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7話 ひどく青い青い水底

───闇が広がる。


音もなく、光も差さない。

ただ深く、冷たく、どこまでも沈んでいく。


体を動かす気力もなく、私は水底へと溶けるように落ちていた。


その先に、淡い光が見えた。

ひとつ、ふたつ――いや、“目”だ。


すべてを見渡せたわけじゃない。

でも、わかる。


深淵の闇を割って姿を現したソレは、ゆっくりと巨大な口を開き、

私が自然とその喉奥へ引き寄せられるのを、ただ待っている。


ああ、私は――喰われるのだ。


怖い。助けて。

けれど声は泡にもならず、喉の奥に沈んだ。


……最後に。

最後に一度だけ。


彼女の顔が見たい。


詩織。

助けて。

会いたい。

私は物心ついた頃から、父と母の険悪な空気の中で育った。

家に響くのは、父の怒号と、母の泣き声ばかりだった。

暗い部屋の隅で震えながらそれを聞く私。

父が怒鳴り終え、ドアを開けると、泣き腫らした顔の母が私の手を強く引っ張り、

そのまま殴る。

「ここは普通じゃない」

子供の私でも理解できた。

学校の先生は話を聞くだけ。

同級生はぼろぼろの私を、まるで奇妙な生き物でも見るように眺める。

それでも、中学に入るまでは“家族”の形だけは保たれていた。

五年前までは。

父は説明もなく姿を消し、愛人のいる遠い街へ逃げた。

母は水商売を始め、帰ってくるたびに荒れ狂い、叫び散らし、暴れ、

そして私に手を上げた。

何度も死にたいと思った。

消えてしまいたいと思った。

助けてくれる人も、理解してくれる人も一度も現れなかった。

世界は灰色だった。

色も、音も、自分のいる場所だけが壊れた異物のように思えた。

朝が嫌い。

昼が嫌い。

夕方が嫌い。

夜が嫌い。

でも――死ねなかった。

そんな勇気も覚悟もなかった。

ただ、自分が死んだあとの「痕跡」が残るのが嫌だった。

私という存在がこの世にあった証拠を、何ひとつ残したくなかった。

暗くて、ひどく、青い青い水底。

私の心はずっとそこにあった。

あの日までは。

 

