表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

アップタイムペーパー料理人進士明政

作者: 稲葉敏明

  目次

  前書き

一、出し汁の極意  

二、江戸城刃傷事件 

三、子守り之鯉  

四、包丁試合   

五、ふぐと大草流 

六、宮中事件   

七、包丁式の継承 

八、桃山亭     

九、日本料理の流派

十、二人の天皇料理番

十一、日本人の食と作法

十二、江戸時代の飢饉

十三、御毒見役

十四、真実の料理人

十五、アップタイムペーパー

   後書き

 前書き

主人公の名前は進士明政、日本料理の板前である。

しかしただの板前ではない何と時の流れをさかのぼり過去へ行ったり、未来に行ったりとタイムトラベルの出来る板前なのである。

しかし板前がタイムトラベルして地球の歴史を変えたり戦争を止めたりするような大それた話では無い。

単なる料理に関わる話なのである。

料理の話だからと言っておいし料理の作り方やレシピを伝えるわけでも無い。

日本料理が始まった時から昭和の時代をへて平成、令和、それよりも未来の日本料理の記録、作法、決まり事の話なのである。

進士明政と言う青年がひよんな事からタイムトラベルが出来る様になり過去未来へと料理を食べに行く、そこで事件に巻き込まれたり、歴史的な事件の真相を探るためにタイムトラベルする話なのである。

最後には、アップタイムぺーパーと言うタイムマシンを使い未来の日本料理の在り方等々を見る事となる。

果たして未来の日本と日本料理どうなっているだろうか?作者私の経験と知識から進士明政を通して伝えていこう。

本文に入る前に話しの整理をしておく。

誰もが食べる料理、日本料理は作り方、味付、盛り付けに他国にはない独特の作法決まりごとがある、それを昔から守りつずけて来た家を包丁家と言う。

包丁家は、大名や大きな武家屋敷で、毎日食べる料理や法事お祝などの儀式時の料理や作法を提供して生計を立てきた家で有る。

日本料理の作法それ何?と思われるが

ここでは、包丁式の事を指す。

話が難しくなるので本題の中で説明していくとしょう。

主人公で有る進士明政にバトンを渡し説明不足を筆者で有る私が補うこととしょう。

物語の時代は、日本が経済成長期の昭和六〇年頃で有る。

それでは進士明政の体験する料理とタイムトラベルの世界へ・・・・・


   一、出し汁の極意

実家であっても、遅刻やわがまま甘えは許されない、板場では父も子もない親子の縁を切ったつもりで頑張ると決めている。その決意が、伝わったのか父(親方)は俺を、立て板と煮方にしてくれた。刺場までの経験しか無い俺だが不安も直ぐに消し飛んだ仕込みや味付け、盛り付け、下処理の仕方まで五年修行した京都翠光亭と同じなのだ。

日本料理の板前は、師事した親方や板前によって味や作り方が決まる。京都翠光亭の叔父(公治)の基で修行出来た事に感謝した。

作法や決まり事まで翠光亭と同じと言うことは、修行中覚えた事が、活かせるのだ。そして肝心な煮方の仕事は父が教えてくれる。

刺し場の包丁を使う仕事とは違い、素材に旨味や五味を加え店の味を決定する重要な仕事となる。

吸物、煮物、焚き物、温物、を作るため毎朝出し汁を引く、この出しの引き方により店の味が左右すると言っても過言ではない。

一番出し、二番出し、と出しの引き方にも桃山亭の拘りと決まりがある。

引き方は水出し法と煮出し法の二種類ある、水出し方の場合水一リットルに昆布二十グラムを入れ十二時間冷蔵庫内に置く、すると香り味共に角の無い上品な昆布出しが取れる。これを吸い物の昆布出しとして使う。他に、昆布と鰹の合わせ出しは煮出し法で取る、煮出し方の基本は水一リットルに昆布一〇グラム鰹節三〇グラムだ、水の量に対し昆布、鰹節は多くても少なくてもいけない、沢山入れれば濃厚な出しが引けるわけでは無い。

