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8話 気になるあの子

えっと、自己紹介しろって言われると毎回困るんだけど──

私は峯光蛍、十七歳。趣味と好きな物は映画とコーヒー牛乳。

二神高校三年、まあ、どこにでもいる普通の女子です。

クラスでは明るい方だと思う。たぶん。

友達は多いし、先生にもよく話しかけられるし、バイトもしてる。

毎日それなりに忙しいけど、それなりに楽しい。


家を出て、坂道を下って、商店街を抜けて──

これが私のいつもの通学路。

朝のパン屋の匂いとか、開店準備してる店員さんの「おはよー」とか、

そういうのを聞くと「あー今日も始まったな」って感じがする。

校門に近づくと、同じクラスの子たちが何人か集まってて、

「蛍ー! 昨日のドラマ見た?」なんて声が飛んでくる。

私も手を振って、「見た見た! 途中で寝たけど!」って返す。

ほら、こういう普通のやりとり。

たぶん、ずっとこんな調子で卒業まで行くんだろうなって思ってた。

……その子に出会うまでは。


校舎の入口を通って下駄箱の前まで来たとき、いつものように小さな影が視界に入った。

望月沙也加さん。

ひとりで靴を履き替えてる。

背中越しでもわかるくらい静かで、淡い。

まるで朝の光みたいに触れたら消えてしまいそうな雰囲気をしている。

「あ、望月さん!おはよー!」

声をかけると、望月さんはゆっくり顔を上げて、ほんの少しだけ表情を動かした。

「……おはようございます、峯光さん」

たったそれだけの会話。

でも、私はなんだか安心する。

望月さんは、ちゃんと返してくれるから。

──だけどその視線は、どこか遠い。

こっちを見てるようで、見てない。

やっぱり、別の世界にいるみたいなんだよなあ、この子。

そう思ったその瞬間、

彼女の後ろから、もうひとつの気配がそっと近づいてきた。

そこには黒咲さんがいた。

相変わらず、完璧に整った顔立ち。

まるで絵から出てきたみたいな美人で、髪の先まで隙がない。

普通なら「すごいキレイな人が転校してきた」って感想になるんだろうけど……。

私は、その瞬間だけ息が止まる。

理由はわからない。

ただ、胸の奥がぞわりと波立つ。

獣に見られてるような、本能のどこかが反応するような……

そんな“得体の知れない恐怖”がうっすらと走る。

 綺麗なのに、逆に胡散臭い。

 近づいたらダメな気がするのに、気づくと目で追ってしまう。

 なんなんだろう、この人。

「おはよう、峯光さん」

 名前を呼ばれて、思わず背筋が伸びた。

 黒咲さんは微笑む。

 なのに──その笑顔のどこにも温度がない。

「お、おはようございます。黒咲……さん」

 言った瞬間、喉がカラカラになってるのに気づいた。

 

 何事もなかったかのように、学校生活が始まる。

 一時間目は古典。

眠たそうなクラスメイトたちのあいだを縫うように風が通る。

二神高校は古い建物で、廊下は少しだけ軋むし、窓の鍵もゆるい。

でも、こういう“ボロさ”が私は嫌いじゃない。

廊下には朝の光が差し込んで、

床のワックスの匂いと混ざって、なんともいえない学校らしさを作っている。

先生が黒板にチョークを走らせる音。

クラスの後ろでくすくす笑ってる声。

眠気と戦いながら教科書をめくる私。

こういう“普通”が続くと思っていた。

ふと斜め前を見ると、窓際の席に座る望月さんが外を眺めていた。

授業中なのに、何かを見つめるような深い目。

そして、そのさらに向こう。

黒咲さんは姿勢を崩さず、教師の言葉だけを淡々と吸収している。

動きは少ないはずなのに、存在感が異様に強い。

 ──どうしてこの二人が並んで座っているだけで、教室の“空気”が変わるんだろう?

私は落ち着かなくて、何度もチラチラ見てしまう。

望月さんは触れたら壊れそうで。

黒咲さんは触れたら噛みちぎられそうで。

本当に同じ高校生なのかな……なんて思ってしまう。


休み時間。

友達に話しかけられて笑いながら返事してるけど、

頭のどこかで、やっぱり二人のことが気になってしょうがない。

──なんでだろう。

あの二人の間に何があるの?