ドボン――。


海の中に何かが飛び込む音がした。

次の瞬間、私は“それ”に抱き寄せられていた。

大きな手。

私よりひと回り、いや二回りは大きくて。

冷たいはずの海の中なのに、なぜか温かい。

胸の奥から、すうっと息が戻る。

ああ、この温度を知っている。

落ち着く。この手が、好きだ。


肺の奥に、まだ海が残っていた。

呼吸をするたび、水面で溺れた記憶がぶくりと泡のように蘇り、胸を締めつける。

視界の端で、黒い髪がゆらりと揺れた。

水に濡れた夜の糸――その中心に、詩織がいる。

「まったく……だから言ったじゃない。勝手に行動しないでって。……いや、これは私が目を離した責任ね」

詩織の声だった。

ずっと、喉が渇くほど求めていた声。

「見なさい、沙也加」

彼女は私の頭をそっと支え、海の沖を指さした。

黒い影が一つ。

それは波間を押し分けながら、ゆっくりと、けれど確実にこちらへと近づいてくる。

「あれが“古きもの”。海に棲む根源的種族よ」

言語の形を拒む存在。

魚のようで、タコのようで、どれにも似ていない。

“見てはいけないもの”に気づいてしまった時の、脳の奥が軋む感覚。

「アレらは執念深いの。だから、ここで待っててちょうだい。すぐに片付けて来るわ」

「……詩織」

気づけば、彼女のスカートの裾を握っていた。

子どもみたいに。溺れた人間みたいに。

「大丈夫よ、沙也加。――いい子でいなさいね」

濡れた頬に触れた指先が、夜をほどくように温かい。

その温度に縋るように、私は頷くしかなかった。

次の瞬間。

詩織の身体が、夜の闇に溶けるように“ほどけ”始めた。

骨が鳴る音も肉が裂ける音もなく、ただ静かに形を変えていく。

黒い影が膨らみ、四肢が伸び、赤い目がひとつ、またひとつと灯る。

苦痛の気配がまるでない。

まるで――本来の姿へ帰るように。

黒い獣。

夜の底に生まれ、月光にだけ照らされる異形。

水面の上で、二体の化け物が向かい合った。

「グオオオオオオ……!」

耳を裂く咆哮が、海を震わせる。

水柱が上がり、波が月光を砕き散らす。

巨体同士が絡みつき、爪が閃き、牙が肉を引き裂く音が夜に滲む。

その光景は恐ろしく、

――なのに目を逸らせないほど、美しかった。

まるで、世界が滅びる瞬間の舞踏会を見ているみたいに。

私はただ、息も忘れて見つめていた。

ガブリ、と。

詩織が古きものの喉元に噛みついた。

次の瞬間、巨体は海面へ押し倒され、白い水柱が夜空に突き刺さる。

砕けた波の中に、赤黒い何かが無数に浮かび上がった。

臓腑の欠片とも、命の断片ともつかないそれを、詩織は静かに――食べていた。

やがて、海が静けさを取り戻す。

決着がついたのだと分かった。


波をかき分け、黒い巨体のまま詩織が戻ってくる。

そして、私の前に立ち――低く、鈍い、獣のような声で言った。

「ケガ、シテナイワネ」

その声音からは想像できないほど、言葉だけは優しい。

「だ、だいじょうぶ……」

「ナラ、ヨカッタワ」

詩織の体に目を向ける。

黒い毛並みの下には深い引っかき傷、噛み跡、裂けた肉。

血が絶え間なく滴り落ちていた。

――私のせいだ。

私が言いつけを守らなかったから。

私が鈍いから。

私が……死ななかったから。

「ナゼ、アナタガ ナイテルノ?」

気づけば、涙がぽつぽつと頬を伝っていた。

「……なさい……ごめんなさい……私のせいで……詩織が……」

どうしても、謝ることしかできなかった。

そんな自分が嫌で、消えてしまいたいほどだった。

詩織は、ふう、と息を漏らすと――

「謝っても許してあげないんだから」

そう言って、人間の姿へ戻った。

服は裂け、磁器のような白い肌に赤い血がこびりついている。

その痛々しい姿のまま、ゆっくりと私へ近づき


――パチン、と。


額に痛みが走った。

「いっ……!」

「戒めよ。今度からは、ちゃんと私の言うことを守るの。

――たとえその身が食べられようとね」

にっこりと微笑みながら、軽いデコピンをしただけだった。

怒鳴ることもせず、ただそれだけ。

「……へ?」

情けない声が漏れた。

泣きだしたのは、痛かったからじゃない。

罪悪感と、自己嫌悪と、そして――無事だったという安堵が一気にあふれたから。

「ごめんなさい。痛かったかしら」

詩織は困ったように眉を寄せた。

違う、と声にできず、私は子どものように肩を震わせて泣いた。

詩織はそっと私の隣に座り、

濡れた手で私の頭を抱き寄せ、自分の肩に預ける。

何も言わず。

何も責めず。

ただ――静かに寄り添ってくれた。


「さ、今度こそ帰りましょう。と言っても、もう電車は動いてないわよね」

どれくらい経ったのだろう。

ひとしきり泣いた私を見て、詩織は立ち上がり、指先で涙の跡をそっとぬぐった。

「…ごめん」

「ほら、また謝ってるわよ。その癖、治しなさいね」

腰に手を当てて言う詩織は、相変わらず強くて、優しい。

「ごめ…うん」

「よろしい」

満足げに笑い、詩織は私に手を差し出した。

その手を握って立ち上がった瞬間、疲れなのか安心なのか、膝が少し揺れた。

