番外編:「怒らない彼氏」が一番怖いと知った日。ダイヤモンドをドブに捨てて、私はただの石ころを拾っていた
私、愛染璃々夢は、自分が世界の中心だと信じて疑わないような女の子だった。
可愛くて、要領が良くて、愛されるのが当たり前。
だから、高校に入ってすぐに天道善治と付き合ったのも、彼が「私を全肯定してくれる便利な存在」だったからだ。
善治は優しかった。優しすぎた。
私がワガママを言ってもニコニコ笑って許すし、デートで遅刻しても怒らない。記念日には手作りのプレゼントをくれる。
最初はそれが心地よかった。
でも、一年も経つと、それは「退屈」という名の毒に変わった。
「善治ってば、本当に刺激がないんだもん」
そんな時、隣の高校の蛇穴鋭一くんと出会った。
彼は強引で、チャラくて、善治とは正反対。「悪いこと」をしている背徳感が、私をドキドキさせてくれた。
「善治には適当に嘘つけばいいや。どうせあの人、仏様みたいに鈍感だし」
そう思っていた。
私が善治という「特大の傘」の下にいたからこそ、雨に濡れずに済んでいたことに気づきもせずに。
◇ ◇ ◇
異変は、唐突に始まった。
あの日、鋭一くんとホテルに行った翌日。
学校に行くと、空気が冷たかった。物理的な温度じゃない。私に向けられる視線が、針のように痛かったのだ。
「おはよー!」
教室に入って挨拶をしても、誰も返事をしない。
仲の良かったグループの子たちが、私と目が合った瞬間にフイッと顔を背ける。
(え、なに? 私、何かしたっけ?)
椅子に座ろうとすれば脚が折れ、トイレに行けば「使用中」の札がかかっているのに誰も出てこない。
極めつけは、スマホを開いた時だった。
私のSNSのアカウントが、見たこともない数の通知で埋め尽くされていた。
『天道くんを裏切るとか信じられない』
『お前があの笑顔を曇らせたのか』
『二度と幸せになれると思うな』
(なにこれ……なんでバレてんの? ていうか、なんでみんな善治の味方なの!?)
私は怖くなった。
善治は地味で冴えない、ただのいい奴だ。クラスの中心人物でもないし、イケメンでもない。
なのに、まるで学校中――いいえ、街全体が「善治親衛隊」になったみたいに、私を敵視してくる。
「ねえ、聞いてよ! みんな酷いの!」
家に帰って、お母さんに泣きつこうとした。
お母さんは私の味方だ。いつだって私を甘やかしてくれる。
けれど、玄関を開けたお母さんの顔を見て、私は凍りついた。
見たこともないほど、冷ややかな目。
「……璃々夢。あんた、善治くんを裏切ったんだって?」
「え……なんでママまで知って……」
「商店街の噂だよ! 八百屋さんもお肉屋さんも、みんなあんたの話で持ちきりさ。『天道さんを傷つけた恩知らずな娘』ってね!」
お母さんはため息をつき、悲しそうに首を振った。
「パパも激怒してるよ。あの日、パパが会社をクビになりそうだった時、偶然話を聞いて励ましてくれたのが善治くんだったんだ。……出て行きなさい。頭を冷やすまで、この家の敷居は跨がせないよ」
(嘘でしょ……パパもママも、私より善治が大事なの?)
私は家を飛び出した。
行く場所なんてなかった。鋭一くんに連絡しても繋がらない。
世界中で、私一人だけが透明な箱に閉じ込められて、酸素がなくなっていくような感覚。
その時、ようやく理解したのだ。
善治の「優しさ」は、ただの性格じゃなかった。
彼が積み上げてきた善行は、彼自身を守る最強の鎧であり、彼を愛する者たちを繋ぐ巨大なネットワークだったんだ。
私はその鎧に守られていただけ。
「善治の彼女」というだけで、私はこの街のVIP扱いを受けていたのだ。
おまけしてくれたコロッケも、見逃してくれた遅刻も、みんな私が可愛いからじゃなく、「善治の彼女」だったから。
それを自ら捨てた瞬間、世界は牙を剥いた。
◇ ◇ ◇
そして、最後通告の日。
校舎裏で、鋭一くんが警察に連行されていくのを見た。
隣に立っていた皇 帝雅くんの、氷のような視線。
あんなに美形で憧れていた皇くんが、善治のためなら悪魔にでもなると知って、私は震えが止まらなかった。
「善治……」
私は善治にすがった。
計算じゃなかった。もう、彼しかいないと思ったから。
彼なら許してくれる。彼なら、この地獄から私を救い出してくれる。
「許すよ。怒ってない」
善治はいつものように微笑んだ。
ああ、よかった。やっぱり善治はチョロい。これで助かる。
そう思った瞬間、突き落とされた。
「でも、もう付き合えない」
「え……?」
善治の瞳には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、静かな「諦め」と「憐れみ」だけがあった。
「君と一緒にいたら、君はずっと辛い思いをする。僕にはそれを止める力がないんだ」
その言葉を聞いた時、私は自分の愚かさに殺されそうになった。
彼は、自分を裏切った私を、まだ守ろうとしている。
「自分が近くにいると私が攻撃されるから」と、身を引くことで私を守ろうとしている。
(ああ、なんて人なの……)
鋭一くんは「俺は悪くない!」と叫んで連行された。
善治は「僕の力不足だ」と言って私を解放した。
どっちが「いい男」だったかなんて、比べるまでもなかった。
私はダイヤモンドを「ただのガラスだ」と笑ってドブに捨て、泥だらけの石ころを拾って喜んでいたのだ。
「さようなら、善治」
別れの言葉を口にした時、私の胸に去来したのは、かつて彼と過ごした穏やかな日々だった。
手作りのお弁当。放課後の帰り道。私の話をうんうんと聞いてくれる優しい笑顔。
退屈だなんて思ってごめんなさい。
あれこそが、世界で一番贅沢な時間だったのに。
◇ ◇ ◇
転校先での生活は、静かなものだった。
誰も私の過去を知らない街。
善治のファンもいない代わりに、私を守ってくれる人もいない。
「ねえ愛染さん、今度遊びに行かない?」
新しい学校で、男の子に声をかけられた。
悪くない顔立ち。優しそうな雰囲気。
でも、私は無意識に比べてしまう。
善治なら、もっと温かい目で見てくれた。
善治なら、下心なんて見せずに接してくれた。
「……ごめん、用事があるの」
私は断って、一人で帰路につく。
夕焼け空を見上げると、どうしてもあの優しい笑顔が浮かんで消えない。
「善治……会いたいよ」
呟いても、もう遅い。
私は知ってしまったのだ。
「怒らない彼氏」を怒らせた時、失うものの大きさを。
そして、その喪失感は、一生消えることのない呪いのように、私を縛り続けるのだと。




