Ⅰ
【一】
峻険な断崖をして、その大河は濃厚な霧を湛えていた。
そこを、一隻の河川砲艦が遡上している。見た目以上に流れは速い。だが、艦も負けずに力強い。
白い艦首波が河面を切り裂く。無数の飛沫が甲板を濡らし、あるいは霧へと姿を変える。河の匂いを強く感じたところで、艦長が甲板へ現れた。
「主任、もう見えますぞ」
「ああ……はい……」
自らが着任する研究所を見て、主任は声を絞り出した。内地から揺られどおしで、すでに吐くものも残っていない。だが、それは酔わないことを意味しなかった。
艦長はといえば、ぴしっと決まった白い軍服が、彼の佇まいそのものだ。長身痩躯、丁寧に揃えられた口髭が印象的な「黄色い紳士」である。くたびれたシャツの自分とは対照的と、他人事みたく思う。
そこへ伝令の若い兵が走ってきた。階級は低くとも、揺れる船上を器用に駆けるさまは、やはり玄人を感じさせる。
「艦長! 戦隊支部より緊急電――〈波浪〉です!!」
「戦闘配置! ――主任は艦内へ」
波浪、というのは、河川に対して使う語ではない。ゆえに緊急時の符牒として用いているのだろう。
だが、その中身まではわからない。ただごとではないのは、わかる。
「何が起きたんですか」
「竜が起きたんですよ」
〈竜〉というのも、なにかの符牒だ。
ひと月前の主任なら、そう思っていただろう。
だが今の自分は、まさに、その〈竜〉の専門家として、大陸奥地までやってきたのだ。こうして、船酔いに苦しみながら。
「――では、見ていたほうがよろしいでしょう」
「まあ、この下駄船では、どこにいても同じかもわかりませんな」
艦長が、からっと笑う。艦の安全に責任を持つ以上、その長の命令は客にも有効である。それを笑って許せるあたり、相応に度量が大きいと見える。
「隔離島より避退完了」
「よし。一番砲、二番砲、隔離島に照準しろ」
下流から見ると、研究島が隔離島を背負っているような配置になる。手前の島を跨ごうとして、二門の砲が仰角を取る。
河川砲艦というやつは、艦と撃ちあう艦ではない。河川に展開し、必要とあらば陸を撃つ。これを支配地に派遣して、わがもの顔で浮かべることが、列強諸国の嗜みなのだ。
「機関銃分隊も出動させろ。やつを隔離島から出すな」
「一番砲、準備良し」「二番砲、良し」
甲板に出たまま指揮を執る艦長へ、報告の声が直に届く。
乗組員が一体になっているという以上に、物理的な距離の近さが本艦にはある。
「打ち方ァ!」
柔和な物腰の、どこから出るのかという大音声だ。怒声と言ってもいい。
前後の砲が、火薬でもって、それに応じる。反動が艦全体を揺らし、砲声が河谷に殷々とする。周囲の霧が溶け、艦の闘気を可視化する。
最初に乗り込んだときは、正直なところ、頼りない船と思ったものだ。その砲もまた、海軍では豆鉄砲と呼ばれるらしい。だが陸軍では重砲と呼び、一大火力に値する。ここに砲艦というものの威力があるのだ。
数秒後に、弾着の爆音が返ってくる。二発の質が違うから、一つは河へと逸れたのだろう。その爆圧が波を生じて、艦は再び大きく揺れる。だが今や、主任は船酔いのことなど忘れていた。
「研究島、交わります」
双眼鏡を当てたまま、艦長が低い声で言う。はっとして、主任は手荷物から望遠鏡を取り出した。
艦が遷移する。研究島の陰から、隔離島が――〈竜〉が現れる。
「あれが……〈竜〉……」
主任が最初に抱いた印象は、不定形の影だった。ぎらついていて、とても昏い。それが望遠鏡の中で、瞬きのたびに形を成す。
そこには、黒い〈竜〉がいた。
大陸で「龍」といえば、鰐であったり、あるいは大河を指したりする。だが今、科学万能の当代において、主任の目に映っているのは、紛れもなく〈竜〉だった。
なるほど、逞しい頭部は、高さのある鰐にも似ている。だがその鼻先に一本、頭部には後ろ向きに二本の角が生えていた。頑丈な頸を経て、樽のような胴体を、強靭な四肢が支えている。かと思えば長く太い尾に身体を預け、二足で起立、歩行することもできるらしい。
「なんてやつだ……」
主任の口が、恐怖とも感嘆ともつかない声を漏らす。あの骨格を見るに、もともと四足歩行の動物が、二次的に二足歩行を獲得したものだろう。
立ち上がった〈竜〉が、周囲の樹木や人工物を矮小に見せている。警備隊の気圧されているのが、望遠鏡越しにもわかる。
それでも機関銃が〈竜〉を牽制したところへ、砲艦の火力が直撃する。おぞましい〈竜〉の咆哮は、渓谷の間で反響して、この世ならざる絶唱と化す。目を刺して、耳を裂くような音圧だ。
だが、それとて断末魔ではない。炎と煙が風に流れると、傷を負い、なお歩みを止めない〈竜〉の姿が現れる。