「大丈夫?」

「うん…ちょっとだけ、ふらって」

「無理させたわね。……行きましょう」

詩織はプールバッグから予備の上着を自分の状態を気にせず、私の肩へそっと掛ける。

体温はもう人間のものに戻っていて、さっきまでの獣の影は残り香のように薄れていた。


夜の海は、静まり返っていた。

曇った月が水面を白くかすめ、遠くで波がひとつ、壊れたガラスのように砕けた。

「電車が無いなら、今日は泊まりね。確か、この先に安い旅館があったはず」

「……詩織、傷…大丈夫なの?」

「もう塞がってるわよ。見て」

そう言いながら、詩織は腕の引っかき傷を軽く撫でた。

血に濡れていたはずの皮膚は薄い膜のように再生し、紅潮した線だけがかすかに残っている。

人間じゃ、ない。

その事実が、胸の奥でゆっくりと沈んだ。

けれど、それだけじゃなく——

こんな存在が、私を守ったのだ、という感情が同時に込み上げてくる。

二人で歩き出す。

海沿いの道は暗くて、潮の匂いがまだ肌に張り付いていた。

「もう泣かないでね。わたし、嫌いよ。その顔」

「……頑張る」

「そう。頑張りなさい。わたしのために」

詩織は軽く笑いながら言ったが、その声の奥に残る低い響きは、先ほどの獣の名残を思わせた。


――しばらく歩くと、ぼんやりと明かりのついた旅館が見えてきた。

古ぼけた木造二階建て、外壁には塩風で剥げた白いペンキ。

人の気配も疎らで、まるでこの世界の端っこに取り残された箱みたいだった。

「着いたわ。ここなら空いてるはずよ」

「こんな時間なのに、助かった…」

「ふふ、誰も来ない場所だから。ね、こういう場所って……わたしたちは落ち着くのよ」

「‘わたしたち’…?」

「気にしなくていいわ」

詩織は受付の呼び鈴を指先で叩いた。

乾いた「チン」という音が、ひどく大きく響いた。

夜番の老人が奥からのそりと現れる。

詩織の傷の痕を一瞥するが、不思議と何も言わない。

まるで、見てはいけないものとして、わざと視線を外したかのように。

「素泊まりで、一部屋お願いできます?」

静かな声。

さっきまで喉元に牙を立てていた存在と同じとは、とても思えない。

老人は淡々とうなずき、鍵を差し出した。

「二階の一番奥だって」

「……ありがとう」

鍵を受け取った詩織はくるりと振り返り、私の手を再び握り直した。

「さ、行きましょ。今日はゆっくり休ませてあげる」

その言い方は、まるで——

今夜の私が、詩織の庇護のもとに置かれた“何か”であるかのようで。

そのくせ私は、拒むどころか、その手の温度にすがりつきたくて仕方なかった。


部屋に入ると、詩織は天井へ手を伸ばし、背筋を弓のようにしならせて言った。

「疲れたわね。ちゃっちゃと湯を浴びに行きましょう。私たち磯臭いわ。ここの大浴場、かなり広いのよ」

その何気ない提案に、胸の奥が痛む。

湯気の中で肌を晒す光景が頭をよぎり、体が固まる。

「私は……後で入る」

「……痣のこと?」

心臓が跳ねた。

やっぱり、詩織は気づいていた。

「あのね、沙也加。例えあなたの体がどれだけ醜く、どれだけ穢れていても、私はそんなこと気にしないわ。私は“あなた”そのものを気に入ったから」

違う。

そうじゃない。

この痣を他人に見られても構わない。哀れまれても、どうでもいい。

でも——詩織にだけは、だめだ。

受け入れられたって、愛されたって、この部分だけは絶対に見られたくない。

私のくだらない、拗れたプライドがそれを許さない。

詩織の顔をまともに見られなかった。


「沙也加」


名を呼ばれた。

静かで落ち着いた声色。けれどその奥には、抗えない支配の響きが宿っていた。

「これはお願いじゃなくて命令よ。痣を見せなさい」

鋭い。

その命令は、私のちっぽけなプライドごと胸の内を貫いた。

脳が従えと命じてくる。

言い逃れの一つもできないまま、私は震える指で服を脱いだ。

お腹に。胸元に。背中に。

青黒い斑点が滲むように散らばっている。

鼓動が、早すぎて、苦しい。

この鼓動だけが部屋中に響いている気がした。

詩織は黙って見ていた。

沈黙が怖かった。

「……食欲、失せた……?」

しぼり出すように言ってしまった。

怖かった。ただ、それだけが。

身体中が熱を帯び、煮立ちそうになる。

そのとき——

詩織は細い指先を伸ばすと、痣の輪郭をゆっくりとなぞった。

その仕草は、神聖な儀式のように静かだった。

「これが、あなたの“生きてきた証”なのね」

「……え?」

あまりにも予想外の言葉に、思考が止まる。

「証よ。あなたが確かにこの世にいたという印。

私たちが残せなかった、“痛みの痕跡”」

「それって、どういう……」

詩織の目が、ふっと変わった。

深く沈み、底が見えない。

人間のものではない光を宿していた。

「私たちのルーツを話しましょう。聞いておくべきだわ」

詩織は淡々と語り始めた。


詩織は窓の外の漆黒の海を見つめた。

まるで、彼方に沈んだ“祖先の影”でも探すように。

「さっきの“古きもの”がいたでしょ?

