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5話 灰色のセカイ

その日の夕暮れは赤黒く歪んで見えた。

いつものようにリビングから漏れる怒鳴り声に、私は自分の部屋の扉を固く閉じていた。母はクラブのホステス兼マネージャー。酒が回ると理性が吹き飛び、都合の悪いこと全てを八つ当たりのように投げつけてくる。

「ナメやがってあのクソガキ! 金持ちの息子だっていうから店に呼んでやってんのに全然指名してくれねえし!」

ドア越しに聞こえる罵声とともに、ガシャン!とグラスが割れる音。次の瞬間には革製のハイヒールが床に叩きつけられる音が響く。母の足音が私の方へ近づいてくる。逃げる場所はない。震える手でカギをかけようとしても、ドアノブが乱暴に捻られた。

「出てきな!」

無理やり引きずり出され、髪を掴まれた。床に頭を押しつけられる。痛い。息ができない。爪先が背中を蹴飛ばす。

「こっちは稼ぐのに必死なのに! テメェは何してんだよこの役たたずが!」

罵倒とともに飛んできた平手打ちの熱い痛みが頬を奪い去る。その熱さだけが、私を現実に繋ぎ止めていた。

だが、抵抗しても無駄だということを幼い頃から嫌というほど教え込まれてきた身体は、すでに勝手に謝罪の言葉を紡いでいた。

「ごめ……なさ……」

「しゃべんなクソガキ!」

再び蹴りが飛ぶ。腹部に鈍痛。咳き込もうにも肺が潰されてうまく空気が吸えない。薄れる意識の中で、母の足音が遠ざかり、ドアを強く閉める音がした。

夜の帳が降りきった頃。全身を鉛のように重く感じる身体を引きずりながら、私は玄関のドアを押し開けた。振り返れば母は寝室で眠っているはずだ。起こさぬようそっと家を抜け出す。


外は雨が降っていた。冷たい夜風と雨粒が火照った頬を撫で、痛みを増長させる。蹴られた腹の奥がジンジンとうずいている。けれど今はその痛みすらどうでもよかった。

無意識のうちに足が向かっていたのはあの公園だった。しかし今日は人影もなく、ブランコもベンチもひっそりと闇に沈んでいる。そこには詩織の姿は無かった。当然だ。今日は待ち合わせの約束なんてしていなかったからだ。

でももし、もし、詩織に会えたら...彼女の顔と声色を聞けたら...

そんな叶うはずのない淡い願望を抱いてしまっている。

「……帰ろう」

独り言を呟きかけて、ふと足を止める。自分は何を呟こうとしたのだろう? 帰る? あの暴力の巣窟へ?

(違う……)

ドロドロの踵を返し、知らない道を選んで歩き出した。靴擦れのような痛みが足首に走ったが、構わずに進む。住宅街を抜けて繁華街へ。ネオンの灯りが雨に濡らされた路面に映って揺れている。人々の喧騒が耳に刺さった。笑い声や叫び声──どれも私の心には届かない雑音。すべてが色のない灰色のセカイだった。

通り過ぎていく車のヘッドライトが眩しい。目を細めた時、ふと視界の隅に黒いものがちらついた。

「沙也加?」

聞き慣れた声に顔を上げると、明かりの反射で黒色に虹がかって見える瞳が、こちらを貫くように見据えていた。

「詩織……」

彼女の声と目、姿を見た瞬間。何かが体の底から、恐怖ではなく安堵として溢れ出そうになった。

「こんなところで何をしているの?」

彼女は傘も差さずに濡れた髪をかき上げながら近づいてきた。制服ではなくパーカーとデニムという彼女にしては珍しくラフな格好をしている。買い物帰りなのか小さな紙袋を提げている。

「……家にいたくないから」

口をついて出た言葉に我ながら呆れる。幼児のような返答だ。けれど嘘ではない。

詩織は僅かに眉をひそめたあと、私の腫れた頬に視線を落とした。「傷があるのね」

何も言わない私をしばらく見つめた後、彼女はふっと息を吐いた。

「ちょうどいいわ。少し付き合ってくれないかしら?」

「どこへ?」

「私の住まいよ」

その言葉は柔らかく、けれど有無を言わせぬ確かな温度を持っていた。彼女の後について歩く道すがら、私は何も訊ねなかった。ただ黙って湿った舗道の凹凸を感じていた。


詩織の住むアパートは古びた外壁に蔦が這っているが、内部は意外にも整然としていた。ワンルームの部屋は必要最低限の家具しか置かれていない。カーテンの隙間から漏れる街灯がフローリングに幾何学模様を描いている。