その凶悪な歯列に、ちらちらと赤いものが蠢いている。舌だろうか。
いや、そんなことより――
「あれは、あれはだれだ」
「なんですか――なんだ、人がいる!」
主任の呟きに、艦長が驚きの声を出す。
それも無理はない。そこにいたのは、明らかに軍人ではなかったからだ。
「あれは……子どもか……?」
歳のころは十五、六といったところか。やわらかい輪郭は、女性に違いないだろう。背中に触れる長い黒髪と、上下繋ぎの白い洋服が、現実離れした光景に拍車を掛ける。太陽を背にしたさまは、まるで光の化身のようだ。
「おい、あれに当てるな!!」
そんな無茶な。その場の誰もが、そう思った。ゆえに艦長の咄嗟の言葉を、全部隊は、射撃中止の命令と受け取った。
砲も銃も吠えるのを止め、それは〈竜〉も同様だった。渓谷に、造りものの静寂が満ちる。艦の機関だけが、やたらうるさい。
少女が右手を挙げている。それに逆光が重なって、円い視界の網膜を灼く。彼女の周囲で空気が揺らぐ。陽炎だろうか。
ゆっくりと少女が手を降ろす。
ゆっくりと〈竜〉が頭を垂れる。
少女が下げた手を、身体の前で組んで見せる。
〈竜〉は前肢を、腹を、そして下顎を地に着けた。それは、少女に傅くようで、跪くようでもあった。
少女は再び右手を上げると、〈竜〉の鼻先に触れた。聞こえるはずもないのに、いいこね、と言っているような気がした。
「〈竜〉を鎮めた……?」
「総員、戦闘配置解除。――警備に連絡、あの少女を保護せよ。大至急だ」
こいつは大仕事になりそうだ。
なんともなしに、主任は空を仰いだ。
朝日が昇る。
月が、薄く残っている。
◇ ◇ ◇
【二】
ほどなくして、砲艦が接岸し、係留された。
河の水臭さに混ざり、火薬の匂いが漂ってくる。
足もとには、どこからきたのか薬莢が転がっている。弾着痕は焼け焦げて、細い煙を上げている。丸太で組まれた防護柵は、鉛筆を折るようにされており、それもいくらか炭化している。
北方の羆でも、これほどのことはできないだろう。ここで起きていることは、人の寸法を超えている。
そんな思いに至って、ふと眩暈を覚えた。三半規管が疲弊しているらしい。ふらつく足が気恥ずかしくて、手近な木箱に腰を下ろす。
すると、若い伝令兵が駆けてきた。
「少女とお会いになりますか」
「あ、ああ。できるか?」
「艦長のご提案です。――こちらへ」
艦長は、流域を警備する、砲艦戦隊の司令も兼ねている。そして海軍が所管する当研究所も、彼を最高責任者としている。
下船以来、彼の姿を見ていないのは多忙ゆえだろう。それでも主任に配慮できるのが、彼の器なのだ。
案内されたのは、研究棟とは別の施設だった。表には「戦隊支部」とある。本部は河口付近の泊地にあり、ここはその支部というわけだ。
「独房か」
「ええ。他に適当な施設がありませんで」
それは、地形を活用したのだろう、半地下部分に角材で格子が組んである。
薄暗くて湿度も高いが、気温が低いため不快感は少ない。豊富な水源のおかげもあって、衛生環境も悪くはないようだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
「鍵は主任がお持ちください」
驚いた顔をすると、艦長の意向です、と兵が続ける。信頼されている、というのは少し違うようだ。
僻地の軍隊組織に、若い女性がいればどうなるか――恐らく兵の秩序と治安について、艦長は憂慮しているのだろう。場合によっては、それは竜以上の脅威のはずだ。
鍵を受け取ると、兵は一礼して退去した。
独房に向き直る。格子の奥の寝台に、少女が白く、淡く佇んでいる。
「やあ」
「あなたが主任さん?」
「あ、ああ、そうだ」
想定外に微笑みかけられて、思わず狼狽えてしまう。
長い睫毛と大きな双眸が、やわらかな光を湛えている。鼻は高くないが、すっきりしている。薄い唇を動かすさまは、妙に大人びて見えた。
寝台の向かい、粗末な椅子に腰かける。がたつく机に、手帳を開く。
「わたしのことを、調べるの?」
「まあね。本命は、竜だけど」
「あら、わたしは遊びってこと?」
少女が口に手を当てて笑う。華奢な四肢は、洋服と同じように色素が薄い。揺れる長い黒髪は、毛先まで艶っぽく、濡れた烏を思わせる。
「ふふ、そんなところだ」
「まあ、わたしもそうだけど」
「それじゃあ、ぼくらは恋敵ってことになるな」
「負けないわよ」
悪戯っぽく、少女が笑う。
それから簡単な身体検査を済ませ、数値を記録しておく。人体の専門家ではないが、生物の基本構造くらいはわかる。