あれらと私たちは——ずっと昔、同じ祖から分かれた同族だったの」

海鳴りが遠くで低く響く。

詩織の声も、その波音に同じ重さを帯びていた。

「まだ海が底知れない深淵だった頃。

陸も空も曖昧で、夜と昼の境目なんてなかった頃。

私たちはひとつの種族だった。

深い闇に棲み、血を糧とし、獲物の気配だけを頼りに生きる純粋な生き物」

「……でも、あなたは人間の形をしてる」

「そう。私たちは陸に上がって“進化”した。

言葉を覚えて、社会を理解して……

人の中に紛れるために、知を優先して形を変えた」

詩織は静かに自分の指を見つめる。

滑らかで人間そのものの手。

けれど、その奥には爪を隠した獣の気配がある。

「でもね、沙也加。進化には代償があったの」

詩織の声は、落ちていくように低かった。

「私たちは“痛みを残せなくなった”。

形を変えるたびに、傷も、痣も、その感覚も捨てられてしまう。

折れた骨も、噛まれた跡も、幼い頃に受けた傷も——

全部、残せない」

「なんで……そんな……」

「生き延びるためよ。

この大地で生存権を得るために得た、無駄なものは切り捨てる術」

詩織は私の痣へ触れた。

まるで古文書の文字をなぞるように、慎重に。

「あなたの体は違うわ。

あなたには消えない痕がある。

痛かったでしょう、怖かったでしょう、恥ずかしかったでしょう、でもそれは——

確かにあなたが生きてきた証」

胸が詰まった。

呼吸の仕方を忘れそうだった。

「あなたはこの痣の痛みを覚えている。そしてその記憶を次の世代に伝え、受け継がせる。そうしていくうちにその痣の意味が広がって残すことが出来る」

詩織の声には赤子に言い聞かせるような、そんな声色をしていた。

「羨ましいのよ、私は。

あなたが“あなた自身”を刻んで生きてきたことが」

「……詩織……」

「そしてね、沙也加」

暗闇が、言葉の周囲にまとわりつく。

「私たちの種は、もうすぐ滅ぶわ」

空気が、落ちて砕ける音を立てた気がした。

「進化しすぎたの。

本能は薄れ、繁殖もしにくくなっていく。

古きものは太古のまま生き残ったけれど、私たちはもう戻れない。

数は減って……私たちは緩やかな黄昏時を生きて行くこととなったわ。絶滅という名の黄昏時を...」

私の喉がひくついた。

「本当に羨ましい。あなたが痛みと共に刻んだ“軌跡”は、

私たちがどうやっても残せなかったものだから」

詩織は黒く輝く瞳で、私をまっすぐ見つめた。

「皮肉よね。

人間より強い体を持ちながら、文明を理解できる知性を持ちながら……

結局、人間社会という“群れ”には馴染めなかった。

私たちは一人で生きるのに特化しすぎた“個の生き物”。

だから社会を築けず、隠れるしかなかった。

王を置いたのも、生き残るための応急処置でしかなかった」

風もないのに、カーテンがほんの少し揺れた。

「海には古きものが残り、

陸には私たちが細々と影のように生き残った。

進化した私たちは知性を得たけれど、

退行していく次の世代は、逆に知を失っていく。

伝承などの“怪物の噂”は、その名残よ」

詩織は手を伸ばし、私の頬に触れた。

「あなたの痣は、醜くなんてない。

私たちが何千年、何万年かけても手に入れられなかった——

“誰かが生きてきた証”そのものなのよ」

私は息を吸えなかった。

遠くで、海が砕ける音がした。

それはまるで、

この世界の“古い記録”がめくられる音のようだった。

私は詩織が、目の前にいる化け物が可哀想で、不完全で、それでいて尊く見えた。

その大いなる存在が、こんなちっぽけで取るに足らない命に価値を見いだしてくれたことが、世界そのものに許されたような感じがして、ただ、嬉しかった。

「そういう事だから。私には隠さなくっていいわよ」

