黒4 四本目の脚
洞窟の中は、異様な静寂に包まれていた。
アルバートは薙刀を黒竜に向けたまま固まり、シーは呆然と口を開けている。
そして吾輩の背後では、巨大な黒い塊が苦しげな息を漏らしていた。
「ソル……?」
背後から、懐かしい声が聞こえた。
聞き間違えるはずもない。嗄れた、枯れ木が擦れ合うような声。
吾輩は振り返った。
そこには、いつもの老婆——三本脚が横たわっていた。
ぎょろりとした黄色い瞳、鋭い牙、硬い鱗。太く短い二本の脚と、臀部から生えたさらに太く長い脚。
シーやアルバートはこれを竜と呼ぶらしいが、吾輩にはいつもの下僕にしか見えない。少しばかり顔色が悪いようだが、その瞳に宿る光は、まぎれもなく吾が下僕のものだ。
その巨大な鼻先に頬をすり寄せた。
「バカ者! 心配させるではないか! こんなところで昼寝などしおって!」
温かい。
硬い鱗の感触。
ああ、これだ。これが吾輩の落ち着く場所だ。
アルバートたちが言っていた、おそろしい黒竜の話など、嘘なのだ。この優しき三本脚が、村を焼き払うようなことなどできるはずがない。
「……そいつが、おまえの飼い主なのか?」
アルバートの震える声が響いた。
彼はまだ、切っ先を向けている。その瞳には、混乱と怒りが渦巻いていた。
言葉は通じないが、彼の困惑は伝わってくる。
「そうだ! 文句があるか!」
吾輩はアルバートを睨みつけた。
「こいつはただの足の悪い老婆だ! 見ろ、この優しい目を! どこが化け物だというのだ!」
改めて三本脚に目を向ける。すると、岩に写された彼女の影が、いつかの夏の日のように、おぞましく見えてしまった。
「三本脚……」
そのとき、三本脚が重い口を開いた。
「……殺すがいい、人の子よ」
彼女の声は静かだった。彼女の人語は、アルバートにも届いたはずだ。
「私は、おまえたちの親を殺した。村を焼き、多くの命を奪った。……それは消えない事実だ」
「三本脚、何を言っている!?」
吾輩は叫んだが、彼女は悲しげな瞳で吾輩を見た。
「昔の話さ、ソル。私は……愚かだった」
彼女は遠い昔を懐かしむように、そして懺悔するように語り始めた。
「人間たちが私の縄張りを荒らし、息子や夫を殺し、孫の卵を割ったとき……私は怒りに我を忘れた。復讐の炎で村を焼き払った。だが、その炎が消えた後に残ったのは、灰と、さらなる憎しみだけだった」
彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ち、鱗を伝って地面を濡らした。
「私は自分の行いを悔い、この洞窟を捨てて隠居した。罪を背負い、誰とも関わらず、朽ちてるつもりだった」
彼女の視線が、優しく吾輩へと向けられた。
「だが、おまえと出会った。雨の中で震えていた、小さなおまえと」
吾輩の記憶にある、最初の日。
冷たい雨。泥の感触。そして、差し伸べられた温かい前脚。あの温もりが吾輩を救ったのだ。
「おまえとの暮らしは……楽しかったよ。自分が化け物であることを忘れさせてくれた。おまえは、光だった。おまえを見ているとき、私は自分の影から目を逸らすことができた。……ありがとう、ソル」
彼女は目を閉じ、首をアルバートへと差し出した。
「さあ、やるがいい、人の子よ」
アルバートの手が震えていた。
彼はギリギリと歯を食いしばり、薙刀を握りしめている。
目の前にいるのは、憎き仇だ。殺せば、すべてが終わる。復讐は遂げられる。
だが。
彼の視界には、竜の鼻先にしがみつき、必死に「ニャー! ニャー!」と鳴き叫んで彼女を守ろうとする小さな黒猫の姿があった。
アルバートには、猫の言葉は分からない。
だが、その必死な姿は痛いほどに伝わっていた。
「……ずっと、探していたのか、こいつを」
アルバートの脳裏に、旅の道中でのソルの姿が蘇る。
いつもどこか遠くを見ていた目。寂しげな背中。
そして、かつて竜に両親を奪われ、泣き叫んでいた自分自身の姿と、今のソルの姿が重なる。
もし今、ここで竜を殺せば。
この黒猫から、唯一の家族を奪う悪魔になるのではないか?
