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光の雫、影の帳  作者: 『光の雫、影の帳』制作委員会
月の明るいところと昏いところ/173
10/38

【一】


 峻険な断崖をして、その大河は濃厚な霧を湛えていた。

 そこを、一隻の河川砲艦が遡上している。見た目以上に流れは速い。だが、艦も負けずに力強い。

 白い艦首波(かんしゅは)河面(かわも)を切り裂く。無数の飛沫が甲板を濡らし、あるいは霧へと姿を変える。河の匂いを強く感じたところで、艦長が甲板へ現れた。


「主任、もう見えますぞ」

「ああ……はい……」


 自らが着任する研究所を見て、主任は声を絞り出した。内地から揺られどおしで、すでに吐くものも残っていない。だが、それは酔わないことを意味しなかった。

 艦長はといえば、ぴしっと決まった白い軍服が、彼の佇まいそのものだ。長身痩躯、丁寧に揃えられた口髭が印象的な「黄色い紳士」である。くたびれたシャツの自分とは対照的と、他人事みたく思う。

 そこへ伝令の若い兵が走ってきた。階級は低くとも、揺れる船上を器用に駆けるさまは、やはり玄人を感じさせる。


「艦長! 戦隊支部より緊急電――〈波浪〉です!!」

「戦闘配置! ――主任は艦内へ」


 波浪、というのは、河川に対して使う語ではない。ゆえに緊急時の符牒として用いているのだろう。

 だが、その中身まではわからない。ただごとではないのは、わかる。


()()()()()んですか」

()()()()()んですよ」


〈竜〉というのも、なにかの符牒だ。

 ひと月前の主任なら、そう思っていただろう。

 だが今の自分は、まさに、その〈竜〉の専門家として、大陸奥地までやってきたのだ。こうして、船酔いに苦しみながら。


「――では、見ていたほうがよろしいでしょう」

「まあ、この下駄船では、どこにいても同じかもわかりませんな」


 艦長が、からっと笑う。艦の安全に責任を持つ以上、その長の命令は客にも有効である。それを笑って許せるあたり、相応に度量が大きいと見える。


「隔離島より避退完了」

「よし。一番砲、二番砲、隔離島に照準しろ」


 下流から見ると、研究島が隔離島を背負っているような配置になる。手前の島を跨ごうとして、二門の砲が仰角を取る。

 河川砲艦というやつは、(フネ)と撃ちあう(フネ)ではない。河川に展開し、必要とあらば陸を撃つ。これを支配地に派遣して、わがもの顔で浮かべることが、列強諸国の嗜みなのだ。


「機関銃分隊も出動させろ。やつを隔離島から出すな」

「一番砲、準備良し」「二番砲、良し」


 甲板に出たまま指揮を執る艦長へ、報告の声が直に届く。

 乗組員が一体になっているという以上に、物理的な距離の近さが本艦にはある。


「打ち方ァ!」


 柔和な物腰の、どこから出るのかという大音声(だいおんじょう)だ。怒声と言ってもいい。

 前後の砲が、火薬でもって、それに応じる。反動が艦全体を揺らし、砲声が河谷に殷々(いんいん)とする。周囲の霧が溶け、艦の闘気を可視化する。

 最初に乗り込んだときは、正直なところ、頼りない船と思ったものだ。その砲もまた、海軍(うみ)では豆鉄砲と呼ばれるらしい。だが陸軍(おか)では重砲と呼び、一大火力に値する。ここに砲艦というものの威力があるのだ。

 数秒後に、弾着の爆音が返ってくる。二発の質が違うから、一つは河へと逸れたのだろう。その爆圧が波を生じて、艦は再び大きく揺れる。だが今や、主任は船酔いのことなど忘れていた。


