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第9話 しあわせ宣言

沙也加――さやっちと友達になってから、たった二週間。

でも、私の時間はまるで別の暦に置き換えられたみたいに、まぶしく速く過ぎていった。

詩織の化け物の姿を見ても。

あの夜、「友達になってください」と震えながら言ってくるさやっちを前に泣いた後でも。

私はいつも通り学校へ通って、ノートを開いて、笑っていた。

だけど、心の奥ではずっと映画のスクリーンがまわり続けていた。

“クラスに化け物の王と、その餌がいて、私はその二人の唯一の友達”。

そんな役回りが、現実とは思えないほど非現実的で、それでも胸が熱くなる。

三人で登校するのはもう当たり前になった。

さやっちの笑い声がすると、詩織の目がほんの一瞬だけ鋭く光る。

その光は、獲物を測る刃のようで、でもどこか喜んでいるようでもあった。

さやっちは本当に変わった。

前は光を反射しないガラス玉みたいだったのに、今はすぐに笑うようになって、

たまに私にだけ小さな相談をしてくる。

そんな変化を見るたび、胸が少しだけ誇らしくなる。

でも、それに比例して――詩織の私への態度は冷えていった。

物理的な距離は近いのに、心の距離だけが加速度的に開いていく。

まるで、私という存在そのものが「計画を乱す余計な雑音」みたいに扱われている気がした。

その予感は、今日、確信に変わった。


さやっちが「ちょっとトイレ」と笑って席を立った瞬間、

風が止んだ。

本当に、音が――消えた。

さっきまでの昼休みのざわめきも、グラウンドから聞こえる歓声も、

校舎を渡る風鈴みたいなチャイムの余韻も、ぜんぶ薄紙の裏側に閉じ込められたように遠くなる。

世界から色が抜ける、ってこういうことなんだと思った。

残されたのは、私と詩織だけ。

詩織は柵にもたれ、街の方を見ていた。

光を呑み込むような黒髪が風に流れ、制服の袖口が細い手首を縁取る。

そこには欠けたところも継ぎ目もなくて、

“人間”というより、何かもっと別の――冷たく完璧なもの。

こんなの、どうして怖くならないわけがあるだろう。

「……あのさ、詩織」

声を出した途端、喉がひりついた。

詩織はわずかに顎を傾け、視線だけこちらに向ける。

その目は、北極の海底みたいだった。

暗くて、澄んでいて、何も逃がさない。

「何?」

その声音の平坦さに、背筋がすっと冷える。

「私、詩織とさ……ちゃんと話したいんだ。腹を割って」

詩織は鼻で笑った。

本当に、嘲笑としか言いようがなかった。

「あなたに話すことなんてないわ」

胸の奥に、小さな穴があく。

風がそこを通り抜ける気がした。

「なんで、さやっちを食べようとするの?

あんなに笑うようになったのに。

なんで私にはそんなに冷たいの?

私とさやっちが仲良くなるのが……そんなに嫌なの?」

詩織はゆっくりと雑誌を閉じ、頬杖をついて私を見た。

その瞳には、明確な侮蔑があった。

感情というより、「評価」。

冷徹な計算の結果としての軽蔑。

「簡潔に言うわ、峯光蛍」

その名前の呼ばれ方だけで、心臓が跳ねた。

「あなた、あの子のことを今まで見て見ぬふりしてきたでしょう?」

肺の奥がぎゅっと掴まれたみたいに痛む。

それでも視線を逸らせなかった。

「あの子が、一人で死のうとしていた時。

あなたはどこにいたの?