昆布も鰹節も乾物で旨味のエキスを濃縮した物、それを水で抽出する、昆布や鰹節が多いと、エキスが出づらい、出たとして生臭いくなり、旨味エキスは又昆布や鰹節の中に戻ってしまう、父から教わった引き方は、水の量に対する一番良い抽出割合なのだ。

そしてこの基本の割合をいちいち測っていては、プロの煮方とは言えない鍋のどの位置まで水を入れれば何リトルなのか、この鍋でここまでの水が入いっているなら昆布は何グラムで鍋の直径の二倍の長さだとか、鰹節は片手で握った時何グラムなのか、最初は全て計りながら自分の中に目測量、手測量を覚えて行くので有る。毎回同じ事を繰り返し三年もすれば、目測、手測が出来て計りを使わなくとも自分で素早く測れる様になる。そして煮出し方には重要な事がある、煮だす時の火加減と温度だ、鍋に水を入れて濡れ布巾で汚れを拭いた昆布を入れ強火にかける、温度が上がって来ると昆布から小さな気泡、泡が出てくる昆布のエキス旨味だ、沸かさないように(六十度から七十度)中火にしてしばらく(四十分から六十分)旨味を引き出す、昆布を箸で取上げ爪をたて昆布の柔らかさを確認する爪がたてば、昆布を取出し、温度を九十度まで上げ、火を止めすぐに鍋ごと、氷水に付け汁の温度を下げる(五十、六十度)まで下がったらガス台に戻し、鰹節を入れ再び強火にかける。

一度温度を下げるのは、次に入れる鰹節の旨味のエキスを引き出すためだ、熱い汁へ入れてしまうと、鰹節の雑味、苦味、渋味まで出てしまう。一気に鰹節を入れ箸で軽く静かに沈める、沸いてきたら(八十、九十度)弱火にして、灰汁を丁寧に救う沸騰させてはいけない。さらに灰汁取りをして火を止めさらしで漉す。

これが雑味の無い香り、旨味の良い、あっさりとした一番出しの取り方だ。

引いた出しは、空気とふれ酸化が始まり、酸味が出て来るので、氷水で温度を下げてステンポットなどに移して蓋をして冷蔵庫で保存する。

二番出しの取り方は、一番出しで取った昆布、鰹節を鍋に戻し一番出しの半分の水と半分の追い鰹をして二十分位弱火で煮だす、残っている旨味エキスや雑味、苦味、渋味まで全て抽出する。

香りや旨味は一番出しにはかなわ無いが、雑味、苦味、渋味、追い鰹による旨味も加わり濃厚な味となる。

主に一番出しは、吸物、浸し物、だし巻き卵、茶碗蒸しなどに使う。

二番出しは、野菜の焚き物、味噌汁、蕎麦汁、うどん汁、などに使う。

桃山亭では、一般の料理屋とは違う所が有る、冬は、昆布と鰹節の出しで取った吸物をお出しするのだが、夏は、昆布と鮪節の出しで取った吸物をお出しする、鰹節より鮪節のほうがサッパリしていて清涼感があるからだ、そしてお客様がお揃いになってから人数に合わせ、出しを引く、水出し方で引いた昆布だしに冬は鰹節、夏は鮪節で、引き立ての吸い物を客様にお出しするのだ。

この方法は翠光亭でも行っていたが手前がかかりすぎるため価格の高い料理のお客様のみ行なわれていた。

翠光亭で刺場だった俺は、煮方の手伝いで行った事がある、引き立てを出すため、お客様の数が多いと板場は吸い物を出すだけで戦場の様になる。板前、料理屋の拘りは凄い、美味しいと言われるために、突き進むのだ。

