6話 海の魔物
粘りつくような日差しが、容赦なく肌を刺していた。六月も半ば、季節はもうすっかり夏の貌をしている。
あの日以来、私は家に帰っていない。詩織のアパートで暮らすようになって、もう三週間が過ぎていた。洗面台には歯ブラシが二本並んでいて、私のためのコップも置かれている。それを見るたび、胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。――まるで、ようやく「居場所」というものを見つけたような気がして。
朝食を終え、並んで登校している途中で、詩織がふいに言った。
「週末、海に行きましょか」
「……海?」
思わず聞き返してしまう。あまりに唐突だった。彼女はにっこりと笑って、言葉を続けた。
「ええ、避暑も兼ねてね。少しは羽を伸ばしましょ」
「別に、いいけど……私ね、海って行ったことないの」
詩織は不思議そうに、少しだけ首を傾げた。
「……本当に? 子供の頃に家族と行ったりしなかったの?」
詩織の問いに、脳裏の奥が一瞬、閃光のように白く焼けた。父の怒鳴り声。母の泣き声。暗い台所の床に転がる食器。海水浴どころか、公園遊びさえ許されなかった幼少期。
「……そんな余裕なんて、無かったから」
自分でも気づかぬうちに、声が震えていた。詩織は一言も言わず、そっと私の肩に手を置いた。その掌の温かさが、胸の奥の凍りついた何かを少しずつ溶かしていく。
「そう……なら、なおさらね」
その声音には、穏やかさと決意の両方が混ざっていた。
「私が教えてあげるわ。海の色も、波の音も、風の重さも。ぜんぶ――」
心臓がゆっくりと鼓動する。彼女の言葉ひとつひとつが私を知らない世界へ連れていってくれるかのような、そんな期待を感じさせてくれる。
私は無言で彼女の言葉に頷いていた。
「そうと決まれば、放課後に水着を買いに行きましょう」
詩織が楽しげに言ったその瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「……泳ぐの?」
返した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
泳ぐこと自体が嫌なのではない。ただ、肌を見せることが、どうしようもなく怖かった。
気づけば私は、無意識に腕を押さえていた。
薄いシャツの下――青黒く沈んだ痣が、まだ完全に消えていない。
視線を落とす。首のあたりが熱い。
こんな汚い身体を、詩織にだけは見せたくなかった。
「……水着なんて、似合わないよ。私、そういうの……」
言葉の先が続かない。
言いたくないわけじゃなくて、“言うことができない”のだと自分で分かった。
詩織は私の指先に向けられた視線を一度だけ追い、その意味を瞬時に理解したようだった。
一拍の沈黙。その後、ふっと柔らかく微笑む。
「……じゃあ、やめましょうか。水着は」
「え……?」
「海に合う服を買いに行きましょう。風に揺れるワンピースとか、薄いパーカーとか。
泳がないなら、そういう方がきっと素敵だわ」
その言い方は、私の傷を責めないための道をそっと示しただけの、優しい声だった。
私は、その優しさに胸が痛くなるほど救われた。
「……うん。そうだね。服、見に行きたい」
「決まりね。きっと似合うわ」
何も聞かれなかった。
でも、全部分かってくれた。
我儘だな...私って。
いつも都合の悪いことは何も言えずに...詩織に察して貰って....。
そんな自己嫌悪で肺が詰まる。
「また暗い顔をしているわよ。せっかく遊びに行こうって話をしているのに。ほら、笑いなさい」
そういうと詩織は両手で私の口角に指を当て、笑顔を作るよう促した。
「ひ、ひはいほ。ひおひ」
「いい顔しているわよ。沙也加」
詩織の無邪気に笑うその顔は、まるで人間の少女のようだった。――化け物なんかじゃない。ただの「女の子」みたいに。
週末。
まだ朝靄の残る人だかりの無い、静かなホームから電車に乗り込み、海を目指す。座席に座ると、詩織の髪からかすかに花のような香りがした。落ち着くその香りに包まれ、気づけば、肩に頭を預けてしまっていた。
「あ、ごめん。重かったよね?」
「眠いなら、眠ってしまいなさい」
その優しい声色を聞くと、眠気がゆっくりと込み上げてきた。カタン……カタン……と揺れる電車の音が、心地よく腹の底から響いている。気づけば私はもう夢の中にいた。
駅に着くと、目の前に広がるのは一面の青。水平線が滲むほどに光が強く、潮風が頬を撫でる。砂の粒は灼けるように熱く、サンダル越しでも、足裏がびりびりする。
海って、こんなにも生きているんだ。
波の音、潮の匂い、遠くで鳴く海鳥の声。初めて触れる世界の全部が眩しかった。