「適当に座って」

彼女は畳を軽く叩いた。言われるままに腰かける。部屋全体に微かに漂う花のような香りは、きっと彼女特有のフェロモンか何かだろう。人喰いが放つ匂いが甘く感じるのは皮肉なものだ。

詩織はキッチンスペースで水を汲みながら言った。「何か食べる?」

「いらない」

「そう。なら紅茶でも淹れるわね」

戸棚からティーバッグを取り出す音がした。湯沸かし器の音。カップのぶつかる音。奇妙な安堵感が広がる。

彼女は何も聞いてこなかった。頬の腫れも、雨の降る夜の町を一人でいた事も。

多分、全て理解していてくれている。詳しく聞かないのは彼女なりの優しさなのを私は知っていた。

それでも沈黙に耐えられなかった私は、テーブルに並んだカップから立ち上る湯気を見ながら、ポツリと口を開いた。

「なんで私を家にあげたの?」

「何故って?」

彼女が不思議そうな顔をする。

「沙也加は特別だからよ」

「特別……」

「そう。あなたは他の人とは違うからね」

「それってどういう...」

詩織はふと言葉を切るかのように、私の唇にそっと触れた。窓の外では雨脚が強まり、雨粒がガラスを打ちつけている。その音を遮るように彼女の言葉が続く。

「この世界は人間たちのためにできてる。でもね、そのシステムに適応できない存在がたくさんいるのよ。そういう枠組みからはみ出ている類。私たちのような種族がそうね。」

ティースプーンをくるくる回しながら詩織が微笑む。その笑みは優しいのに冷酷な棘を孕んでいる。

「私たちのように、“個”として完成された種族は群れを作らない。

ひとりでも生きていけるから。だからこそ――脆いのよ。

“個”でしかない存在は、群れを成し、社会を築く者たちには敵わない。

彼らは弱さを分け合い、やがて力に変える。

そして私たちは少しずつ追いやられ、忘れられ、

最後には淘汰される。

まるで、最初からこの世界に存在しなかったかのようにね。」

「だから少しでも種を存続させる為に、私たち、王と呼ばれる支配者は人間の真似事をして、狩の時間帯や狩場を決め、人間に勘づかれないようにするルールを作り、秩序を形成してきた。それにすら混ざれないモノもいるけどね」