桃山亭はお客様の数が少ないとは言え、父は、包丁師としての自分に拘りこの方法で吸い物を全てのお客様に提供して来たのだ。あらためて父の息子に産まれた事に感謝した。



二、 江戸城刃傷事件

俺は仕事が終わると、バックタイムペーパーを机の上に置き、進士流の文献と料理歴史書を見ながらタイムトラベルする場所を考えていた。すると脇から小さな寝息が聞こえる、夏子は毎朝四時に起きてトレーニングなので、既に寝ているのだ。今ならタイムトラベルの事で夏子に注意される事もないだろうと料理の歴史書のページをめくった。

徳川家康は天正一八年(一五九〇)に豊臣秀吉の命令で三河から江戸に移った、その後秀吉が死んで慶長五年(一六〇〇)に石田三成率いる西軍と関ヶ原で戦った、勝利した東軍大将徳川家康は江戸に幕府を開き慶長八年(一六〇三)に、江戸城築城を始める、

江戸城料理番は当初大草流であったが、数十年後に大草流から薗部流に代わった。慶長八年より約三九年後、徳川三代将家光の子家綱の懐妊の時である江戸城御膳所が大草流に代わって薗部流になっている、俺は何か事件があったのかな?と、後ろの棚から江戸城料理番人板前名簿帳を取り出した。

大草流の料理人表を見ると、大草流弟子水野一成という名が目に付いた。彼は大草流から薗部流に変わっても、やめないで板前として残っている。

と言う事は、料理番が大草流から薗部流に替った原因を知っているかもしれない・・・

一人言を言いながらバックタイムペーパーをセットしてみると、タイムトラベルセット完了のランプがついた「よし!水野一成確かにいる」と左腕にバックタイムペーパーを張り実行スタートボタンを押した。

庖丁式で切った鵠(白鳥)が御膳所に下がってきた。

「坂田!鵠に酒塩掛けておけ!」

「上田、味噌に鰹節入れろ、カラカラになったら鵠入れろ!」

「三島、京菜酒塩して上田に回せ!」

「上田、煮花咲いたら京菜だぞ、煮すぎると青が飛ぶぞ!」

誰かが板場の皆に大声で指示を出している。

俺は、寛永十八年(一六四一)一月三日

江戸城御膳所の、水野一成に乗り移っていた。

御膳所は、正月祝い料理の調理で大忙しである。

しかも徳川三代将軍家光の側室お楽の方が、懐妊されたと噂で持ち切りだ。産まれた子が、男子で有った場合、四代将となるかも知れない、御膳所は皆ピリピリしている。

板前はざっと見ただけで七十名から八十名は居る。乗り移った水野の頭に手をやると、髷である。着物に、襷掛け、こんな格好でと思っていると、腰のあたりに何か当たった。「痛っ!」下駄で蹴っ飛ばされたのだ。俺は、よろけて床にひっくり返った。

「水野、何ボケっとしている。早く、鵠の器持って来い。煮花が散るぞ」と、蹴とばした人物が怒鳴った。

「はい分かりました」

と俺は、ひっくり返ったまま答えた。

すると「水野、大丈夫か」誰かがが起こしてくれた。

「あ、ありがとうございます」と礼を言ったが、来たばかりで誰なのか分からない。

その人は、「立板は、今日は特に気がたっている、ボケっとするな」と言って煮方の方へ歩いて行った。

「はい、すみません」

水野の記憶を確認すると。

俺を蹴とばしたのは立板の高杉佐兵衛さんで起こしてくれたのは煮方の神山達治さんだ。水野の記憶は自然に俺のなかに入るはずだが、最初に髷や着物姿を気にしたのが良く無かった、今はもう水野一成(俺)その者だ、よし頑張るぞと秘かに気合いを入れた。

宮中天皇家では、正月の新年の祝いに鶴庖丁をするが、徳川将軍家では、鵠(白鳥)で行う。大草流家元大草甚五左衛門とその息子、大草源右衛門が鵠の庖丁式を終え、御膳所へ帰って来た。