そんな疑問が胸の奥にずっと引っかかっていた。


昼休み。

友達と机をくっつけて他愛もない話をしながら、私はママが作ってくれた弁当を開いた。

今日はサンドイッチ。きつね色のパンに、レタス、トマト、そしてピンク色のハム。

どこにでもある、なんてことない昼ごはんだけど、私はこれが大好きだ。

ひと口かじって、ふと視線を上げる。

教室の入り口の方で、望月さんと黒咲さんが弁当を手に、並んで歩いていくところが見えた。

いつもの光景だ。昼休みになると決まって二人でどこかへ行く。

昼食だけじゃない。登校も、下校も、放課後も──ほぼ常に一緒。

正直に言えば、あの二人って“交わるはずのないキャラ”だ。

陰と陽、静と動……世界の座標が違うっていうか。

なのに、なぜか同じ方向を向いて歩いていく。

 気にならない方がどうかしてる。

 何を話してるの?

 どんな景色を見てるの?

どんな秘密を共有してるの?

考えれば考えるほど、胸の奥がざわざわしてくる。

気づけば私はサンドイッチを弁当に戻し、勢いよく立ち上がっていた。

「ごめん! 今日、他の子と食べる約束してたの! ちゃんと埋め合わせするから!」

友達にそう告げる頃には、もう体は教室の出口へ向かっていた。

自分でも呆れるくらい、衝動的に。

でも止まれなかった。

あの二人を、もっと知りたかった。

階段を駆け上がるたびに、心臓の鼓動が速くなる。

なんでこんなことしてるの、私。

自分でもわからない。ただ、気になるという気持ちが背中を押していた。


屋上の扉は鍵が空いていた。そっと開けると、風がふわっと吹き抜けた。

その一番奥。

フェンスのそばに、やっぱりいた。

望月さんと──黒咲さん。

2人は横並びで外を眺め、言葉は少ないのに、不思議と会話が成り立っているような空気だった。

沈黙すら“会話”みたいな、あの独特の距離感。

……ああ、やっぱり私とは違う世界の住人だ。

でも、ここまで来たんだから、逃げるわけにいかない。

「──ね、ねぇ! あの、隣、いい?」

思い切って声をかけると、2人が同時にこちらを振り向いた。

望月さんは、いつもの無表情に見えて、どこか驚いた気配。

黒咲さんは、微笑んでいるのに笑っていない目だった。

心臓がひゅっと縮む。

「峯光さん……どうしたの?」

望月さんが首をかしげる。

「いや、その……たまたま……通りかかった……というか……」

言いながら、自分でも何を言っているのかわからなくなる。

違う違う、もっと自然に言うつもりだったのに!

「ふぅん」

黒咲さんが細めた目でじっと私を見る。

視線ひとつで体温が下がる感じがする。

でも私は負けない。負けたくない。

だって──知りたいから。

「二人って、いつもここで食べてるんだね。あ、その……よかったら、私も……」

しまった。声が上ずった。

望月さんは少し驚いたように目を瞬かせ、

黒咲さんは表情ひとつ動かさない。

沈黙が落ちる。

風の音がやたら大きく聞こえる。

やっぱり無理だったかな……と思いかけたとき──

「……いいよ」

望月さんが静かに言った。

その一言だけで喉の奥のつかえがすっと溶ける。

「えっ、いいの?」

「うん。峯光さんとなら……」

ほっとした途端、足がふらつきそうになる。 でも同時に──黒咲さんの視線が鋭く突き刺さる。

まるで、“あなた、何をしに来たの?”と言われているようで。

怖いのに。

どこにも逃げられないのに。

それでも私は、2人の隣に腰を下ろした。

「で、えっと……その……いい天気だね!」

なんで天気の話!?

もっと他にあるでしょ私!!

