黒1 失踪せし下僕
吾輩は四本脚である。名前は、ある。下僕は吾輩を『ソル』と呼ぶ。
一昨日の朝、木々の隙間から見える空が白々と明るみ始めた頃、下僕の『三本脚』が小屋を出て行った。いつものように餌を取りに行ったのだと思っていたが、太陽が西へと沈んでも、再び東の空から昇り始めても、それをもう一度繰り返しても、彼女はまだ帰ってこない。
いくら喉を鳴らして甘えてみても、あるいは腹の底から不満を垂れ流して「ニャー」と鳴いてみても、石造りの古びた小屋に虚しく反響するのみである。いつものように背中を丸めた老婆が応答してくれない。
なんということだ! 主である吾輩の許可なく丸二日も帰ってこないとは!
食べ残しの木の実や干し肉を齧って飢えを凌いではいたが、吾輩の憤怒も、腹の虫も、もう我慢の限界を超えている。丸二日撫でられていないためか、吾が全身の黒の毛並みさえも沸々と逆立ち、苛立っているのがわかる。
苛立ち紛れに壁際にある寝床から飛び降り、部屋の中をのっしのっしと練り歩いた。
分厚い石の壁に囲まれたこの空間には、常に薄暗い静寂が満ちている。夜になれば重厚な布のカーテンが、そして昼になれば古ぼけたレースのカーテンが、窓を覆い尽くす。
三本脚は、けっしてカーテンを開け放とうとはしない。
埃が舞う光の筋が、レースの網目を透かして床に幾何学模様を描いている。吾輩はその光の斑点の上に座り込み、レース越しに外を睨みつけた。
ぼんやりと霞む視界の向こうには、緑色の揺らぐ森が広がっている。見上げると、空の大半を木々が隠していた。この小屋を出て散歩することはあるが、木々のない空を見たことはない。幼い頃は世界中がそうなのだと信じていた。今も、半ば信じている。
また、ずっと遠くへ散歩していると、ひょろ長く不安定な二本脚の生き物と遭遇することがある。
実に奇妙な生き物である。毛皮も持たず、たった二本の脚で地面を踏みしめ、バランス悪く歩いている。吾が下僕と少々似ているが、吾が下僕は三本脚である。
レースのカーテン越しに差し込む木漏れ日を浴びながら、吾輩は目を細め、最後に見た三本脚の姿を脳裏に蘇らせた。
彼女が歩くたびに、ズルリ、ズルリと、一本の脚が床を擦る音がする。あれはきっと脚が悪く、引きずっているに違いない。太さの異なる三本目の脚がなければ、まともに歩くこともできないのではなかろうか。
木製の椅子に重そうに腰掛け、深いため息をつく彼女の姿は、いつだってどこか寂しげである。
吾輩とは異なり、彼女の顔には美しい毛並みがない。代わりに、むき出しの皮膚がたるみ、鼻や口が不格好に出っ張っている。顔中に散らばる無数の茶色いシミ、目元に刻まれた深い皺。それは、長い時間を凝縮した年輪のようだ。
「ソル、いい子だねぇ」
耳の奥で、彼女の嗄れた声が蘇る。
大きく、節くれだった手。その皮膚は乾いた樹皮のようにザラザラとしているが、吾輩の背中や後頭部、耳の後ろを撫でる時の手つきだけは、この世の何よりも優しかった。
あの手が、恋しい。
あの乾いた温もりが、今すぐにでも吾輩の額を撫でてくれるような気がして、思わず宙に頭を擦り付けてしまった。だが、そこにあるのは冷たい空気だけだ。
彼女は老婆である。名前はまだない。
というより、吾輩が知らぬだけだ。物心がついてから今日まで、この小屋を誰かが訪ねてきたことなど一度もなく、誰かが彼女を名で呼ぶ声を聞いたこともない。いつのことか、吾輩が外に出かけようとすると「誰かと会って餌をもらうのは構わないけど、連れてこないでね」と悲しそうに眉を曲げられたこともあった。
彼女は常に孤独であり、吾輩もまた、彼女以外の世界を知らぬ。
この薄暗い日陰の小屋で、我々は二人きりの群れだった。
グゥ、と腹が鳴った。
感傷に浸っている場合ではない。皿は空っぽだ。水桶の水も生温くなっている。
もしかすると、三本脚は木の実を拾うのに夢中になりすぎて、帰り道を忘れてしまったのではないか? あの老婆は動きも鈍いし、頭もそこまで良さそうには見えない。吾輩のような高貴な存在がそばについていてやらねば、路頭に迷うのも無理はないことだ。
「……仕方がない」
吾輩は髭をピクリと震わせ、決意を固めた。
教育的指導が必要だ。主をほったらかしにして帰ってこない愚かな下僕を迎えに行き、ついでに極上の獲物を捕らえてこさせねばならぬ。
吾輩は扉の前へと歩み寄った。冷たい取っ手へ飛び乗る。体重でそれが傾き、扉が開いていく。
そこから漏れ出す風の匂いは、草と土だけでなく、未知の気配も含まれていた。
思わず脚がすくみそうになる。
しかし、吾輩は敷居をまたぐ。
空腹には勝てぬ。それに何より——吾輩の下僕を、このまま野垂れ死にさせるわけにはいかないのだ。
「待っていろ、三本脚。すぐに吾輩が見つけ出してやる」




