行けない
行けない。自立支援センターに行く理由がない。先週、私が住む地域の役所で、私は母と相談支援員さんの前で「小説家になろう」や「はてなブログ」に文章を投稿したことや、投稿するための文章を考えていて支援センターに行かなくなったことを話した。その数日後、相談員さんから連絡が来て、「◯◯(支援センターの名前)に連絡したら、「うちでブログの作業やってもらっても構わないですよ」って言ってました」といわれた。
私は行くべきなのか?作業をやってもらっても構わないと言われても、私はやりたくて「なろう」や「はてブロ」(「はてブ」と書こうとして、念のため「はてなブログ」の略称を調べたら、「はてブ」は「はてなブックマーク」の略称だそう。多分。)に文章を投稿してるわけじゃない。むしろ、行かないための口実作りという意味合いの方が大きい。だから、支援センターで書く作業してもいいと言われても、行く動機にはつながらない。
そもそも、以前よりも「就職しなきゃ」とか「他人とコミュニケーション取れるようにならないと」とか思わなくなった今、私が自立支援センターに通う意味は何だろう。
またしばらくしたら、ケース会議という、スタッフさん4人と私1人で話し合う場に呼ばれて、将来どうしたいのかとか聞かれるだろうけど、特にどうしたいとかありませんと答えたら、なんて言われるだろう。「Aさん(筆者のこと)、何のために◯◯を利用してるんですか?」とか言われそうじゃないか。質問する体で問い詰められそうだ。ケース会議が不安だ。4人のスタッフに対して私1人。尋問されてるような気分になる。いや、実際には、尋問のような感じではないけど、Bさん(4人のスタッフさんのうちの1人)の話し方がまさに立て板に水で、私もBさんにあわせて何とか頑張って話そうとする。疲れる。で、自分なりに一生懸命話したら、「Aさんの支援の方向性が見えない」って言われた。
方向性?別に無理に決めてもらう必要はないのだけど。支援する側としては私への支援の方向性が定まらないと困るのだろうか?私のせい?ああ、ますます行くのが億劫になる。
これは余談だけど、「億劫」という言葉はもともと、「きわめて長い時間」「永遠」を意味する仏教用語だそう。
「思い通りの結果を出すには億劫(この場合は「おっこう」と読みます)の期間がかかりそうなので、「おっくう」になる次第なのです」(佐藤健志『感染の令和 またはあらかじめ失われた日本へ』、KKベストセラーズ、2021年、286ページ)