何を見ていたの?」

世界が傾いた気がした。

グラウンドから吹いてきた風が、屋上のコンクリートの上で渦を巻く。

でもその冷たさより、胸の痛みの方がずっと強かった。

私は――知っていた。

気づいていた。

でも、怖かった。声をかける勇気が出なかった。

その逃げが、詩織には許せないんだ。

「少し変化した途端に興味を持って近づき、

友達になろうだなんて……都合が良すぎるのよ」

詩織の声は静かだった。

だからこそ、容赦がなかった。

「私はあなたが嫌いよ。

手間をかけて育てたものを横取りしようとする“雑音”みたいだから」

胸の奥で、何か熱いものがふっと燃えた。

怒りだ。

でも反論できない。

全部、図星だから。

詩織の言葉は、私が一番触れられたくなかった場所を、正確にえぐった。

その時――

屋上の扉がガラッと開いた。

「ただいま。ごめんね、待たせちゃって」

さやっちの声が、風みたいに明るく響いた。

張り詰めていた空気が、いきなり解ける。

緊張の糸が切断されたみたいに、私も詩織も同時に黙り込んだ。

「別に何でもないわ」

詩織はいつもの無表情で言い捨てる。

「何でもないよ!」

私は無理やり声を張り上げた。

さやっちはきょとんとし、それから優しく笑った。

どうしてこんなに無垢なんだろう。

どうして何も知らずにいられるんだろう。

――この子には、ずっと知らないままでいて欲しい。

そう祈るように思った、昼休みの屋上だった。


詩織は、校舎を出てすぐの分かれ道で淡々と言った。

「私は先に帰るわ。今日は」

理由も、振り返りもしない。

いつもなら、さやっちの後ろを影のように歩く詩織が――自分から距離を取った。

夕焼けの光に溶ける背中が、やけに遠く感じた。

残された道、残された空気。

そこに残ったのは、私とさやっちだけだった。

二人の影がアスファルトに重なって、また離れて、

夕陽の角度によって、まるで“どちらが先に届くか”を競っているみたいだった。

胸の奥が妙にざわついて、私は言葉を飲みこんでは吐き出すように呼吸した。

「……さやっち。真面目な話があるんだけど」

足を止めて、振り返ったさやっちの顔が、夕日で輪郭だけ光り、表情が読めない。

その“読めなさ”が、逆に怖かった。

「なに、蛍ちゃん?」

深呼吸して、やっと、口が動いた。

「さやっちってさ……

本当に、詩織に“食べられてもいい”って思ってるの?」

空気がぴたりと止まる。

風も足音も、遠くの部活の声も、全部遠ざかっていった。

さやっちはすぐに答えなかった。

一度だけまぶたを閉じて、何かを思い出すように息を吸い――

「……うん。いいよ。私は」

光に照らされているのに、その声は少し影を帯びていた。

「だって、詩織が……私の“生きる意味”をくれたから」

胸の奥で音がした。

聞こえないはずの“ひび割れる音”が、確かにした。

「生きる意味……?」

気づいたら、私は一歩踏み出していた。

「さやっちは……詩織のこと、友達だと思ってるの?」

訊いてから、自分が必死なのがわかった。

喧嘩でも嫉妬でもなく――“奪われる恐怖”だった。

さやっちは少し視線を落とし、ゆっくり言葉を選んだ。

「友達かどうかはわからない。

でも……ううん、違うな。

詩織はね……一番、大切な人だよ」

“かな”ではなく、“だよ”。

ためらいのない肯定だった。

その瞬間、さやっちの表情がふっと揺れた。

夕焼けの中に、過去が透けて見えるように――

さやっちの声が、遠いどこかの空気を連れてきた。


──あの日

私たちが高一になったばかりの頃。

校舎の匂いすら新しくて、机の落書きでさえ “これから始まる物語” の一部みたいに思えていた。

新しい教室、新しいクラスメイト、新しい先生。

まぶしいほどの新鮮さに胸を躍らせながら席に着いたとき――

教室の扉が開いて、さやっちが入ってきた。

その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて沈んだ。

頬に貼られた白いガーゼ。

指先に細かい傷。

夏の光が差し込む窓辺でも色を奪われたみたいな、濁った瞳。

歩く姿は、まるで“存在を小さくする方法”だけで構成されているみたいだった。

誰にも見つからないように、誰の記憶にも残らないように。

それなのに、私は目を離せなかった。

──どうしたの?

──怪我したの?

──大丈夫?

