黒3 二本脚の巣
世界は想像していたよりもずっと広い。
小屋を出て険しい山道を降りているときはその実感が薄かったが、山を下り、シーたちと共に広大な景色の中を旅していると、想像を絶する世界の広さに驚くばかりだった。
これまで感じたことのない開放感。胸が躍る高揚感。
吾輩は物心がついたときから、三本脚と共に山奥の小屋でひっそりと暮らしていた。その何年もの時間、外の光溢れる世界を知らなかったことを後悔せざるを得ない。
外の世界は美しい。
それを実感するたびに、疑問が生まれてくる。
なぜ三本脚はあの小屋に籠り、日陰に居続けたのかのだろうか。
その疑問の仮説は、思いの外すぐに浮かぶことになる。
二本脚の巣——彼らが「東の町」と呼ぶ場所は、吾輩にとって地獄に近い場所であった。
右を見ても左を見ても、うじゃうじゃと二本脚が湧いている。彼らが発する騒音、饐えた臭い、そして無遠慮な視線。
「おい見ろよ、黒猫だ。不吉だな」
「シッ、余計なこと言うなよ」
道ゆく二本脚たちが吾輩を見てひそひそと囁く。失敬な奴らだ。不吉なのは貴様らの顔面であろうに。
二本脚の群れは、広大な自然を蝕む病原体のように醜い。
もしや三本脚は、彼らの同族ながらこれが嫌いだったのではなかろうか。
そうこう考えていると、アルバートが一軒の薄汚れた建物に入っていった。
ムッとするような熱気と、鼻が曲がりそうなツンとした臭い。吾輩は床のベタつきを避けるため、アルバートの肩によじ登り、そこから下界を見下ろしていた。シーは「タバコの煙が毛につくわ」と文句を言いながら、入り口近くのカウンターで丸くなっている。
「おい、アンタか。黒竜を見たって狩人は」
アルバートが声をかけたのは、店の奥で安酒をあおっていた、ガラの悪い男だった。
全身から鉄と油、古い血の臭いがする。
「ああ? なんだ兄ちゃん、お前もあの化け物を狙ってんのか?」
狩人と呼ばれた男は、ニヤニヤと笑いながら、愛用らしき長くて太い筒——銃という武器を撫でた。
「やめとけやめとけ。あれはヤベェぞ」
「……どこで見た?」
アルバートの声が低くなる。肩越しに伝わる彼の筋肉が、カチコチに硬直しているのが分かった。
狩人は酒を一気に飲み干し、得意げに語り始めた。
「一昨日のことさ。ここから南西の山の中でな、木の実を食ってる真っ黒な塊を見つけたんだ。最初は熊かと思ったが、近づいて腰を抜かしたね。翼が生えてやがる。まさか伝説の黒竜だとは、すぐには気づかなかったよ。思ってたより小柄だったしな」
「それで、どうした?」
「どうしたもこうしたもねぇ。向こうが気づく前に、俺の自慢のコイツでドカンと一発、お見舞いしてやったのさ!」
狩人は銃をバンと叩いた。
「手応えはあったぜ。脇腹に風穴を開けてやったからな」
その言葉を聞いた瞬間、吾輩の背筋に冷たいものが走った。
食事中の無防備な相手を、隠れて撃つだと?
なんと卑劣な。二本脚というのは、これほどまでに野蛮な生き物なのか。
「フン、恥知らずめ」
吾輩は小声で毒づいたが、当然二本脚たちの耳には届いていない。
「で、仕留めたのか?」
アルバートが身を乗り出す。
「いや、逃げられた」
狩人の男は、これまでテーブルの下に落としていた左の前脚を上げ、アルバートに見せた。右手と違い、指が三本しかない。
「すげえスピードで突進してきてな。慌てて避けたが、奴の鱗に掠っただけで、指二本が紙粘土みたいに千切れちまった。……やめとけ、って言った意味が分かったか?」
「命を賭としてでも討伐する覚悟はできている」
「フン、そんなに言うならもう止めねえよ。あれから黒竜がどこへ行ったのかは分からねえ。だが、あれだけの深手だ。そう遠くへはいけねえだろうな」
アルバートの瞳に、ギラリとした暗い光が宿った。
「……ありがとう。十分だ」
彼は金貨を一枚テーブルに叩きつけると、荒々しく立ち上がった。
その勢いに振り落とされそうになり、吾輩は慌てて彼の服に爪を立てた。
「おい、乱暴にするな!」
「手負いか……急がないと」
シーが待つ入り口へ向かいながら、吾輩は複雑な気分だった。
アルバートは悪い奴ではない。吾輩を馬車に乗せてくれたし、干し肉もくれた。
だが、今の彼はまるで鬼のような形相をしている。天窓から差し込む光から浮かび上がる影ですら、メラメラと燃える炎のような、おぞましい姿をしていた。
それを見て、ふと、ある夏の日のことが思い出される。
吾輩が三本脚と暮らす小屋の周囲はほとんど一年中木々の日陰となっているが、夏の一時期だけは強く陽が差すことがある。
吾輩は、年に一度のそのタイミングになると無性に陽を浴びたくなり、毎日のように小屋の前の草原に寝転がって、ぽかぽかとした日を浴びる。三本脚も同じ気持ちのようで、どこか怯えた様子を見せながらも、欲には勝てず吾輩と一緒にひなたぼっこをすることがある。
ある日、強い光に照らされた彼女の濃い影が、妙におそろしく見えたことがあったのだ。おそろしくも、どこか物哀しい影。
「影というものには、その者がけっして表には出さぬものが、現れるのかもしれぬ」
いつもの薄暗い小屋では影すらもほとんどない。もしや彼女は、影を隠したかったのだろうか。
「何ぶつぶつ言ってるの?」
アルバートの左肩にシーが飛び乗り、話しかけてきた。
「なんでもない」
「ふうん。それよりさ、もしかしてあんたの飼い主、黒竜に食べられちゃったんじゃない?」
「なに?」
「黒竜はここから南西の山にいたんでしょ?」
「離れてたのによく聞こえてたな」
「私は耳がいいの。それより、南西といったら、あんたが来た方角じゃないの? いなくなっちゃった時期と黒竜の目撃情報の時期も合うでしょ」
その言葉に、ハッとする。
「……確かに」
巨大なトカゲのような生物に、吾輩よりずっと大きな三本脚が食われる姿など、想像もできない。
しかし、三本脚が居なくなった後の世界は、想像できてしまう。
あの山奥の小屋に吾輩がひとり残される。話しかけても応えてくれる者はいない。餌を用意してくれる者もいない。吾輩の毛を撫でてくれる手もない。
ぞっとした。たった二日間の孤独でさえ耐えられなかったのに、それが死ぬまで続くとは。
「……」
おそろしさで、四本の脚が痙攣する。
寂しさで、前を見据えることすらできなくなる。
なぜ、下僕という立場の存在がいなくなると考えただけで、身を震わせるほどの感じるものか。——吾輩にとっての彼女は、本当に『下僕』などという身分の存在なのか?
……頼むから、生きていてくれ。




