな表情で日差しを浴びるのを見たのは初めてだ。心なしか、影さえも喜んでいるように見える」
その言葉には、いつもの尊大さはなく、ただ純粋な家族への愛情だけが滲んでいた。
私は黒竜の背中から軽やかに飛び降り、草の上を歩いてソルの隣に座った。
ふと、ある事実が頭をよぎる。
「ねえ、ソル」
「なんだ?」
「あんた、気づいてる?」
私はあえて冷淡に言った。
「竜の寿命って、すごく長いのよ。数百年生きるの」
「それがどうした」
「つまりね、あんたの飼い主はもうお婆ちゃんだけど、それでも腐っても竜よ。私たちみたいな猫より、ずっと長生きするわ」
私は彼に顔を近づけた。
「案外、あんたの方が先に、ぽっくり逝くんじゃない?」
ソルの動きが止まった。
彼は目を見開き、髭をピクリと震わせた。
「な……なんだと……?」
どうやら、考えもしなかったらしい。
種族の違い。それは力の差だけじゃない。流れる時間の速度がまるで違うのだ。
ソルは愕然とした顔で、自身の黒い前脚と、遠くでまどろむ巨大な竜を見比べた。
彼にとっての永遠が、彼女にとっては瞬きのような一瞬かもしれない。その圧倒的な「儚さ」に、彼は初めて直面したようだった。
少し言い過ぎたかしら……。
けれど、ソルは短く息を吐くと、スッと背筋を伸ばした。
その瞳から、動揺の色が消えていく。
「フン、それがどうした」
彼は鼻を鳴らし、凛とした声で言った。
「たとえ吾輩が明日死のうとも、彼女が明日死のうとも、今日この瞬間の生き方が変わるものか?」
「え……?」
私は虚を突かれた。
彼はまっすぐに、大切な家族を見つめていた。
「吾輩が孤独の身なら変わったかもしれぬ。死への恐怖に怯えたかもしれん。……しかし、今の吾輩は違う」
ソルは私の方を向き、ニヤリと不敵に笑ってみせた。
「いつであろうと、どこであろうと、大切なものを想いながら生きるのみだ」
……完敗ね。
私は心の中で舌を巻いた。
時間の長さなんか関係ない。今、この瞬間、誰を愛しているか。それだけが重要なんだと、このおバカな猫は言い切っちゃった。
「……あんたってさ、本当におバカさんよね」
「な、なんだと!?」
ソルが怒って毛を逆立てる。
「失敬な! 今の高尚な演説を聞いてなかったのか!」
「聞いてたわよ。だから言ってるの」
私はクスリと笑った。
「人と竜と猫の区別もつかない。時間の長さも気にしない。……余計な区別のせいで、本当に大切なものを見失うこともない」
私はソルの方に向き直り、鼻先をコツンと彼の鼻にぶつけた。
猫流の、親愛の挨拶。
「あんたのおかげで、アルの手が汚れずに済んだの。……悔しいけど、認めてあげる。悪くないわ、あんたのその生き方」
ソルは一瞬きょとんとしていたが、すぐに照れくさそうにプイと顔を背けた。
「フン、褒めても何も出んぞ。またたびなら、あそこの壺に入っているが」
「あら、気が利くじゃない。じゃあ、遠慮なくいただくわ」
やがて、出発の時が来た。
「元気でな、黒猫! 竜! また来るよ!」
「じゃあね、おバカさんたち! せいぜい長生きしなさいよ!」
私は相棒の横に並んで歩き出す。こんな山奥まで馬車は来られないから二時間も歩いてきたのだけれど、アルとなら苦しい道のりじゃない。
ふと振り返る。遠ざかる景色の中で、ソルと黒竜が並んで座っているのが見えた。
小さな黒い点と、巨大な黒い影。
あまりにもアンバランスで、時間の流れさえも違う、奇妙な二人組。
でも、世界中の誰よりもお似合いの『家族』だ。
世界は複雑で、残酷で、面倒くさい。
けれど、たまにはああいうバカな猫の視点で世界を見てみるのも、悪くないかもしれない。
そうすれば、竜の背中にだって、温かい寝床が見つかるかもしれないのだから。
(黒猫ソルの冒険 了)