そんな簡単な言葉でさえ喉が固まって出てこなかった。

“触れてしまえば壊れる”

そんな予感がした。

いや、違う。

本当は――

もし聞いてしまったら、

もし踏み込んでしまったら、

私はもう後戻りできなくなる。

「この子の痛みに、自分が気づいてしまった」という事実から逃げられなくなる。

その怖さだった。

私は目をそらした。

その瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。

それでも、罪悪感で押しつぶされそうになりながら、かろうじて口にできたのは、

「……おはよう」

ただそれだけ。

あまりにも軽くて、役に立たない、小さすぎる言葉。

挨拶なんて、傷口に絆創膏を貼るくらい無意味だと分かっていた。

それでも言わずにはいられなかった。

罪滅ぼしみたいに。

さやっちは、小さく会釈しただけだった。

目は伏せたまま。

声もなかった。

その姿は、ただ風に押されて揺れる影のようで――胸が痛んだ。

私は馬鹿で、弱くて、卑怯だった。

彼女の痛みを知ることが怖くて、踏み込む勇気なんてどこにもなかった。

もし私がもっと強かったら。

もし誰かに頼れたら。

もし、あの日声をかけられていたら。

何かを変えられたかもしれない。

救えたかもしれない。

でも私は、何もできなかった。

それでも。

本当にそれしかできなかったけれど。

“消えてしまわないように”

私は毎朝、彼女に声をかけ続けた。

「おはよ、望月さん」

必ず目を見て。

必ず笑顔で。

そのたびに胸の奥がぎゅっと痛むのに、やめられなかった。

返ってくる声は、いつも小さくて消え入りそうで――

だけど、確かにそこにあった。

その小さな声が返ってくるたびに私は思った。

どうか今日だけは、生きていてくれますように。

あの日々の延長線の先に、

今の彼女の笑顔がある。

でも同時に――

あの日々の沈黙の延長線の先に、

“彼女を食べようとする詩織”との出会いがあった。

その事実が、今の私を締めつけて離さない。

さやっちは穏やかに、でも確かな声で続けた。

「だから、私は詩織に全部返すだけなの。

命でも心でも……与えられたものを返すのは、変じゃないよね?」

変じゃない。

でも――正しくもない。

私は首を振った。

「でもさやっち……食べられるって、死ぬってことでしょ?」

「うん。でも、それでいい」

迷いがひとつもなかった。

夕陽で照らされるさやっちが、

まるで決意そのものの像みたいで――眩しくて、苦しかった。

「詩織のおかげで私は“生きたい”って思えた。

もし最後に全部奪われても……

それでも、詩織に出会えてよかったって思うよ」

夕日がゆっくり沈んでいく。

空の端が冷たく青に変わり始める。

でも、胸の奥だけが灼けるように熱かった。

――嫌だ。

――絶対嫌だ。

――さやっちは、救われるために死ぬんじゃない。

そんな未来、絶対に認めない。

何も言えないまま家に帰り、

布団に入っても、天井は闇より重くて、

何度目を閉じても、詩織の冷たい瞳と、さやっちの諦めのない笑顔が交互に浮かんだ。

その夜、私は一睡もできなかった。


翌日

昼休みの屋上。

風は昨日と同じで、空も優しく晴れていたはずなのに。

三人で輪になって座っているのに、世界のどこかのネジが外れてしまったみたいに、私は笑えなかった。

口角だけ引きつったみたいに動いて、目だけがまったく笑っていなかった。

そんなの、すぐに見抜かれた。

「蛍ちゃん、大丈夫?」

さやっちの声は、太陽をそのまま声にしたみたいに明るくて優しくて。

だからこそ、その優しさが胸の奥をきゅっと締めつけて、言葉が詰まった。

“優しい子ほど死んでほしくない”