「高杉、どうじゃ。鵠の温物は」と家元が料理を出す時間を気にしている。

「はい、只今仕上がります。水野、はよせい」と立板の高杉が家元に答えると同時に

水野(俺)にも指示を出した。

鵠の身を鍋から赤塗りの器に盛り付け味噌を張り京菜を添えれば仕上がる。

「はい、立板、只今仕上がります」と俺は、

立板高杉さんに言った。

すると家元が「高杉料理に抜かりはないな」と確認している。

「はい、抜かりはございません」と高杉が答えた。

「よし、わしは奥へ参り、御所様へ料理の説明をいたしてまいる。源右衛門、高杉、あとは抜かりなく」そう言うと、包丁式を終えて戻って来たばかりの大草元甚五左衛門は狩衣の袖を手早く直し、早々と御膳所を後にした。

江戸城内御膳所は、正月料理の準備で普段居ない人間まで手伝い人として入っているので人でいっぱいだ、家元と源左衛門が包丁式を終えて戻って来た事も気にせず皆、自分に与えられた仕事をこなしている。

立板の高杉も料理の盛付、味付けと忙しく気が立っている。

俺は、自分が板前で有る事と水野の記憶があるので、冷静に仕事をこなせている。

「高杉、ちょっと」と大草源右衛門が八寸場へ来た。

高杉(立板)は、鯉を切り身にしているので手には包丁を持っている。

「高杉、早く」と、また源右衛門が呼んだ。

「水野、これたのんだぞ」と言うと包丁を持ったまま源右衛門の所へ行った。

「はい了解しました」高杉の代わりに鯉の切り身を切り始めた。

二人の声が、聞こえる何やらもめているようだ。

水野の記憶を確認すると、もともと二人はあまり仲が良くない、板場では煮方の大草源右衛門より立板の高杉佐兵衛の地位が上なのだが、源右衛門は大草流家元の息子であるため、やがて御膳所の親方となり高杉よりも上になるのである。

