2話 ちっぽけな命(わたし)
化け物――黒咲詩織の赤い瞳が揺れた。
私を見下ろすその眼差しに、一瞬だけ迷いが浮かんだ。
「……マサカ」
低い唸り声と共に吐き出された言葉は、確信めいていた。
牙の隙間から漏れる血の匂いが鼻腔を刺す。
だがその獣じみた威嚇よりも、黒咲詩織の目が私を捉えた時の微かな動揺の方が、私の心に強く焼き付いた。
彼女の腕がわずかに緩む。けれど次の瞬間には再び力が込められ、骨が軋むような圧迫感に呻く。
「...ナゼワラッテルノ?」
その問の意味が分からなかった。
笑っている?私が?
今まさに食べられそうなっているというのに。
だが、確かに私の口元はつり上がっていた。
まるで、この時を待ち望んでいたかのように。
「リカイガデキナイワ」
そう呟いた彼女は、ゆっくりと大きな体を動かし、私を解放した。そして、暗く深い林の中へ消えていった。
それを見届けた瞬間、今まで溜め込んでいた恐怖と緊張が一気に決壊し、震えと涙が溢れ出た。
食べられなかった。殺されなかった。殺してくれなかった。食べてくれなかった。
そんな気味の悪い思考が頭の中を巡る。
時間が少し経ち、私はカバンを拾って帰路に着いた。
その夜、私は眠ることが出来なかった。
翌日、朝日が、昨日の出来事が夢だったのかと錯覚させるほど、いつものように昇った。
私は制服に着替え、学校に向かう。
普段と何も変わらない時間に起き、同じルーティーンを辿ったはずなのに、心だけは妙に凪いでいる。
教室に入ると、すでに彼女は席についていた。
黒咲詩織はいつもと変わらぬ凛とした佇まい。だが、今日の彼女はどこか違うようにみえた。
昨日の出来事を思い出す。人喰いの化け物。血の臭い。そしてあの言葉。
――この人になら食べられてもいい。
馬鹿なことを考えたと思う。死にたいと思っていたのは事実だ。それでも本当に襲われれば怖いはずなのに。なのに今はなぜか……心が軽い。
「おはよう。望月さん」
唐突にかけられた挨拶に、反射的に顔を上げる。
気づけば目の前には黒咲詩織が立っていた。
まるで昨日のことなどなかったかのように。
いや、違う。彼女の目は私を見透かしている。
彼女はもう気づいている。
私が見たものを。感じたものを。
「おはよう……」
精一杯平常を装って返したけれど、きっとバレているのだろう。
席に戻った彼女に私は振り返らなかった。
だが授業中も休み時間も、私は彼女の気配を感じ続けていた。
昼休み。
購買から戻ると、黒咲詩織が教室で待っていた。
「一緒にお弁当食べましょうか」
「……え?」
周囲の目が一斉にこちらに向く。当然だ。孤高で高嶺の花な黒咲詩織が、私なんかに声をかけるなんて異常事態だ。
彼女は周囲のざわめきを気にする素振りも見せず、「屋上よ。鍵は持っているから」と言うと、スタスタと歩き出した。
慌てて後を追う。
階段を上がり、屋上へ続くドアの前に立つ。
「なんで私なんかを誘うの?」
素朴な疑問だった。
黒咲詩織は鍵穴に鍵を差しながら答えた。
「特に理由はないわ。ただの気まぐれよ」
嘘だ。
気まぐれなはずはない。昨日の事を問いただすだろうと思い、覚悟した。
屋上の鍵が開けられ、中に入る。春の陽気がまだ弱々しい午後の風が二人の髪を揺らした。
「座りましょう」
ベンチを勧められ、並んで腰掛ける。
お互い無言で弁当を開ける。
彼女の弁当はシンプルだった。白米と卵焼きと鮭。彩りも素っ気もない。けれど丁寧に作られていることは分かった。
化け物でも人の食べ物を食べるんだ... そんなくだらない思考が巡った。
私の弁当は前日にコンビニで買ったサンドウィッチだった。
「美味しそうね」
唐突に言われて手が止まる。
「これ……ですか?」
「ええ」
彼女が自分の鮭を箸で小さく切り分け、私のサンドウィッチに載せた。
「交換しましょう」
「え?」
「毒なんて入ってないわよ」
クスクスと笑う彼女の目は悪戯っぽく輝いている。
「でも……」
「遠慮は美徳だけど、度が過ぎると無礼よ。それとも私が怖い?」
「そういうわけじゃ……!」
思わず声が出た。怖い?そんな感情はとっくに越えていた。
彼女は静かに笑みを深めると箸を置き、私の顔をまじまじと見つめた。
「やっぱり面白いわね、あなた」
そして急に真顔になった。
「ところで、昨晩のことで聞きたいことがあるのだけれど」
背筋が凍る。
来た。
私はサンドウィッチを膝に置いたまま固まった。
彼女は私の反応を見て楽しんでいるかのように、口角をわずかに上げた。
「見たのよね?私の本当の姿を」
風が止んだ。
鳥のさえずりも消えた。
激しく鼓動する心臓の音と、彼女の声だけが耳に突き刺さる。
「……はい」
正直に答えるしか無かった。
「それなのに……なぜ笑っていたの?」
思い出される昨夜の光景。
私は彼女に組み伏せられながら、確かに笑っていた。
彼女に殺される手前だったのに。
喰われる寸前だったのに。
確かに笑っていたのだ。
「分からない……です」
正直な気持ちだった。
「ただ……」
言い淀む私に、彼女は更に詰め寄る。
「ただ?」
「この人になら……喰べられてもいいと...思いました」
風が再び吹き始めた。
詩織の長い髪が宙を泳ぐ。
彼女はしばらく黙り込んだ後、ふっと息を吐いた。
「ふふっ……なるほどね」
彼女の唇がゆるやかに弧を描いた。
それは笑顔と呼ぶにはあまりにも禍々しく、けれど美しかった。
「望月沙也加……あなたのそういうところが好きよ」
その瞬間、彼女の指が私の頬を撫でた。
昨日と同じ冷たさ。
人間の体温を感じさせない感触。
「決めた。あなたのこと……じっくり育てて、極上の餌になった時に喰い殺すことにしたわ」
脅し文句のようなその言葉が、今の私にはひどく心地よかった。
「それで良いかしら?」
彼女が小首を傾げる。
拒否権などないと悟り、私は迷うことなく頷いた。
「はい」
彼女は満足そうに目を細めた。
「じゃあこれからあなたは私の家畜ね」
「え……?」
「だってそうでしょ?」
家畜。
その言葉が妙に腑に落ちた。
普通の人間関係ではない。けれど確かに、私と彼女の関係にはピッタリだった。
「よろしくお願いします……黒咲さん」
自然と口が動いていた。
初めて彼女の名前を呼んだ。
「さんづけはいらないわ。詩織でいい。あと敬語も禁止」
「えっ……でも……」
「これは命令よ。あなたは私の家畜なんだから黙って言うことを聞きなさい」
有無を言わせぬ命令口調。
けれどそこに拒絶感はなかった。
「うん……よろしく……詩織」
呼んだ途端、胸の奥がじわりと温かくなった。
「ええ。よろしく、沙也加」
こうして望月沙也加と黒咲詩織、二人の異常な関係が始まった。
これが普通の事ではないのはわかっている。
でも、ただ確かなことはひとつだけ。
私は彼女に生きる意味を見つけたということだった。
私を見つめる彼女の冷たく、綺麗な瞳からただただ目を離せなかった――。
2話です