心の中で自分に全力ツッコミを入れていると、黒咲さんがふっと息を漏らした。

「……そうね。天気は、悪くないわ」

返ってきた。返事が返ってきた。

それだけのことで胸がぎゅっとなる。

望月さんは小さく笑って、私の方を向いた。

「峯光さん、無理しなくていいよ。ゆっくりで」

その言葉に救われる。

ああ、この子は……本当にやさしい。

だけどその隣にいる黒咲詩織は──

その“やさしさ”を誰よりも鋭く見張っているように見えた。

私たち3人の昼休みは、ぎこちなく、それでも確かに始まった。


ぎこちない沈黙の中、私はパンの耳をちぎりながら、ちらっと望月さんを見る。

「……その、さ。望月さんってさ、いつも家からお弁当作ってるの?」

それは、さっきから聞きたかったどうでもいい質問のひとつだった。

望月さんは少し驚いて、それから小さく笑った。

「ううん。最近は詩織が……一緒に作ってくれてて」

「えっ、黒咲さんが!?」

声が裏返った。やば。

てか、2人とも名前呼びなんだ。

ちょっと羨ましいなと思った。

隣で、黒咲さんがほんのわずかに私へ視線を向ける。

その目が──なんというか……透明な氷みたいだった。

「……何か、文句でも?」

静かに、低く。

「い、いやいやいや!? むしろ……すごいな〜って!!」

笑顔を貼りつけて返したけど、心臓は本気で寿命縮むかと思った。

それでも私は負けない。

ここで退いたら、一生この子の隣には立てない気がするから。

「黒咲さんって、料理できるんだね。すごいよ。私なんてママに作ってもらってばかりで...」

黒咲さんはしばらく私を凝視していた。

まるで、私の皮膚の下まで覗き込み、出てきた“余計な感情”をひとつ残らずひねり潰そうとしているみたいな目で。

その視線に耐えながら、私は精一杯の笑顔を返した。

「……別に」

それだけ言うと、黒咲さんはそっぽを向いた。

でも、返事は返ってきた。

“会話”はちゃんと成立した。

……それが、なんだかちょっと嬉しかった。

「峯光さんって、いつも明るいよね」

望月さんがくすっと笑う。

「えっ、そう……かな!?」

うわ、やばい。絶対顔赤い。

でも……こんなふうに話せるの、初めてで。

私、めちゃくちゃうれしい。

3人で食べた昼休みはぎこちなかったけど、

私の胸の中にはずっと温かいものが灯っていた。

ただし──

その向こうでずっと、黒咲さんは私を“異物”として観察していた。

あの目はけして忘れられない。


午後の授業を終え、体育館へ向かうと友だちが手を振ってくれた。

「ホタ! 今日も助っ人頼むわ!」

「まっかせて!」

普段なら、私は走るのも跳ぶのも大好きで、体育系の助っ人は得意分野だ。

……のに。

「ホッタル〜!? そこ違う! 逆!!」

「えっ、あ、やばっ!」

パスを受け取った瞬間に雑念が入り、思いきり味方にぶつけた。

「おま、今日どうした!? 寝不足?」

「えっと……たぶん……なんか、浮かれてるだけ?」

友達が呆れた顔でため息をつく。

「はぁ〜? あんたが浮かれるって何よ。珍しすぎて逆に怖いわ」

「……ちょっとね。いいことがあって」

望月さんと“ちゃんと”話せた。

その事実が、ずっと心の底でポカポカしていた。

そのせいで、レイアップも外すしパスもずれるし、もう散々。

「ホタ、今日はマジでポンコツだな!」

「言わないで〜〜!!」

笑われながらも、心は軽かった。

部活が終わる頃には夕暮れ色のオレンジが校舎を染めていて、私は急いで着替える。


私はバイト先のファミレスへ向かった。

自転車にまたがって店まで走りながら、私は今日の昼休みのことを思い返す。

望月さんの笑顔。

黒咲さんの無言の圧。

そして、自分がその間に立っていた感覚。

「……なんで、あんなに気になっちゃうんだろ」

自分でも理由はまだわからない。

ただひとつ言えるのは、

今日の私は、人生でいちばんミスだらけで、いちばん浮かれていた。


バイト終わりの時間は、だいたい22時を回っている。

街灯がところどころにしかない帰り道は、昼間とまったく違う表情を見せる。

自転車のライトをつけて歩道を歩きながら、私はふっと肩をすくめた。


――なんか、背中がざわつく。

寒いからじゃない。

疲れてるせいでもない。

気配。

今日、屋上で何度も感じた、あの“刺すように冷たい視線”。

私はゆっくりと振り返る。

……誰もいない。

いるわけがない。

でも、いる。

“そこ”じゃなくて、どこかに。

その曖昧さが逆に、確信に変わる。

――黒咲さん、だ。

そう思った理由は自分でもわからない。

ただ、屋上で向けられたあの目が、皮膚の奥に刻まれていて。

その残像が、今も背中を撫でてくる。

「……なんだろ」

自転車を押しながら歩く足が、自然と脇道へ向かう。

細い路地に入ると、街灯が急に少なくなり、夕べの残り香みたいな薄暗さが一面に広がる。

曲がるたびに、気配が近づいたり、遠のいたりする。

私は思った。

(変なの……なんで“この先にいる”って思えるんだろ)