カラン……。
乾いた音が響いた。
アルバートが、薙刀を取り落とした音だった。
「アル……?」
シーが心配そうに彼を見上げる。
アルバートは天を仰ぎ、長く、深い息を吐き出した。
「……バカげてる」
彼は自嘲気味に笑った。
「復讐相手が猫飼いだったとはな。……猫を愛する者を、斬れるわけがない」
憑き物が落ちたような顔だった。
彼は黒竜に近づくと、その脇腹の傷口に手をかざした。
「我が魔力を糧とせよ……ヒール」
彼の手から、眩い光が溢れ出した。
それは温かく、優しい光だった。竜の傷口がみるみるうちに塞がっていき、血の流れが止まる。
その代償として、アルバートの顔色は蒼白になり、その場にガクリと膝をついた。
「アル!」
シーが駆け寄る。アルバートは汗だくの顔で、ニカっと笑った。
「……黒猫。これでおまえも、飼い主とまた暮らせるな」
彼は近寄ってきたシーの背中を愛おしそうに撫でる。
「行くぞ、シー。……もう、ここに用はない」
「ええ、行きましょう」
ふたりは、一度も振り返ることなく、洞窟の出口へと去っていった。
静寂が戻った洞窟で、吾輩は三本脚を見上げる。
彼女の傷は塞がっていた。呼吸も穏やかになっている。
だが、彼女はまだ申し訳なさそうに身を縮めていた。
「ソル……私は、おそろしい存在だ。よく分かっただろう」
彼女は涙目で吾輩を見ている。
「もう、私と一緒にいない方がいい……」
「何を言っているのだ」
吾輩は呆れて、大きくため息をついた。
シワシワで、ゴツゴツで、不器用な顔。見慣れた愛嬌のある顔だ。
吾輩は彼女を下僕だと思っていた。三本脚にとっての自分は主人だと思っていた。
だが、違う。
ようやく分かった。
吾輩にとって三本脚は、たったひとりの家族なのだ。
喉の奥の方が熱くなり、これまで出したことがないほどの大きな鳴き声が出てしまう。
「バカ者! 家族に何も言わずにひとりで出ていくなど、水臭いではないか!」
そう叫んでから気づく。
彼女には、吾輩以外に家族がいたのだと。
「……いや、おぬしにとっての家族は、ここにいるのだな。では、吾輩は、おぬしにとっての何なのだ?」
視線が自分の前足まで落ちる。
しばしの沈黙が訪れた。
頭に、ぬくもりが触れる。
「ソル。おまえには二度助けられた」
「……二度?」
「一度目は、出会ったとき。おまえと出会わなければ、罪の意識に苛まれた私は、遠からず崖から身を投じていただろう。おまえがいたから、もう少し生きてみたいと思えたのさ。……二度目は、今だ。おまえを……大切な家族を遺して逝くわけにはいかない」
喉の下を撫でられる温もり。
二日ぶりの感覚に、情けない声が漏れそうになる。
そうか、彼女も吾輩を家族だと思ってくれていたのか……。
こんなみっともない声、聞かせるわけにはいかない。
呼吸器の震えを必死に抑え、吾輩は彼女の鼻先をペロリと舐めた。
「フン、……まったく世話が焼ける」
吾輩は胸を張り、尊大に言い放った。
「脚が三本しかないのに出歩くから倒れるのだ。吾輩という四本目の脚がなくては、おぬしはまるで駄目だな」
彼女がキョトンとした顔をする。
吾輩は尻尾をピンと立て、出口の方角を顎でしゃくった。
「さ、帰るぞ。主にこれだけ苦労させたのだ。帰ったら、たっぷりとナデナデを所望する。覚悟しておけよ。それに……おまえのいない小屋は、吾輩には広すぎる」
三本脚の瞳が、驚きに見開かれ、やがてくしゃりと歪んだ。
その表情は、小屋でいつも見せている皺くちゃの笑顔と同じだった。
「……ああ。分かったよ、ソル」
彼女はゆっくりと体を起こした。
その巨体は、今も昔も、化け物なぞには見えぬ。ただの老婆だ。
吾輩と彼女は、並んで歩き出した。
三本脚だの四本脚だの、そんな些細な違いなど関係ない。
ただ、共に生きていく。
それだけで充分なのだ。