もちろん、長年家元について、修行した高杉の方が源右衛門より仕事ができる。

その時、大きな声がした。

「立板、おやめなさい」

「山口、立板を」

「おやめください」

「きさまー」

「そっち押さえろ」

「神山を烏帽子取ってやれ」

「手を押さえろ」

「さらしだ誰かさらしを、くれ」

声の方を見ると、数名の板前がもみ合っている。

「源右衛門様・・」と誰かが叫んでいる。

すると「立板を押さえろ」と誰かが大声で叫んだ。

高杉(立板)の周りを四人が囲み後ろから一人が羽交い絞めにし、一人が左腕、一人が右腕を押さえ前の一人が立板の喉元を両手で押さえている。

「あっ」その光景を見た俺は、声を出した。

立板の右手には、血だらけの包丁が握られている。

赤いものが包丁の刃をつたわり柄の部分から手首までも滴り落ちている。

「ウオー」と声にならない声を出している。口に何か加えているようだが、血だらけでよくわからない。

水野(俺)は、包丁をまな板の上へ放り出し、走ってその場へ行った。

「立板ごめん」と言いながら俺は、立板の右手に握られている包丁をもぎ取った。

「立板、おやめ下さい」喉もとを押さえた神山さんが言った。

目は白目をむき、血だらけの口には、指が見える。

高杉(立板)は、源右衛門の指を食い千切っていたのだ。

「ウオー」と声にならない声を出し、押さえている人間を振り切ろうと、もがいている。

「立板ごめん!」と言うと水野(俺)は、腹部に一発入れた。

口から食い千切った指を吐き出し、その場に崩れ落ちた。押さえていた四人は床に寝かせた。

誰かが「水野!」と言ったが、それ以上何も言わなかった。

「源右衛門様」斜め前を見ると、大量の血の床に仰向けで倒れている。

黒の狩衣に刺されたような跡がある。顔に、血の跡はないが、息をしていない。

周りを見ると、皆が集まっていた、まずいと思い咄嗟に、

「皆さんお騒がせしました。納まりましたので皆さんは自分の場所へ戻って仕事を続けて下さい」と、言って集まって来た皆を追い返した。

数名の板前で息をしていない大草源右衛門を医師の所へ運んだ。

高杉佐兵衛(立板)は、我に返ったのか、下を向き静かにうなだれていたが、番役人に連れていかれた。

その後御膳所の人達は何もなかったかの様に正月の祝い料理に取り掛かり無事終了した。

夕方になると、家元甚五左衛門が御膳所に現れ、板場、配膳所、全員を集めた。

「皆の者、本日執り行われた正月祝いの儀は無事終了致し御所様を初め全員が大変けっこうであったと、お褒めの言葉を頂いた。しかし同じく本日この御膳所で刃傷事があった。大草源右衛門は死去、下手人は、高杉佐兵衛(立板)正月祝い事の場内での刃傷事につき、おって御家より厳しい御沙汰が下る。皆、心しておくよう申し付ける。御沙汰が下るまで御膳所の役目を滞りなく果たすようにお願い申す」と大草勘五左衛門家元は言った。

この時代の人は、凄い。息子が亡くなっても何事もなかったかのように平然としていられる、しかも立板も無くしてしまったのに。俺は、乗り移っている水野の頭の中でこの刃傷事件の御沙汰はどうなるのかと知識を探った、

この時代、喧嘩は両成敗で、死人が出ない限りお咎めはない。

しかし、祝い事、場内御膳所で死人の出る不祥事は、どんな裁きが下るのか、水野にも解らない、通常の刃傷事でも一週間はかかる、今回大草源左衛門が死んでしました事と正月祝いの最中なので御沙汰まで一ヶ月かかると水野は考えていた。

俺は、御沙汰が下るまで一度現代に戻る事とにした。

水野一成の腕をめくりバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。

夏子がなにやら心配そうな顔をして俺を覗き込んでいるのが目に入った。

「あ!夏ちゃん」

「明政さん、例のバックタイムペーパーでどこか行ったの?手に血が付いている」と俺の手を持ち上げた。

「あー実はね」と、手を見ると確かに血が付いている。

濡れタオルを、もらい血を拭きながら、行って来た江戸城内の話をした。

「危ないわねーなんでそんな所にタイムトラベルするの?」と怒っている。

「いや、俺もただ江戸城内御膳所の料理番が大草流から薗部流に変わった理由を確かめたくて、軽い気持ちで行ったのだけれど・・」と、そこまで言うとはっと気が付いた。この刃傷事件が原因か?

大草流の不祥事により江戸城料理番を失脚し新たに薗部流が料理番として入ったのだろうか?

「夏ちゃん、俺もう一度、城内まで行ってくる」と、江戸城内御膳所事件より一か月後の水野一成に戻った。

「水野、魚の柚庵漬け終わったか?」と神山さんが聞いてきた。

「はい、只今」と水野(俺)は返事をした。

「焼前の菊花蕪の酢漬、鷹爪を多めにしてくれ」と神山さんは、上田さんに指示を出している

「へい、承知いたしました」と神山さんに返事をした。

家元の息子大草源右衛門を殺してしまった立板高杉さんの姿は無い、一か月前の御膳所と違い空気が重く活気が無い、働いている人間は同じなのだが?俺は、水野の記憶をたどった。

一か月前の御前膳所刃傷事件の裁きは、わずか三日で出ていた。下手人、高杉佐兵衛は事件の二週間後に斬罪に処された。高杉(立板)は、もうこの世には居ない。そして、大草流は全員御膳所を、お暇(解雇)となる予定なのだ。

「おーい神山、上田、水野ちょっと集まってくれ」と大草勘五左衛門家元が老中高家の須貝和茂と共に御膳所に現れた。

慌てて家元の所へ駆け寄ると、須貝和茂が大草勘五郎左衛門へ話しかけている。

「大草殿困りましたな御膳所内のもめ事、それにしても時期が悪すぎる下人高杉佐兵衛は斬罪とし、大草殿は御膳所役お暇となりましたが一ヶ月経っても次の御膳所預が見つかりません」と老中須貝和茂が困った様に言った。