怖さと好奇心が混ざって、胸が変にドキドキした。

――その先に入るべきじゃない。

頭ではわかるのに、足は勝手に進む。

路地は入り組んでいて、迷路のように曲がっていた。

人の気配はない。

街灯の光も届かない。

暗がりの奥、かすかに揺れる影が見えた。

「……黒咲……さん?」

名前を呼ぼうとした瞬間。


「ほんと、呆れた子」


冷たい声が、闇から滲むように響いた。

私は息を呑んだ。

その声は、すぐ背後から聞こえた気がしたのに、次の瞬間には全然別の方向から聞こえてくる。

距離がつかめない。空気の揺れ方が普通じゃない。

「な、なんで……ここに……?」

震える声は自分のものじゃないみたいだった。

返事はなかった。

ただ、闇がゆっくりと形をとり始める。

路地の奥、電柱の影。その中に、黒咲さんが立っている。

制服のまま。

でも、どこか“人じゃない”立ち方だった。

肩の角度も、首の傾きも、影の伸び方も。

すべてが微妙に“ズレている”。

まるで――

人間を模した何かが、黒咲詩織の形をして立っているような。

「……ついてきた理由、わかってるの?」

黒咲さんの声は静かで、夜の空気より冷たかった。

私は一歩後ずさる。

自転車のスタンドが、カチン、と情けない音を立てた。

「ち、違うの。私、ただ……気になって……」

「気になって、追った?」

黒咲さんの瞳が闇でゆらぐ。

光を持たない、底の見えない影みたいだった。

「やめておけばよかったのに」

息が止まる。

次の瞬間、黒咲さんの姿が“ふっ”と揺れて、輪郭が一瞬だけ消えた。

まばたきした瞬間――

黒咲さんが、3メートル近く近づいていた。

音もなく。

足音ひとつないのに。


「峯光さん...いや、峯光蛍」


耳元で囁かれた。

私は叫び声が出せなかった。

代わりに、心臓の音が耳の奥で爆発した。

「人の気配を追いかけるのは、危ないことだって……教わらなかった?」

冷たい吐息が首筋を撫でる。

「哀れな子」

低く、湿った声だった。

「自分の力の本質にも気付かず、のこのこと私についてくるなんて」

ぞわり、と背中を冷たい指でなぞられたかのように震える。

「……ちから? 本質……?」

「人間が...非捕食者が――自分の身を守るためにやっとの事で身につけた力に、逆に危機的状況に陥るなんて……滑稽ね」

何を言っているのか、本当にわからなかった。

でも、黒咲さんの声音には確かな“嫌悪”と“嘲り”が混じっている。

私のことを、まるで……

生理的に受け付けない“異物”を見る目で。

「な、なに……言って……」

「あなたの力は、我々にとって危険すぎる」

“我々”。

その言葉の意味を問い返す暇もなかった。

「だから――ここで死んでちょうだい」

黒咲さんの首が、ぎこり、と不自然に傾いた。

その動きは“人間の首”が動く角度ではなかった。

私は息を止めた。

