表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光の雫、影の帳  作者: 『光の雫、影の帳』制作委員会
黒猫ソルの冒険/中條利昭
19/38

黒4 四本目の脚

 洞窟の中は、異様な静寂に包まれていた。

 アルバートは薙刀を黒竜に向けたまま固まり、シーは呆然と口を開けている。

 そして吾輩の背後では、巨大な黒い塊が苦しげな息を漏らしていた。

「ソル……?」

 背後から、懐かしい声が聞こえた。

 聞き間違えるはずもない。しゃがれた、枯れ木が擦れ合うような声。

 吾輩は振り返った。

 そこには、いつもの老婆——三本脚が横たわっていた。

 ぎょろりとした黄色い瞳、鋭い牙、硬い鱗。太く短い二本の脚と、臀部から生えたさらに太く長い脚。

 シーやアルバートはこれを竜と呼ぶらしいが、吾輩にはいつもの下僕にしか見えない。少しばかり顔色が悪いようだが、その瞳に宿る光は、まぎれもなく吾が下僕のものだ。

 その巨大な鼻先に頬をすり寄せた。

「バカ者! 心配させるではないか! こんなところで昼寝などしおって!」

 温かい。

 硬い鱗の感触。

 ああ、これだ。これが吾輩の落ち着く場所だ。

 アルバートたちが言っていた、おそろしい黒竜の話など、嘘なのだ。この優しき三本脚が、村を焼き払うようなことなどできるはずがない。

「……そいつが、おまえの飼い主なのか?」

 アルバートの震える声が響いた。

 彼はまだ、切っ先を向けている。その瞳には、混乱と怒りが渦巻いていた。

 言葉は通じないが、彼の困惑は伝わってくる。

「そうだ! 文句があるか!」

 吾輩はアルバートを睨みつけた。

「こいつはただの足の悪い老婆だ! 見ろ、この優しい目を! どこが化け物だというのだ!」

 改めて三本脚に目を向ける。すると、岩に写された彼女の影が、いつかの夏の日のように、おぞましく見えてしまった。

「三本脚……」

 そのとき、三本脚が重い口を開いた。

「……殺すがいい、人の子よ」

 彼女の声は静かだった。彼女の人語は、アルバートにも届いたはずだ。

「私は、おまえたちの親を殺した。村を焼き、多くの命を奪った。……それは消えない事実だ」

「三本脚、何を言っている!?」

 吾輩は叫んだが、彼女は悲しげな瞳で吾輩を見た。

「昔の話さ、ソル。私は……愚かだった」

 彼女は遠い昔を懐かしむように、そして懺悔するように語り始めた。

「人間たちが私の縄張りを荒らし、息子や夫を殺し、孫の卵を割ったとき……私は怒りに我を忘れた。復讐の炎で村を焼き払った。だが、その炎が消えた後に残ったのは、灰と、さらなる憎しみだけだった」

 彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ち、鱗を伝って地面を濡らした。

「私は自分の行いを悔い、この洞窟を捨てて隠居した。罪を背負い、誰とも関わらず、朽ちてるつもりだった」

 彼女の視線が、優しく吾輩へと向けられた。

「だが、おまえと出会った。雨の中で震えていた、小さなおまえと」

 吾輩の記憶にある、最初の日。

 冷たい雨。泥の感触。そして、差し伸べられた温かい前脚。あの温もりが吾輩を救ったのだ。

「おまえとの暮らしは……楽しかったよ。自分が化け物であることを忘れさせてくれた。おまえは、光だった。おまえを見ているとき、私は自分の影から目を逸らすことができた。……ありがとう、ソル」

 彼女は目を閉じ、首をアルバートへと差し出した。

「さあ、やるがいい、人の子よ」


 アルバートの手が震えていた。

 彼はギリギリと歯を食いしばり、薙刀を握りしめている。

 目の前にいるのは、憎き仇だ。殺せば、すべてが終わる。復讐は遂げられる。

 だが。

 彼の視界には、竜の鼻先にしがみつき、必死に「ニャー! ニャー!」と鳴き叫んで彼女を守ろうとする小さな黒猫の姿があった。

 アルバートには、猫の言葉は分からない。

 だが、その必死な姿は痛いほどに伝わっていた。

「……ずっと、探していたのか、こいつを」

 アルバートの脳裏に、旅の道中でのソルの姿が蘇る。

 いつもどこか遠くを見ていた目。寂しげな背中。

 そして、かつて竜に両親を奪われ、泣き叫んでいた自分自身の姿と、今のソルの姿が重なる。

 もし今、ここで竜を殺せば。

 この黒猫から、唯一の家族を奪う悪魔になるのではないか?