「つまり、私はあなたの目を見た時に私たちに似た悲哀を感じたの。集団の中では生きていけない哀れな者。だからあなたは他とは違う特別な存在として見えた。それだけよ」

「私を哀れだと思うなら……早く食べてよ」

私は無意識に唇を噛んでいた。

「まだよ」彼女の目が妖しく光る。

「あなたは今すべてを諦めた目をしている。自分の生に執着が無い目。けれど生きることを完全に諦め切れたわけじゃない脆く、不安定な存在。それが私の好奇心を離さないの」

カップから立ち上る湯気の向こうに見える彼女の横顔は彫像のように静かで、そしてどこか神聖だった。

「だから……もっと知りたいの。あなたの目が生への渇望に変わったとき、その血肉の舌触りはどう変わるのかしらって」

言葉の意味を理解するまでに少し時間がかかった。しかし理解した途端に胸がざわついた。恐ろしいはずなのに、奇妙な高揚感がある。私は笑みを浮かべていた。

「そっか……」

喉が乾いて掠れた声しか出ない。

「じゃあ……長い付き合いになりそうだね」

「ええ、きっと」

詩織はカップを口に運ぶと目を伏せて言った。

雨音の合間に静寂が訪れる。

そうしているうちに、時刻は既に二時を回っていた。

チッチッという時計の針の音を遮るように詩織が言葉を発した。

「沙也加、今日は泊まっていきなさい」

「え?」

「ここにいたらいいのよ」

その提案は唐突で、そしてあまりにも優しく響いた。まるでずっと昔からそこに私の居場所があったかのように。

「でも……服とか……下着とか持ってないよ」

「だったら私のを使えばいいわ。サイズは……まあ多少は合わないかもしれないけれど」

「……そうする」

「決まりね」

彼女の口元に浮かんだ小さな笑みを見た瞬間、胸の奥がキュッと縮こまる感覚を覚えた。

詩織が立ち上がり、襖を開く。

布団を取り出しながら、彼女は言う。

「布団一人分しかないけど、詰めて寝れば問題無いわよね」

「……うん」

「お風呂は向こうの扉よ。先に入っちゃっていいから」

彼女の声を背中に浴びながら、私はゆっくりと立ち上がる。

脱衣所に向かいながら、鏡に映った自分の顔を見た。腫れた頬。落ち窪んだ眼窩。痣だらけの体。でも確かにさっきよりも少しだけ潤いを取り戻したように思えた。灰色だったセカイに、ほんの一滴の色彩が落ちたような気がした。

夜更けの雨音が包むこの狭いワンルームこそが、今夜だけは私の世界の中心になった。

シャワーの水を暖かいと感じたのはいつぶりだろう。いつもはただ、冷たくて、凍えそうで、体に纏わりつく淀みをなぞるだけだった。でも、今は汚れきった体を綺麗に洗い流してくれる感じがした。

傷に沁みる痛みも今日は何も感じない。まるで詩織が私を優しく抱きしめてくれているような...心地よい感じだった。そう思うと久しぶりに深呼吸ができる気がした。

浴室のドアを閉め、詩織から借りた下着と服に着替えた。私とは違う彼女の匂い。頭の中で、シャボン玉がパチパチと弾けるような感覚がした。

居間を見ると布団の上で詩織が大人しく座っていた。少し微笑んだ表情だった。

「上がったのね。それじゃあ……おやすみしましょうか」

「うん……おやすみ」

詩織から渡された枕と掛け布団を借りて、横になると同時に彼女の手が私の髪を撫でる。柔らかくて温かい。こんな気持ちになるのは初めてかもしれない。

「どうしたの?」

「なんでもないわ。ただ、綺麗な髪をしているなって思っただけよ」

他人にそう言われた事が無かった為、妙な気恥しさが込み上げ、思わず目を逸らす。けれど彼女は特に追求するつもりはないらしく、そのまま毛布の中に潜り込んだ。二人分の体温で次第に暖かくなる室内。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

暗闇の中で目を閉じた。けれど意識はまだ覚醒していた。すぐ隣で小さく寝息を立てる詩織の呼吸を感じながら。

(私は……何を考えているんだろう)

化け物に命を握られているこの状況。本来ならば恐怖すべき相手だ。それでもこうして共に布団にくるまる感覚があまりにも心地良くて仕方がなかった。

ふと、横で眠る詩織の顔を見る。その気持ち良さそうに眠る彼女の寝顔は普通の少女の表情にしか見えなかった。

この少女の正体が人喰いの化け物だと忘れてしまうほどに。

(変なの...)

そう心の中で呟き、瞼を閉じた。


夜半過ぎの雨は止み、代わりに蝉の鳴き始めのような蒸し暑さが忍び寄っていた。鳥の声が窓辺に響き始めた頃、私はまだ眠りの淵にいた。額に汗が滲むのを感じて目を開けると、隣の布団は空っぽだった。陽射しがカーテンの隙間から洩れ、畳に細長い影を落としている。

(詩織……?)

身を起こすと同時にキッチンの方から朝餉の匂いが漂ってきた。バターを塗ったトーストとコーヒーの香り。思わず鼻先が反応する。普段は食欲など湧かない朝食だが、腹の奥で微かな欲求が蠢いた。

「起きたのね」

キッチンから顔を覗かせた詩織が微笑む。彼女は寝起きとは思えないほど艶やかな髪を結い直し、白いエプロンを巻いていた。手には二枚のトースト。

「食べる?」

私はこくりと頷き、布団を畳みながら立ち上がった。洗面所で顔を洗うと、冷たい水が腫れた頬を引き締める。鏡の中の顔は昨夜よりいくらかましになっていた。

食卓に並べられたトーストとスクランブルエッグ。卵は丁寧にふんわりと混ぜられており、焼け焦げ一つない。器用だなと思い、フォークを手に取ると、詩織が小瓶に入った蜂蜜を差し出してきた。