「大変なる不祥事を起こした事を心より謝罪しお詫び申し上げます」と大草家元は頭を下げた。

「いやいや頭をお上げ下さい、御沙汰は下ったのだからそれはもうよい、今年はご存知の通り家光公の側室お楽の方が懐妊なされた、万が一、男子が御誕生となると、誕生祝い披露として各地の大名達が集まる事となる。となると、包丁式は勿論料理作法に優れた料理番が必要となる、しかし、わし達老中は、次の料理番、御膳所役をどうしたら良いかわからん。なにかよい知恵は無いか?」と老中須貝和茂が聞いた。

「ごもっともでございます、大変な時期にとんだ失態を犯しました。監督不行き届きの私が言うのもなんなのですが、私に良い考えが御座います」

「ほう、何か良い案がござると?」と老中須貝和茂は手を胸に置き顔を突き出した。

「京都の摂家の九条家の料理番高橋五郎左衛門の弟子に中村十右衛門と言う者がおります。中村十右衛門は、私の料理仲間なのですが、幼馴染で包丁式、料理、作法に、精通しており先日の事件の後、中村十右衛門に徳川家御膳所を引き継いでくれないかと相談に行ってまいりました。現在の板前達を残してくれれば引き継いでも良いとの答えでしたが、大草流の人間は私をはじめ全員がお暇となる予定で、板前達を残す訳にはいきません」

そこまで言うと、大草勘五郎衛門は神山、上田、水野達をみて話を続けた。

「私の父大草伝二郎は、島津藩より明智光秀様(南光坊天海上人)の推薦により江戸城築城と同時期に、江戸幕府徳川家の御膳所預となりました。

その時に大草流だけでは板前が足りず明智様の部下進士流の板前達数十名が一緒にこの御膳所に入りました。

その中に神山、上田、水野、の父親もおりました。この者三名はその子供でございます」と、三名を指差した。

「この者達三名を初め数十名は、大草流でなく明智様の進士流の板前達なのです。

そこで私の考えとしては、この者達を大草流の板前とは考えずに進士流の板前という事で残こして頂ければ、この話はまとまります」

静かに聞いていた老中須貝和茂は頷きながら、「うむー、摂家九条家と言えば公家の中でも高家じゃそこの料理人に来てもらえればそれに越した事はない。

今回の事件、幕府内では、事故として処理してあり、各大名をはじめ御所様も知らん御密として老中と目付役だけで早々に対応した。

よって大草流全員お暇も一部の人間だけしか知らん。

大草流だろうが、進士流だろうが残しても構わんのじゃ、しかし大草勘五左衛門殿には申し訳ないが、責任を取って辞めてもらわなければならん。

そうしないと、しめしがつかんからな」と老中須貝和茂はすまなそうに言った。

「かしこまりました、ごもっともで御座います。いかがでしょうか私の案は?」と大草勘五左衛門家元は顔を上げた。

「何とも渡りに船、よい案じゃ大草殿早々に話をまとめて頂きたい」と老中須貝和茂は深々と頭を下げた。

「かしこまりました」と大草勘五左衛門も深々と頭を下げた。

大草流家元大草勘五左衛門の働きにより

薗部流、中村十右衛門が江戸城御膳所預り役となり。

神山、上田、水野、をはじめ大草流、進士流の板前達の希望者全員が江戸城御膳所へ残る事が出来きた。

七十名の薗部流と二五名が合体して総勢九十五名の集団となり、江戸城御膳所を、預かる事となった。表向きは、大草流板前は全てお暇(解雇)となり薗部流の板前に全て入れ替わったと、なっている。