 カラン……。

 乾いた音が響いた。

 アルバートが、薙刀を取り落とした音だった。

「アル……?」

 シーが心配そうに彼を見上げる。

 アルバートは天を仰ぎ、長く、深い息を吐き出した。

「……バカげてる」

 彼は自嘲気味に笑った。

「復讐相手が猫飼いだったとはな。……猫を愛する者を、斬れるわけがない」

 憑き物が落ちたような顔だった。

 彼は黒竜に近づくと、その脇腹の傷口に手をかざした。

「我が魔力を糧とせよ……ヒール」

 彼の手から、眩い光が溢れ出した。

 それは温かく、優しい光だった。竜の傷口がみるみるうちに塞がっていき、血の流れが止まる。

 その代償として、アルバートの顔色は蒼白になり、その場にガクリと膝をついた。

「アル!」

 シーが駆け寄る。アルバートは汗だくの顔で、ニカっと笑った。

「……黒猫。これでおまえも、飼い主とまた暮らせるな」

 彼は近寄ってきたシーの背中を愛おしそうに撫でる。

「行くぞ、シー。……もう、ここに用はない」

「ええ、行きましょう」

 ふたりは、一度も振り返ることなく、洞窟の出口へと去っていった。

 静寂が戻った洞窟で、吾輩は三本脚を見上げる。

 彼女の傷は塞がっていた。呼吸も穏やかになっている。

 だが、彼女はまだ申し訳なさそうに身を縮めていた。

「ソル……私は、おそろしい存在だ。よく分かっただろう」

 彼女は涙目で吾輩を見ている。

「もう、私と一緒にいない方がいい……」

「何を言っているのだ」

 吾輩は呆れて、大きくため息をついた。

 シワシワで、ゴツゴツで、不器用な顔。見慣れた愛嬌のある顔だ。

 吾輩は彼女を下僕だと思っていた。三本脚にとっての自分は主人だと思っていた。

 だが、違う。

 ようやく分かった。

 吾輩にとって三本脚は、たったひとりの家族なのだ。

 喉の奥の方が熱くなり、これまで出したことがないほどの大きな鳴き声が出てしまう。

「バカ者! 家族に何も言わずにひとりで出ていくなど、水臭いではないか!」

 そう叫んでから気づく。

 彼女には、吾輩以外に家族がいたのだと。

「……いや、おぬしにとっての家族は、ここにいるのだな。では、吾輩は、おぬしにとっての何なのだ?」

 視線が自分の前足まで落ちる。

 しばしの沈黙が訪れた。

 頭に、ぬくもりが触れる。

「ソル。おまえには二度助けられた」

「……二度?」

「一度目は、出会ったとき。おまえと出会わなければ、罪の意識に苛まれた私は、遠からず崖から身を投じていただろう。おまえがいたから、もう少し生きてみたいと思えたのさ。……二度目は、今だ。おまえを……大切な家族を遺して逝くわけにはいかない」

 喉の下を撫でられる温もり。

 二日ぶりの感覚に、情けない声が漏れそうになる。

 そうか、彼女も吾輩を家族だと思ってくれていたのか……。

 こんなみっともない声、聞かせるわけにはいかない。

 呼吸器の震えを必死に抑え、吾輩は彼女の鼻先をペロリと舐めた。

「フン、……まったく世話が焼ける」

 吾輩は胸を張り、尊大に言い放った。

「脚が三本しかないのに出歩くから倒れるのだ。吾輩という四本目の脚がなくては、おぬしはまるで駄目だな」

 彼女がキョトンとした顔をする。

 吾輩は尻尾をピンと立て、出口の方角を顎でしゃくった。

「さ、帰るぞ。主にこれだけ苦労させたのだ。帰ったら、たっぷりとナデナデを所望する。覚悟しておけよ。それに……おまえのいない小屋は、吾輩には広すぎる」

 三本脚の瞳が、驚きに見開かれ、やがてくしゃりと歪んだ。

 その表情は、小屋でいつも見せている皺くちゃの笑顔と同じだった。

「……ああ。分かったよ、ソル」

 彼女はゆっくりと体を起こした。

 その巨体は、今も昔も、化け物なぞには見えぬ。ただの老婆だ。

 吾輩と彼女は、並んで歩き出した。

 三本脚だの四本脚だの、そんな些細な違いなど関係ない。

 ただ、共に生きていく。

 それだけで充分なのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