初めて見る景色に興奮を抑えきれず思わず足を進めると、背後から詩織の声がかかった。
「あまり遠くへ行かないでよ!迷子になるわよ」
「大丈夫だよ」
と振り返りながら答えたが、詩織は何かを思案するような顔をしていた。
「いい、沙也加。ここは、私の“手の届く範囲”の端っこだから」
詩織が少し真剣な顔で言った。
「……手の届く範囲?」
「海にはね、私たちのように“言葉を持つ化け物”とは違うものがいるの。古きもの――海に根を下ろした太古からその在り方を変えていない原初の存在。神に似て、神よりも無慈悲な“生き残り”よ。そこでは、人も化け物も、ただの獲物。」
詩織の瞳が深い海と同じ色をしていた。その眼差しは慈愛ではなく、ナニかを見据える獣のそれだった。
「だから絶対に私から離れないで。特に、一人になんてなったらダメよ」
「……分かった」
「よろしい」
私の返事を聞くと彼女は頷き、私の手を引いた。波打ち際に立ち、冷たい水が足首を撫でる。引いては消える波の跡。寄せては新しい模様を刻む。
「綺麗……」
初めての感触に私の体は少し震えていた。
「そうでしょ? これが海よ。怖がらなくていいわ。私がいる限りね」
詩織が私の耳元で囁いた。距離が近すぎて、息がかかる。鼓動が早まる。――けれど、不思議と安心する。生きている、と思った。ようやく、ちゃんと。
一日が夢のように過ぎていった。砂浜を歩き、貝殻を拾い、笑い合った。太陽の光を反射する水面の中で、白いワンピースから浮かんで見える黒い髪を揺らす詩織はこの世のどんなものよりも、ひどく眩しかった。その横顔を見ているだけで、心の底から言葉が零れた。
「来てよかった」
「ふふ。でしょ?」
詩織がにこりと笑い、私たちもつられて微笑んだ。
目の前に広がる白のキャンバスに塗った様な青い海。どんな青よりも青い色。私の目には確かに鮮やかな色彩が宿っていた。この時、全てが輝いて見えたんだ。
夕暮れ。茜色の空と、赤銅色に染まった海。砂浜のベンチで並んで座りながら、詩織が聞いてきた。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうだね。日も沈んできたし」
少し名残惜しいが、ここから家までは距離があるので帰るにはいい頃合だった。私の表情を見て察したのか、詩織が言葉をかけた。
「また来たらいいわ。夏は、まだ始まったばかりだもの」
「……うん。また来よう」
私たちは夕焼けを映すキラキラと眩く光る海を見ながら、そう口約束をした。
帰る身支度をしながら詩織が言う。
「少し、御手洗に行くわ。ここで待っててね」
詩織が立ち上がる。私は頷いて、波の音に耳を澄ませながら待っていた。遠くで響く潮の香り。寄せては返す波。ゆっくりと沈んでいく夕陽――その中に、何かが混ざっていた。
気づけば、砂浜の中央に“少女”が立っていた。十歳ほどの、小さな影。両手で顔を覆い、肩を震わせている。泣いているようだった。
胸の奥が締めつけられる。どうしてか分からない。ただ、放っておけなかった。詩織の言いつけを破り、私は足を踏み出していた。
「大丈夫? お父さんとお母さんは?」
少女は泣きながら答える。
「……わかんない。一緒に来たのに、迷っちゃって」
涙で濡れた頬を見て、あの頃の自分を思い出した。置き去りにされ、泣くことしかできなかった自分を。
「一緒にお母さんを探そうか?」
そう言って手を差し出すと、少女は小さく頷いて、その手を握った。だが――その手は、小さな体には不釣り合いなほど、強く硬かった。
「お父さんとお母さんね。意地悪するの」
少女の声が変わった。
「お父さんは怒鳴って、お母さんは私を叩くの。痛くて、泣いて、死にたいって思ったの」
頭の奥で何かが軋む。過去の記憶と、目の前の光景が重なっていく。少女は、小さな声で、それでいてはっきり聞こえるように言葉を発した。
「あなたも、そうでしょ?」
『━━望月沙也加━━』
その瞬間、冷たい風が吹き抜けた。少女が顔を上げる。その目には――黒い穴が二つ、ぽっかりと空いていた。目玉をえぐりとったような、がらんどうとした大きな穴。
私は何の反応もできなかった。目の前のモノがなんなのか判断できず、脳が正しい指令を送れないまま、体が膠着していた。
次の瞬間、身体が海へと引きずられた。
少女の背中から伸びるのは、長い尾。粘膜のようにぬらぬらと光るその尾が、海の奥へ続いて、そこへ――引き込まれていく。
ああ、これが詩織の言っていた“古きもの”か。
視界が赤く染まっていく。空も、海も、砂も、全部が焼けるように赫い。世界が、溶けていく。
私が最後に見たのは、――爛れるように燃える、赫い海の色だった。
6話です