「研究島、()わります」


 双眼鏡を当てたまま、艦長が低い声で言う。はっとして、主任は手荷物から望遠鏡を取り出した。

 艦が遷移する。研究島の陰から、隔離島が――〈竜〉が現れる。


「あれが……〈竜〉……」


 主任が最初に抱いた印象は、不定形の()だった。ぎらついていて、とても昏い。それが望遠鏡の中で、瞬きのたびに形を成す。

 そこには、黒い〈竜〉がいた。

 大陸で「龍」といえば、(ワニ)であったり、あるいは大河を指したりする。だが今、科学万能の当代において、主任の目に映っているのは、紛れもなく〈竜〉だった。

 なるほど、逞しい頭部は、高さのある鰐にも似ている。だがその鼻先に一本、頭部には後ろ向きに二本の角が生えていた。頑丈な(くび)を経て、樽のような胴体を、強靭な四肢が支えている。かと思えば長く太い尾に身体を預け、二足で起立、歩行することもできるらしい。


「なんてやつだ……」


 主任の口が、恐怖とも感嘆ともつかない声を漏らす。あの骨格を見るに、もともと四足歩行の動物が、二次的に二足歩行を獲得したものだろう。

 立ち上がった〈竜〉が、周囲の樹木や人工物を矮小に見せている。警備隊の気圧されているのが、望遠鏡越しにもわかる。

 それでも機関銃が〈竜〉を牽制したところへ、砲艦の火力が直撃する。おぞましい〈竜〉の咆哮は、渓谷の間で反響して、この世ならざる絶唱と化す。目を刺して、耳を裂くような音圧だ。

 だが、それとて断末魔ではない。炎と煙が風に流れると、傷を負い、なお歩みを止めない〈竜〉の姿が現れる。

 その凶悪な歯列に、ちらちらと赤いものが蠢いている。舌だろうか。

 いや、そんなことより――


「あれは、あれはだれだ」

「なんですか――なんだ、人がいる!」


 主任の呟きに、艦長が驚きの声を出す。

 それも無理はない。そこにいたのは、明らかに軍人ではなかったからだ。


「あれは……子どもか……?」


 歳のころは十五、六といったところか。やわらかい輪郭は、女性に違いないだろう。背中に触れる長い黒髪と、上下繋ぎの白い洋服が、現実離れした光景に拍車を掛ける。太陽を背にしたさまは、まるで光の化身のようだ。


「おい、あれに当てるな!!」


 そんな無茶な。その場の誰もが、そう思った。ゆえに艦長の咄嗟の言葉を、全部隊は、射撃中止の命令と受け取った。

 砲も銃も吠えるのを止め、それは〈竜〉も同様だった。渓谷に、造りものの静寂が満ちる。艦の機関だけが、やたらうるさい。

 少女が右手を挙げている。それに逆光が重なって、円い視界の網膜を()く。彼女の周囲で空気が揺らぐ。陽炎だろうか。


 ゆっくりと少女が手を降ろす。

 ゆっくりと〈竜〉が(こうべ)を垂れる。


 少女が下げた手を、身体の前で組んで見せる。

〈竜〉は前肢を、腹を、そして下顎を地に着けた。それは、少女に(かしず)くようで、(ひざまず)くようでもあった。

 少女は再び右手を上げると、〈竜〉の鼻先に触れた。聞こえるはずもないのに、いいこね、と言っているような気がした。


「〈竜〉を鎮めた……?」

「総員、戦闘配置解除。――警備に連絡、あの少女を保護せよ。大至急だ」


 こいつは大仕事になりそうだ。

 なんともなしに、主任は空を仰いだ。


 朝日が昇る。

 月が、薄く残っている。


  ◇ ◇ ◇


【二】


 ほどなくして、砲艦が接岸し、係留された。

 河の水臭さに混ざり、火薬の匂いが漂ってくる。

 足もとには、どこからきたのか薬莢が転がっている。弾着痕は焼け焦げて、細い煙を上げている。丸太で組まれた防護柵は、鉛筆を折るようにされており、それもいくらか炭化している。