つまり刃傷事件の事は伏され大草流不祥事により、江戸城御膳所の大草流は失脚し、新たに薗部流となったと記録されたのである。

俺は、心の中で水野、良かったな、と言いながらバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。

「おかえり」夏子の顔が、目の前にある。

「あ、ただいま」俺の頭の中には、水野の記憶がまだ残っていた。

「危なくなかった?」

「あー、俺はただ、乗り移った人の記憶を確認しただけだから、大丈夫さ」

夏ちゃんに江戸城内の刃傷事件によって、江戸城御膳所の料理流派が変わった事を話した。

「それって、大事件でしょ?なんで記録に無いの?」と夏子は不思議そうな顔をして俺を見た。

俺は腕を組み、「ウムー、城内の不祥事だから、刃傷事件の事は徳川江戸幕府も大草流も記録を残さず、消し去ろうとしたのだと思う。唯一痕跡があるのが、この進士流の文献の中に薗部流の事が書かれている。寛永十九年、大草流に代わり当流派、薗部流中村十右衛門門下、総員九十五名が城内に入るとある、そして一年後の寛永二十年(一六四三)に、お楽の方が男子を出産する。

その男子が後の四代将軍家綱となり。徳川の世は万全を期すと書かれている。

三代将軍家光は、男子誕生を大変喜んで各地の大名を江戸城へ招き盛大に男子誕生の祝いの儀と宴を模様した。宴の祝いの儀では薗部流包丁式出産之鯉と薗部流秘伝の祝い料理が振る舞われたとある」

「なるほど、でも、もうそこへ行っては駄目よ。また死人が出るかもしれないから、危ないでしょ」と夏子は静かに言った。

「うん分かった」と夏子を見ながら頷いた。


    三、子守りの鯉

「ありがとうございました」

「又おこし下さいませ」と、お客様が帰り桃山亭の一日の営業は、終わる。

「菜々子さんお客様が見えなくなったら、暖簾下げて置いて」秋子(明政の母)女将の声がする。

桃山亭では、最後のお客様が帰ってもすぐに暖簾を下げたり電気を消したりはしない。

完全にお客様が帰って見えなくなったら、暖簾を下げて電気を消す。

しかし板場は、今日の片付けと明日の準備でまだ終わらない。

「明政、来てくれ明日の亀山様の祝い料理の献立、皆に配ってくれ」と親方が俺の方に献立を差し出した。

「はい、わかりました」と俺は親方から皆に配る献立を受け取った。

「明政、ついでに献立を見ながら皆に料理の説明もしておいてくれ。今日も包丁式の練習をするのか?」と親方が聞いて来た。

「はい、今日は、檀紙包みの鯉を皆に教えようと思います」と俺が答えると、

「そうか皆、頑張っているな! わしは先に帰るが解らない事が有れば呼んでくれ」と親方は立ち上がり前掛を外した。

「はい、わかりました。お疲れ様です」と俺が言うと板場の皆も「お疲れ様です」と俺に続き言った。

親方を見送った後献立を配り料理の説明を始めた。


   亀山様髪結の祝いの献立


式三献  一、引き上げ湯葉 黒豆、雲丹

         山葵 鼈甲餡

 一、蛤真砂和え、切り三つ葉

  