「好きに使ってちょうだい」

促されるまま蜂蜜を垂らす。黄金色の糸が螺旋を描きながらパンの表面を滑っていく。一口齧ると舌の上でじんわりと甘さが広がった。思わず吐息が漏れる。

「美味しい……」

「そう? 簡単なものだけど嬉しいわ」

詩織はコーヒーカップを持ち上げ、ゆったりと啜った。

「これからどうするの?」

その問いかけは唐突だったが、予期していた質問でもあった。

「とりあえず……家に戻る」

「そう。でもまた嬲られるんじゃない?」

彼女の鋭い指摘に私は箸を止めてしまう。

「……多分」

「ならうちにいれば?」

「え?」

「ここにいればいいって言ってるの。少なくとも安全は保障できるわ」

冗談めかした口調だが詩織の瞳は真剣だった。その黒がかった虹彩に射抜かれて動けなくなる。昨日まで灰色だった世界に、また一滴、二滴と色彩が落とされているような感覚だった。

「でも……迷惑じゃない?」

「別に。一人増えたくらいで変わらないわ」

言い切る彼女の声は力強く、それでいて優しかった。まるでずっと前から決まっていたかのような自然さで、胸に染み込んでいく。

私は少し間を置いてから、ようやく頷いた。

「……ありがとう」

詩織は満足げに微笑むと、立ち上がってクローゼットを開けた。

「じゃあ今日から必要なものを買いに行きましょうか。学校もあるし制服は私のでいいわよね?」

「制服?」

「あなたの学校指定の制服よ。今のままじゃ通えないでしょ?」

クローゼットの中には色々な制服が掛けられいた。古いものから新しいものまで揃っていた。

「制服、沢山あるんだね」

「そうね、人間社会で暮らす際に紛れやすさで言えば最適なのよ。学校は」

そうか。彼女たちはこういう形で私たちの町で暮らしていたのか。

このアパートもそうだ。人と同じ生活をして、人の食べ物を食べ、学校や会社に通い、夜になると人を食べに行く。それが彼女らの普通の生活なんだ。

自分の隣にこんな世界が広がっていたんだと感心してしまった。

「今日からしばらくここから通学しなさい。その方が楽でしょ?」

「それは命令?」

「命令」

詩織は悪戯っぽく笑うと私の頭をポンポンと軽く叩いた。

「さあ、支度しましょう。時間が無いわ」

朝食を急ぎ終えると詩織は手際良く荷物をまとめ、制服に袖を通すよう促した。ブラウスに腕を通した瞬間、清涼感が肌を撫でる。サイズも驚くほどピッタリだった。

玄関で靴を履き終えると、詩織が財布を手渡してきた。

「交通費と昼食代。余ったら返してくれればいいわ」

「お金……」

「気にしないで。これは投資よ。あなたという美味しそうな存在がさらに熟成するまでの」

その言い回しに苦笑しつつも、財布を受け取る。皮張りの財布は見た目より重く、硬貨の重みが現実を伝えていた。

「行こうかしら、新しい日常へ」

私と詩織はカバンを持ち、玄関の扉を開けた。外に出ると昨夜の雨雲はすっかり晴れ、夏の太陽が街を照らし始めていた。眩しさに目を細める私に、彼女は待つように傘を差し出す仕草をする。

「行きましょ、沙也加」

「……うん」

その声に導かれるように一歩踏み出した瞬間、風が吹き抜けて髪が舞い上がった。夏の匂いに混じって詩織の香水の香りが届く。甘美で蠱惑的──まさに捕食者の纏う香りだ。

(私は選択した。この化け物と共に歩むことを)

灰色だった世界は、今は鮮やかな色彩を取り戻しつつある。彼女の側にいる限り、生き続ける価値を見つけられるのかもしれない。それとも、いずれ訪れる終焉の刻をただ待ち望む日々に変わるのだろうか?

どちらにせよ、もう引き返せない。私の唇に浮かんだ微かな笑みは、自分自身への自嘲であり、また確かな覚悟の表れでもあった。

私と詩織は手を繋ぎ、鮮やかな色彩が、まばらに散らばり始めた世界へと足を進めた。


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