心の中で叫び続けていたこの言葉を、絶対に口に出すわけにいかなかった。

「だ、大丈夫だよ」

嘘だ。

今にも泣きたくて、叫びたくて、走り出したくて。

だけど全部、押しこめた。

お弁当の味も覚えていない。

ただ、詩織の横顔がずっと冷たく光っているのだけが分かった。

下校中も私たちはほとんど何も話さなかった。

沈黙が、痛かった。

歩道に落ちる影が三つ、夕焼けの色で伸びていく。

でも胸の奥では、影じゃなくて不安が伸び続けていた。

駅前に着くと、ふたりは自然な動作で改札へ向かった。

「じゃあね、詩織。さやっち」

さやっちは振り向いて、小さく手を振った。

その笑顔が、消えてしまいそうなくらい儚く見えた。

詩織は一瞬こちらに視線を投げた。

刃物みたいに冷たくて、まるで「あなたはもう関係ない」と言われている気がした。

けれど――

私はもう、その視線すら怖くなかった。

2人の間に、無責任に割って入った。

それは――もう、言い訳のしようもない事実だ。

詩織とさやっちの関係に、私が踏み込む資格なんて本当はなかった。

2人の世界は、私が知らない傷や痛みや、私じゃ抱えきれない暗さで編まれていたのだから。

私は何も知らなかった。知ろうともしていなかった。

ただ、「仲間外れになりたくない」という、情けない、子どもみたいな感情があっただけ。

……だけど。

あの日。

暗い路地で、詩織に殺されそうになった時、さやっちに助けられた。

救われるべきは彼女の方なのに。

傷ついて、壊れて、誰より弱っているはずの彼女に、

助けられ、“友達になってほしい”なんて言われて。

胸の奥が、一瞬だけ温かくなった。

その温かさが、嬉しくて、悔しくて、どうしようもなく情けなかった。

だって私は、ずっと誰かに必要とされるのを待っていたから。

そんな自分の浅ましさを、彼女の一言で突きつけられた気がしたんだ。

そして今――2人が並んで歩いていくのを見送れば、

私だけがこの世界から溢れてしまう気がした。

いや、違う。

“この2人の物語から、私だけが消えてしまう気がした。”

その恐怖が、爪を立てて心を掴んで離さなかった。

私はただの友達じゃない。

でも、2人の特別にもなれない。

そのどちらでもない中途半端な場所に立たされたまま、置いていかれるのが怖かった。

だから、私は――

「この2人を手放したくない」

その一心でここに立っている。

それがどれだけ醜くても、自己中心的でも、間違っていても。

この心だけは、本当なんだ。

昨日、屋上で突き刺された言葉の痛み。

あの日、助けを求めていたさやっちに何もできなかった後悔。

今、笑ってくれるさやっちの尊さ。

全部が渦巻いて、胸の奥で“何か”が限界を突破していた。

拳を握った。

怖さの代わりに、熱が走った。

二人の背中が遠ざかる。

でも、遠ざからせたくなかった。

だから――私は叫んだ。


「幸せにするから!!」


世界が一瞬、止まった。

改札に消えかけていた二人が、同時に振り返る。

通勤客のざわめきが、遠くへ遠くへ追いやられていく。

耳の奥で自分の鼓動が爆発みたいに鳴っていた。

「私は諦めない!」

声が震えていたけど、心は揺らがなかった。

「詩織、あんたはさやっちを“最高の餌”にしたいんでしょ!?

私は――二人を世界で一番しあわせな“友達”にする!!」

胸の奥が焼けるように熱かった。

「うちらがお互いを本当に“親友”って呼べるくらい、

あんたも、さやっちも幸せにしてやるんだから!!」

詩織の目がわずかに大きく開いた。

その反応が、心に火を注いだ。

「そしたら、“熟成”なんて必要なくなる。

幸せな人間は、自分の命なんて差し出したりしないんだから!」

それは、戦いの開始を宣言する言葉だった。

逃げ道のない、峯光蛍の真っ直ぐな戦争の火蓋。

「だから……覚悟しといてよね、しおりん!!」

詩織はしばらく無表情のまま私を見つめて――

ほんのわずか、唇の端が上がった。

微笑んだ。

人間としての感情が混ざった、はじめての表情だった。

「……頑張ることね。蛍」

それは、王が挑戦を受けて立つ時の笑み。

さやっちは一歩近づき、ふわっと笑った。

「うん。蛍ちゃんが幸せにしてくれるの、待ってるから」

その言葉が私の心に、灯火じゃなくて“炎”を落とした。

二人の背中が今度こそ改札の向こうに消えていく。

私は自転車を押しながら夜風を吸い込んだ。

胸の奥は熱くて、騒がしくて、今まで生きてきた中で一番“生きている”と感じた。

(どうすれば、さやっちを幸せにできる?)

(“化け物の王”を、友達として打ち負かせる方法は?)

(考えろ、峯光蛍。弱くても、バカでも。考えて、動いて、守れ!!)

私の小さな戦争は――ここから始まった。

9話です。

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