話を終わらせるかのように詩織が言った。

「さ、お風呂行きましょ、お風呂」

「わっ...!」

詩織が私の手を引き、部屋のドアを開け、駆け出した。


大浴場は思った以上に広かった。

夜更けのせいで、他の客の気配はない。

湯が反響しているだけの静かな空洞。

白い蒸気の向こうで、

詩織の背中だけがはっきり見えていた。

「ほら、早く入りなさい。温かいうちにね」

振り向かないままの声。

けれどその声だけで、

胸の奥につかえていた緊張が少しずつ緩んでいく。

私は湯に肩まで沈む。

じわりと熱が体の痣に滲み、痛みがじんわり広がる。

それが不快ではなく、

“生きている”という合図に思えた。

詩織は隣に座った。

湯面に映る彼女の輪郭は、

人間のそれとまるで違う“何か”に見える瞬間がある。

けれど、その曖昧さが妙に安心だった。

ふたり、ただ湯に浸かっているだけの時間。

水音だけが響き、

心臓の鼓動が湯気に紛れてゆっくり溶けていった。


部屋に戻ると、

敷かれた布団の白さが眩しいほどだった。

詩織は何も言わずに横になり、

天井をじっと見つめていた。

その横顔は、

人間としての仮面を半分だけ外したような静かさがあった。

私は布団に入り、

しばらく無言で詩織の背中を見ていた。

沈黙が長く続く。

限界がきたのは私の方だった。

「……詩織」

彼女は返事をしなかった。

ただ、呼吸だけが確かにそこにあった。

「ねえ……私、ちゃんと話す。

 痣のことだけじゃなくて……今までのことも」

詩織はゆっくりこちらへ向き直った。

目の奥が、夜明け前の海の底のように深い。

「聞くわ。全部」

ただそれだけだった。

慰めも、反応も、評価もない。

その“無色の姿勢”がかえって、

逃げ場を塞ぐ優しさだった。

言葉がうまく出なかった。

喉が痛くて、心臓が指先まで脈打っていた。

「私は……弱いと思われたくなかったの。

 でも、弱かった。

 誰かに殴られても……無視されても……

 怖いって、痛いって言えなかった。

 死にたくなるほど嫌だったのに……

 “普通に”してるふりしか出来なかったの」

布団の縁を握りしめる。

「だから……痣を見るたびに、

 “あの日の私”がいるみたいで……

 私がずっと負けたままみたいで……

 それが……嫌で……」

言いながら、涙が布団に落ちていった。

詩織は、ただ聞いていた。

遮らず。

頷かず。

評価せず。

それは無関心ではなく、

“あなたの話す形を決めつけない”という行為だ。

私自身が、自分の言葉を選び終えるまで

詩織は一切介入しなかった。

やっと話し終えると、

部屋の空気だけが静かに揺れていた。

詩織は何も言わず、

そっと私の髪を指先で払った。

そして数秒、

真正面から目を合わせた。

その眼差しは、

人間の“理解”ではなく、

捕食者としての“把握”に近い。

けれど同時に、

誰よりも私を見ている目だった。

恐ろしいのに、温かい。

危険なのに、安心する。

言葉では説明のできない“双方向の沈黙”。

詩織が小さく囁いた。

「……もう隠さなくていいのよ、沙也加」

その一言に、

すべての意味が吸い込まれていった。

私は布団の中で近づき、

そっと詩織の手に触れた。

詩織も、それを握り返す。

強さも、弱さも、

痣も、傷跡も、

種の違いも、滅びゆく未来も、

もう隠さない関係。

そのまま、手を繋いだまま、

ふたりの呼吸が静かに揃っていった。

夜は深く、

波音が遠くで途切れながら続いていた。


やがて、

ふたりはその静寂に包まれたまま眠りにつく。

7話です。

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