少女の手は、心地よい涼しさがある。それでいて、手を重ねると、吸い付くように、あたたかい。
「……今は、ここまでにしておこう」
「そう」
着衣を直しながら、少女が応える。とりあえず、今は理性が勝利した。
彼女の身体は、色も寸法も、全体に「薄い」という印象だ。華奢ではあるが健康体、知性も適当で、おかしなところはなにもない。彼女の存在以外には。
最後に、瞼を開いて眼球を見る。きれいだ。瞳は黒く、とても昏い。その奥底で揺れる影が、主任の目に触れた、ような気がした。背筋が、ぞくりとする。
「これからよろしくね、主任さん」
微笑む少女に、ああ、と応えて、独房を施錠する。
これはまた別の意味で大変だぞ、と主任は言ちた。火照る顔を、河で洗いたい。
◇ ◇ ◇
【三】
戦隊支部から外へ出ると、艦長がこちらへ向かって歩いてくる。
「お構いできず、申し訳ありません」
「いえ、そんなことは。お忙しいでしょう」
「まあ、それなりです」
艦長は朗らかに言うと、左手で主任を促した。
どこかへ案内するつもりのようだ。
「して。なにかわかりましたかな?」
「今のところは、なにも。数字上は、ただの少女です」
彼女の白い肌を思い出して、心臓が跳ねるのを感じる。
隠したつもりではあるが、あるいは艦長には気づかれているかもしれない。取り繕うように、言葉を継ぐ。
「彼女の資料は、あるのですか」
「調べさせたのですが、なにもありません」
「現地語ではなく、われわれの言葉を話していました。関係者ではないんですか」
自ら口にすると、それがどれほど異常かわかる。訛りはおろか、抑揚に至るまで完璧だった。あれは流暢などという次元ではない。
「いいえ。ついでに下流の入植者でもないでしょう。ここと下流は、急流によって断絶していますから」
「では、陸地は」
「人跡未踏です。あの断崖ですからね」
大陸は列強に蚕食されており、ある独つの国が、この流域を切り取った。下流は工業化に向かず、上流は現地民にも未開の地――大河でありながら発展の遅れた「残りもの」だった。かの国は上流に望みを託した。その執念が急流を越え、ここを発見し、研究所を建てた。
そして、わが帝国は英でた国との同盟により、当該流域を解放した。今は、われらの旗が翻っている。
「では、あれはなんなんだ……」
「密航者という可能性も、なくはないですが、責任者として考えたくはないですね」
冗談か本気か、艦長は眉尻を下げて笑って見せた。
やがて、鉄柵で覆われた一画に辿り着く。気づいた歩哨が敬礼し、主任は会釈で返す。艦長が答礼してから頷くと、歩哨が門扉を開けた。錆びているようで、ぎいいと不快な音が響く。
この辺りは、前の住人も調べていたのだろう。そこかしこに外国語の標識や注意書きがある。そしてその奥に、岩の肉を剥き出しにして、隧道が口を開けている。
「これが、例の鉱山ですか」
「ええ」
人を拒む雰囲気だったが、坑道の中は意外と明るい。試掘のための通路は狭く、裸電球が等間隔で揺れている。
歩みを進めるほど、空気が冷える。肺が重さに沈んでゆく。
いつしか膝から下は見えなくなっていた。それに、なにかが足に絡む感覚がある。闇が蠢いていて、今にも這い上がってくるのではないか。
足もとが不安で壁に手をつく。ぬるりとして熱い。まるで内臓に触れたみたいだ。小さく悲鳴を上げるが、手は地下水で濡れているだけだ。恐る恐る、再び触れると、ひんやりとした岩壁だった。
「なんというか……不思議なところですね」
「主任も、そう思われますか」
先を歩く艦長の、白い背中すら見えなくなってしまうのではないか。そんなことを考えたが、幸いにして杞憂となった。彼の足が止まったからだ。
「ここです」
「これが……〈黒陽石〉……」
昏く、大きい岩塊だった。光沢のない、影のような鉱石だ。それが揺らいで見えるのは、おそらく裸電球の瞬きだろう。
研究者として、自然の営みに畏れを抱くことは何度もあった。だが今の感情が、それと同じといえる自信はなかった。
身じろぎすると、地下水を踏んだらしく、ぴしゃりとする感触がある。その違和感を確かめようと、何度か水溜まりを踏んでみる。やはり、そうだ。
「地下だから当然、という以上に、ここは静かすぎますね」
「鉱石が、音を吸収する材質なのでしょうか」
岩塊を見上げる、艦長の声もどこか遠い。
唐突な仮説が、主任の脳に閃いた。それを口にしてはいけない気がして、しかし、それを止められなかった。
「あるいは、音を聴いている……?」
主任の声は、自分の耳にすら届かなかった。
再び、影が揺らいで見える。
ここの電球は、すぐに替えたほうがいいだろう。