 北方の羆でも、これほどのことはできないだろう。ここで起きていることは、人の寸法を超えている。

 そんな思いに至って、ふと眩暈を覚えた。三半規管が疲弊しているらしい。ふらつく足が気恥ずかしくて、手近な木箱に腰を下ろす。

 すると、若い伝令兵が駆けてきた。


「少女とお会いになりますか」

「あ、ああ。できるか?」

「艦長のご提案です。――こちらへ」


 艦長は、流域を警備する、砲艦戦隊の司令も兼ねている。そして海軍が所管する当研究所も、彼を最高責任者としている。

 下船以来、彼の姿を見ていないのは多忙ゆえだろう。それでも主任に配慮できるのが、彼の器なのだ。

 案内されたのは、研究棟とは別の施設だった。表には「戦隊支部」とある。本部は河口付近の泊地にあり、ここはその支部というわけだ。


「独房か」

「ええ。他に適当な施設がありませんで」


 それは、地形を活用したのだろう、半地下部分に角材で格子が組んである。

 薄暗くて湿度も高いが、気温が低いため不快感は少ない。豊富な水源のおかげもあって、衛生環境も悪くはないようだ。


「どうぞ」

「ありがとう」

「鍵は主任がお持ちください」


 驚いた顔をすると、艦長の意向です、と兵が続ける。信頼されている、というのは少し違うようだ。

 僻地の軍隊組織に、若い女性がいればどうなるか――恐らく兵の秩序と治安について、艦長は憂慮しているのだろう。場合によっては、それは竜以上の脅威のはずだ。

 鍵を受け取ると、兵は一礼して退去した。

 独房に向き直る。格子の奥の寝台に、少女が白く、淡く佇んでいる。


「やあ」

「あなたが主任さん?」

「あ、ああ、そうだ」


 想定外に微笑みかけられて、思わず狼狽えてしまう。

 長い睫毛と大きな双眸が、やわらかな光を湛えている。鼻は高くないが、すっきりしている。薄い唇を動かすさまは、妙に大人びて見えた。

 寝台の向かい、粗末な椅子に腰かける。がたつく机に、手帳を開く。


「わたしのことを、調べるの?」

「まあね。本命は、竜だけど」

「あら、わたしは遊びってこと?」


 少女が口に手を当てて笑う。華奢な四肢は、洋服と同じように色素が薄い。揺れる長い黒髪は、毛先まで艶っぽく、濡れた烏を思わせる。


「ふふ、そんなところだ」

「まあ、わたしもそうだけど」

「それじゃあ、ぼくらは恋敵ってことになるな」

「負けないわよ」


 悪戯っぽく、少女が笑う。

 それから簡単な身体検査を済ませ、数値を記録しておく。人体の専門家ではないが、生物の基本構造くらいはわかる。

 少女の手は、心地よい涼しさがある。それでいて、手を重ねると、吸い付くように、あたたかい。


「……今は、ここまでにしておこう」

「そう」


 着衣を直しながら、少女が応える。とりあえず、今は理性が勝利した。

 彼女の身体は、色も寸法も、全体に「薄い」という印象だ。華奢ではあるが健康体、知性も適当で、おかしなところはなにもない。彼女の存在以外には。

 最後に、瞼を開いて眼球を見る。きれいだ。瞳は黒く、とても昏い。その奥底で揺れる影が、主任の目に触れた、ような気がした。背筋が、ぞくりとする。


「これからよろしくね、主任さん」


 微笑む少女に、ああ、と応えて、独房を施錠する。

 これはまた別の意味で大変だぞ、と主任は()ちた。火照る顔を、河で洗いたい。


  ◇ ◇ ◇


【三】


 戦隊支部から外へ出ると、艦長がこちらへ向かって歩いてくる。


「お構いできず、申し訳ありません」

「いえ、そんなことは。お忙しいでしょう」

「まあ、それなりです」


 艦長は朗らかに言うと、左手で主任を促した。

 どこかへ案内するつもりのようだ。


「して。なにかわかりましたかな?」

