三毛1 勇者との旅路
馬車の車輪が砂利を噛むリズミカルな音と、固い木の板から伝わる振動が、私の子守唄。
あくびを噛み殺し、前脚の肉球で顔を丁寧に洗った。右の耳、左の耳、そして鼻先。旅の途中とはいえ、身だしなみを整えるのはレディの嗜みというもの。
私の名前はシー。艶やかな白、黒、茶の三色が織りなす美しい毛並みを持つ、しがない三毛猫よ。
もっとも、ただの野良猫じゃない。
隣で手綱を握る、この無骨な大男——勇者アルバートの相棒なの。
「よう、シー。起きたか」
低い声が降ってくる。アルは御者台にどかっと座り、大きな背中を丸めながら前方を見据えていた。
彼は人間の中でも特に大きく、筋肉質だ。背中には彼の身長ほどもある巨大な薙刀が括り付けられている。あれを風車のように振り回して魔物をなぎ倒す姿は、少し野蛮だけれど、頼りにはなるわ。
「ええ、おかげさまでね。あんたの運転が荒いから目が覚めたわ」
私はそう言ったけれど、アルには「にゃー」としか聞こえていないことでしょう。でも、アルは「へへっ、悪かったな」と白い歯を見せて笑ってくれる。
彼は猫語を理解できるわけじゃない。けれど、長年の付き合いがある。私の声のトーンや尻尾の動き、ちょっとした目線で、言いたいことの六割は察してくれる。
街道は緩やかな上り坂に差し掛かり、周囲の景色が平原から鬱蒼とした森へと変わり始めていく。
退屈凌ぎのつもりか、アルがふと思い出したように口を開いた。
「そういや、この前の宿で聞いた話なんだがな」
彼は手綱を緩め、チラリと私を見た。
「猫ってのは、自分と人間を区別できないらしいな。人間のことを『妙にでっかい猫』くらいにしか認識してないってさ」
私は洗顔していた手をピタリと止め、ゆっくりと彼を見上げた。
は? なんですって?
あまりにも心外で、全身の毛が逆立ちそうになる。
失礼ね! 今どき猫と人間の違いも分からないバカな猫なんていないわよ!
私は抗議の声を上げ、彼の太い腕をペシペシと前脚で叩いた。
冗談じゃない。私たち猫は四本の脚で優雅に歩き、音もなく獲物を狩り、高い所から下界を見下ろす高貴な生き物よ。
対して人間はどう! 二本の脚でドスドスと無様に歩き、無駄に布を身に纏い、夜目が効かないからと火を焚き、複雑怪奇な言葉で嘘をつく!
種族としての出来が違うよ、出来が。あんな不器用な生き物にバカにされるなんて、いくらアルでもたまらないわ!
「おっと、怒るなよ。悪かった、悪かったって」
アルは私の剣幕にタジタジになりながら、空いている手で私の顎の下を掻いた。
「おまえは賢いもんな」
「……フン、分かればいいのよ」
顎の下の急所を的確に攻められ、私は不本意ながら喉をゴロゴロと鳴らしてしまった。
まったく、この男はこういうときだけ手際がいいのだから。
彼は私のために寝床と食事を用意し、外敵から守る。私はその対価として、彼の孤独を癒やし、時には危険を察知して知らせてやる。これは契約であり、友情。
人間からすると、猫はわがままに見えるらしいけど、それは彼らが私たちに奉仕することに喜びを感じているから、甘んじて受けてあげているだけ。
ふと、アルの視線が鋭くなった。
彼は北、つまり東の町へ向かう私たちにとって左を見据える。その先には、黒々とした雲がかかる険しい山脈がそびえ立っていた。
「……黒竜は、まだ生きている」
彼の声から、先ほどまでの陽気さが消えた。
その瞳の奥には、けっして消えることのない暗い炎が揺らめいている。
黒竜。
かつて彼の故郷を焼き払い、両親を奪ったという伝説の魔物。
アルはその復讐のためだけに、血の滲むような修行を重ね、勇者と呼ばれるまでになった。
私も、かつての黒竜の巣であったという山へ目を向ける。
アルの故郷を焼いて以来、黒竜は巣を去ったらしいの。そもそも黒竜が村を焼いたのは、狩人が竜の巣へ潜り込み、黒竜たちを一掃しようとしたから。でも、一匹の黒竜だけを逃してしまい、逆恨みでやられたってわけ。人間が黒竜を狩ろうとしたのは、村に危険が及ばないためだけれど、その結果村が焼かれてしまったのだから、可哀想な話ね。でも、アルにとっては、そんな理屈なんて関係ないのよね。
三ヶ月前、私たちは念の為にあそこを捜索したけれど、やはり黒竜はいなかった。そもそも復讐相手がまだ生きているのかも分からない——そうやって諦めかけてたところ、最近東の町の近くで黒竜を目撃した狩人がいると耳にして、はりきって東の町へ向かってるの。
私は黒竜に対して、個人的な恨みはない。
けれど、アルがそれを「悪」と断じ、殺さねば気が済まないというのなら、私はそれに付き合うだけ。
「あんまり気負いすぎないでよ」
私は彼の膝の上に飛び乗ると、その分厚い胸板に頭を押し付けた。
冷たい鎧の感触。その下にある心臓が、ドクンドクンと強く脈打っているのが伝わってくる。
「……ああ、分かってる。ありがとうな、シー」
アルの大きく温かい手が、私の背中を包み込んだ。
彼のこの手が、誰かの血で汚れるのはあまり好きじゃない。けれど、彼が選んだ道なら、私は最後まで見届ける義務がある。
森の空気は次第に冷たくなり、獣の気配が濃くなっていく。
この先に待ち受けているのが、どんな結末であろうとも。私はこの不器用な勇者の隣で、誇り高く髭を張っていようと決めていた。
「シー。おまえのことは、必ず俺が守る。いざというときは、俺の身を犠牲にしてでも、おまえを」
……バカね。私が危険な目に遭うわけないでしょ。ご自慢の回復呪文は、自分に使いなさい。
彼は魔法が苦手なの。黒竜を討伐するにあたって、必死に勉強して強力な回復呪文を覚えることはできたけど、一度使うだけでヘトヘトになってしまう有様。「この回復呪文を使う相手は、おまえだけだ」なんて宣ってるけど、私にはその気はないの。
そのときだった。
ヒヒィィィン!!
馬のいななきと共に、凄まじい衝撃が走った。
「うおっ!?」
アルが手綱を力任せに引く。
車輪が悲鳴を上げ、馬車は前のめりになりながら急停車した。
私はその反動で、危うく御者台から転がり落ちそうになった。爪を木の板に食い込ませ、なんとか踏みとどまる。
「な、何よ!」
敵襲? それとも落石?
アルは肩で息をしながら、前方を見下ろしていた。
「……急に猫が飛び出してきて」
猫?
私は瞬きをして、アルの視線の先を追った。
舞い上がった土煙が晴れていく。その道の真ん中に、小さな黒い影がひとつ、鎮座していた。
それは一匹の黒猫だった。
薄汚れてはいるが、逃げる様子もなく、それどころか堂々と私たちの馬を見上げている。
轢かれそうになったというのに、なんて肝の据わった猫なの。
いや、もしかして恐怖で動けなくなっているのかしら?
私がそう思った瞬間、その黒猫は馬を見上げながら鼻を鳴らした。
「ほう、なかなかの大きな四本脚だな。我が下僕よりも顔が長い」
……は?
「なに、あいつ」