次の瞬間、黒咲さんの体が音もなく歪み始めた。

肩が、骨が、皮が、

“内側から押されるように”盛り上がる。

制服の影が、彼女の輪郭に追いつけずに揺れた。

ぱき……ぱき……ぱきっ。

小さな骨の軋む音が、夜の路地に生々しく響く。

「っ……!!」

見てはいけない、と本能が叫ぶ。

なのに、目が離せない。

黒咲さんの腕はゆっくりと長く伸び、指が蜘蛛の脚みたいに細く、節くれだっていく。

皮膚の色が青白く変わり、毛細血管の線が蜘蛛の巣のように浮かび上がる。

瞳が――光を失った。

黒ではない。

白でもない。

“赤い赤い血”の色。

人間の目の形をしていない。

奥がない。

深さがない。

そのくせ、こちらを“正確に見ている”と分かる。

口元が裂けた。

笑っている。

けれど、感情は一切ない“捕食者の微笑み”。

足元に落ちる影が、人の形をやめていく。

ひゅう……と、低い呼吸の音が胸の奥で鳴った。

「悪く思わないでね」

黒咲詩織――いや、“それ”が私へゆっくり手を伸ばす。

爪が、月明かりを受けて光った。

骨のような白さだった。

背中が壁にぶつかるまで、私は下がっていた。

 逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ――

脚が動かない。

息が吸えない。

私の喉から漏れた声は、自分のものとは思えないほど細かった。

「や……いや……っ……」

黒咲さんの腕が私の頬に触れる直前。

その冷たさが、空気を通して皮膚に伝わってくる。

生き物の体温じゃない。

死んだ水みたいな、凍える触感。

そして――

黒咲詩織の指先が、私の喉元へ吸い込まれるように伸びた、その瞬間。


「――詩織!!」


鋭い叫び声が、路地の空気を切り裂いた。

その声に、黒咲さんの白く変質した顔がゆっくりとそちらを向いた。

「もち……づき……さ……ん……?」

震える声が勝手に漏れる。

路地の入口には、息を荒らし、壁に手を突いて立つ望月さん――望月沙也加がいた。

暗い影の中でも、彼女の瞳ははっきりと怒っていた。

「沙也加。大人しく家で待ってなさいって言ったのに。

夜は危ないから帰りなさい」

黒咲さんは淡々と言う。

まるで叱っているようで、でもその声は“冷たい捕食者”のままだった。


「……なに、しているの」

望月さんの声は震えていた。

怒りか、恐怖か――それとも別の何かか。

「何って、峯光蛍の能力は私たちの気配をより敏感に察知する。

だから今のうちに消すのよ」

それは“当然のこと”を説明するような口調だった。

私の背中に冷や汗が流れる。


「そういうこと聞いてるんじゃないッ!!!」


望月さんが叫んだ。

あまりの大きな声に、心臓が跳ねた。

黒咲さんですら動きを止めた。

望月さんが怒鳴った――?

初めて見た。

彼女がこんなにも感情的になる姿。

「どうして……勝手に殺そうとするの……!