「今のところは、なにも。数字上は、ただの少女です」


 彼女の白い肌を思い出して、心臓が跳ねるのを感じる。

 隠したつもりではあるが、あるいは艦長には気づかれているかもしれない。取り繕うように、言葉を継ぐ。


「彼女の資料は、あるのですか」

「調べさせたのですが、なにもありません」

「現地語ではなく、われわれの言葉を話していました。関係者ではないんですか」


 自ら口にすると、それがどれほど異常かわかる。訛りはおろか、抑揚に至るまで完璧だった。あれは流暢などという次元ではない。


「いいえ。ついでに下流の入植者でもないでしょう。ここと下流は、急流によって断絶していますから」

「では、陸地は」

「人跡未踏です。あの断崖ですからね」


 大陸は列強に蚕食されており、ある()()()()が、この流域を切り取った。下流は工業化に向かず、上流は現地民にも未開の地――大河でありながら発展の遅れた「残りもの」だった。かの国は上流に望みを託した。その執念が急流を越え、ここを発見し、研究所を建てた。

 そして、わが帝国は()()()()との同盟により、当該流域を解放した。今は、われらの旗が翻っている。


「では、あれはなんなんだ……」

「密航者という可能性も、なくはないですが、責任者として考えたくはないですね」


 冗談か本気か、艦長は眉尻を下げて笑って見せた。


 やがて、鉄柵で覆われた一画に辿り着く。気づいた歩哨が敬礼し、主任は会釈で返す。艦長が答礼してから頷くと、歩哨が門扉を開けた。錆びているようで、ぎいいと不快な音が響く。

 この辺りは、前の住人も調べていたのだろう。そこかしこに外国語の標識や注意書きがある。そしてその奥に、岩の肉を剥き出しにして、隧道(ずいどう)が口を開けている。


「これが、例の鉱山ですか」

「ええ」


 人を拒む雰囲気だったが、坑道の中は意外と明るい。試掘のための通路は狭く、裸電球が等間隔で揺れている。

 歩みを進めるほど、空気が冷える。肺が重さに沈んでゆく。

 いつしか膝から下は見えなくなっていた。それに、なにかが足に絡む感覚がある。闇が蠢いていて、今にも這い上がってくるのではないか。

 足もとが不安で壁に手をつく。ぬるりとして熱い。まるで内臓に触れたみたいだ。小さく悲鳴を上げるが、手は地下水で濡れているだけだ。恐る恐る、再び触れると、ひんやりとした岩壁だった。


「なんというか……不思議なところですね」

「主任も、そう思われますか」


 先を歩く艦長の、白い背中すら見えなくなってしまうのではないか。そんなことを考えたが、幸いにして杞憂となった。彼の足が止まったからだ。 


「ここです」

「これが……〈黒陽石〉……」


 昏く、大きい岩塊だった。光沢のない、影のような鉱石だ。それが揺らいで見えるのは、おそらく裸電球の瞬きだろう。

 研究者として、自然の営みに畏れを抱くことは何度もあった。だが今の感情が、それと同じといえる自信はなかった。

 身じろぎすると、地下水を踏んだらしく、ぴしゃりとする()()がある。その違和感を確かめようと、何度か水溜まりを踏んでみる。やはり、そうだ。


「地下だから当然、という以上に、ここは静かすぎますね」

「鉱石が、音を吸収する材質なのでしょうか」


 岩塊を見上げる、艦長の声もどこか遠い。

 唐突な仮説が、主任の脳に閃いた。それを口にしてはいけない気がして、しかし、それを止められなかった。


「あるいは、音を聴いている……?」


 主任の声は、自分の耳にすら届かなかった。

 再び、影が揺らいで見える。

 ここの電球は、すぐに替えたほうがいいだろう。


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