どうして、峯光さんを――」

言葉が震えている。

「沙也加……? あなた……そんな顔……」

黒咲さんの声から、恐怖と殺意がすっと消えていく。

まるで“知らない表情”を見て戸惑っているようだった。

黒咲さんの体がふっと揺れ、骨の軋む音が止む。

歪んだ輪郭がゆっくりと人の形に戻り、目にかすかな色が戻っていく。

変身が解けていく。

黒咲さんはただ黙って、望月さんの怒りを受け止めていた。

変身を解ききると、黒咲さんは人間の姿に戻った。

ただし、その表情は初めて見る“困惑”だった。

「沙也加……あなた、泣いて……?」

「泣いてない……!!」

でも、声が上ずっていた。

望月さんは私の方に駆け寄り、膝をつく。

「峯光さん! 大丈夫!? 痛いところは? 怖かったでしょ……!」

その言葉に、張り詰めていた糸が切れた。

「あ……あ……っ……」

涙が勝手に溢れた。

喉がひくひくして声にならない。

望月さんは私の肩を掴み、震える指先で涙を拭おうとする。

その手つきがあまりに優しくて、さらに涙が溢れた。

「……沙也加」

黒咲詩織が静かに名を呼ぶ。

望月さんは黒咲さんを睨みつけ、目をまっすぐに見つめた。

「峯光さんを、傷つけないで。

もう、絶対に……」

その声は小さいのに、決意だけがはっきり伝わる。

黒咲さんはしばらく何も言わなかった。

ただ、望月さんの顔を見つめ――そして小さく息を吐いた。

「……分かったわ。

今日は、やめる」

そう言うと、黒咲さんは一歩引いた。

私と望月さん、その2人を見比べ、黒咲さんは静かに視線を逸らした。

路地に重く落ちていた殺気は、すっかり消えていた。

「望月さん……望月さん……!!」

私はまだ全身が震えていた。望月さんは私の手を握りしめる。その手が、冷たいのに温かかった。

「ごめんなさい……峯光さん。ちゃんと説明するから」

沙也加は顔を青くしたまま、路地の闇を見つめた。

「どこから話せばいいのか...詩織は……人間じゃない。さっき見た、あれが、彼女の"正体"なの」

「え……」

「詩織は、人を食べる……化け物。そして、上手く説明できないけど...その化け物の王なの」

喉の奥が張り付く。化け物。王。その言葉と、さっき見た血の色の瞳と、骨の軋む音が、頭の中でぐるぐると回る。

「……何を、言ってるの……」

「私たちの住む世界には、そういうものが現実にいるの。さっき、詩織が峯光さんを殺そうとしたのも……」

望月さんはそこで言葉を切った。強く、自分の手の甲を爪で押し付けながら、絞り出すように続ける。

「そういう『世界』のルールで動いたから。それが詩織の『正しさ』だから……」

私が今見たのは、非現実的なホラー映画の映像なんかじゃない。

これが、望月さんが見ている世界。

生きている世界。

話にはまったくついていけない。王? ルール? でも、さっきの恐怖は嘘じゃなかった。この震えは、この路地の闇は、本物だ。

「……そう。そう、なんだ……」

私は力なく呟いた。

「……詩織」

望月さんは、私から離れずに、黒咲さんに語りかける。

「絶対に、絶対に峯光さんに手を出さないで。たとえ、彼女がどんな力を持っていたとしても、私には関係ない。あなたの種族も、掟があるのもわかる...でも....私の大切なものを壊させない」

望月さんの決意は、夜の冷たい空気の中で、かえって熱を帯びていた。

黒咲さんは、路地の奥で腕を組み、ただ黙ってそれを聞いて、「....監視対象として見逃してあげるわ」と、その完璧な表情は、何一つ動かさず言った。


沈黙が再び路地を支配した。私は震えた手で自転車のハンドルを握りしめながら、沙也加に尋ねた。

「あの……望月さん。どうして、助けてくれたの?」

望月さんは静かに目を伏せた。

「……峯光さんは、いつも私に挨拶をしてくれたから」

「え?」

「クラスの誰も、私に話しかけなかった。怖がっているか、無関心か。でも、峯光さんだけは『おはよう』って言ってくれた」

望月さんは息を継ぐ。

「その一言があったから、私はどうにか、普通に学校に通い続けられた。あなたがいるから……私は」

望月さんは私の手を取り、強く握り返した。その声はまだ震えている。

「だから、お願いします……友達に、なってください」

その言葉に、私は思わず目を丸くした。

「え? 私、もう友達だと思ってたんだけど?」

望月さんは、ぽかんと口を開けたまま固まった。その表情が、あまりに間が抜けていて。

私は、緊張が解けて思わず大笑いした。

「あはは! 何それ! 今さら!? もう昼休みだって屋上で一緒にご飯食べてたじゃん! まさか友達じゃなかったの!?」

私の笑いにつられて、望月さんの顔にも、初めて見る、心からの安堵の笑みが浮かんだ。

「……うん。うん、友達じゃ、なかったかも。でも、これからは……」

「よろしくね、望月さん。……いや、さやっち!」

思わず口に出たあだ名。即興にしてはよいあだ名だと我ながら思った。

さやっちは笑いながら、小さく頷いた。

「うん。……蛍ちゃん」

その夜、望月沙也加に初めての「人間の友達」ができた。


かくして、私はさやっちこと望月沙也加と友達になり、彼女のいる世界──恐ろしくも、どうしようもなく美しい、化け物の王と孤独な人間の絆が支配する世界の一部に、触れることが出来たのだった。


8話です。

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