 一、松茸、太刀魚、酢味噌掛け

   天盛り クコの実


祝い八寸 鮑柔らか煮共味噌掛け

     柿鼈甲卵、いが栗揚、練り切り兎

     秋刀魚柚庵焼、酢橘釜鈴子鋳込み

     鴨と長芋博多、子茄子茶巾絞り

     車海老具足煮、〆鯖手毬寿司

     銀杏松葉刺し、紅白水引


祝い吸物 菊花蕪帆立真丈鋳込み、焼松茸

       青み春菊、口柚、紅白結び

        清流仕立、菊花散らし


祝い造り 伊勢海老洗い姿造り、鮪角重ね、

     細魚昆布締め木の葉造り、

     白髪大根、針人参、山葵、紅たて

     煎り酒、土佐醬油


祝い焚物 甘鯛蕪ら蒸、大黒占地、山葵

     青銀杏、香箱蟹散身、忍び蟹味噌

     銀餡掛け


祝い焼物 霜降牛朴葉焼、金山寺味噌、

     小角葱、小角茄子、小角干瓢


祝い揚物 無花果あられ揚、鮴唐揚げ

     針葱、青唐飯鋳込み揚げ

     大根生姜卸し、天出し汁


祝い酢物 蛇腹胡瓜、青柳、帆立、鮗、

      酢取り茗荷、梅肉醬油


祝いご飯 温素麵、浅葱、鰊、針海苔


祝い菓子 葛切り、黒密

         桃山亭 店主進士忠政

俺は、献立を見ながら皆に言った。

「秋も深まり旬の魚や野菜をふんだんに使った祝い料理だ、皆の献立を読む力と調理技術は問題ない、秋にはいつもやっている料理だから各部所難しい所は無いと思うが、何か質問はあるか?」と言いながら皆の方を見た。

「明政さん!祝い八寸の水引ですが金銀水引でなくていいのですか?」といつも無口な安藤君が真っ先に口を開いた。

「安藤いい所に気が付いた!前に教えたと思うが、一度切りのお祝いの時には金銀の水引だ、例えば、結納、結婚、銀婚式、金婚式は、人生一度切りでいいから金銀の水引を使う、それに対して何度あっても良い祝いの時は紅白の水引だ、出産、入学、卒業、など、何度有ってもいいだろう。明日のお祝いは、髪結い(髪置き)のお祝いだ、両親は、子供が産まれるたびこのお祝を何度でもしたいだろう、何度有っても嬉しいだろう、だから紅白の水引を使う」

「明政さん、結婚二回目の人は?どちらの水引使えばいいですか?」と谷口君が言うと、つかさず加藤君が、

「馬鹿一回だろうが二回目だろうが金銀の水引に決まっとるだろうが!お前の結婚の時には、黒白の水引付けたるわ!」と言うと皆が一斉に笑った。俺は笑いながら

「水引の話で盛り上がったので、水引の由来と紅白、金銀の水引の成り立ちについて説明しておくね、古来宮中天皇家へ、中国からの送り物が届くと必ず赤と白の紐で結んで有った、それが水引の始まりだと言われている、初めは、金銀の水引など無かった。

中国から宮中への送り物は赤白の紐で結んであったのだ。それを見た公家の役人の一人が、中国の送り物に結んで有る紅白の紐に対抗して金銀の紐で結んで送り物をすると、天皇は高価な贈り物だと喜んだ、金色や銀色は高価な物と言う意味があったのだ。反物などの衣類の送り物の他に菓子や乾物などの食べ物の送り物も多く、送り物改め役をしていた天皇料理番の高橋家が、改めた後の赤白の紐や金銀の紐を形良く今の水引の様に結び直して天皇に献上した。それを見ていた高橋家の弟子の料理人達が、大名や公家に水引の縛り方を教え一般にも伝わる様になった。

だから古来は、赤白の水引の付いた物は中国からの送り物、金銀の水引の付いた物は国内からの送り物と区別していた。

時代が進み時の流れと共にいつしか中国からの送り物は無くなり水引の由来なども忘れ去られていった。水引の由来は送り物を結ぶ紐が天皇の料理番高橋家により水引となったが、現代での使い分けに決まりは無い、どの様に使っても良いのが本当だ。

しかし料理屋や包丁家、包丁師などには、流派の示した水引の結び方や使い方の作法がある。今日説明した赤白の水引、金銀の水引の使い方や考え方は進士流の文献で示された使い方だ」と、説明すると谷口君が右手でこぶしを作ると、

「よしや、俺ピンクとショキングイエローとハワイアンブルーで水引作くって、うあー」と全部言い終わらないうちに加藤君が谷口君の首をしめた。それを見た皆は又一斉に笑った。

俺は笑いながら「他の質問が無ければ、ここで終わりにして包丁式の練習をするぞ」と言った。

「あのーすいません」と今井君が手を上げ恥ずかしそうに言い出した。

「献立の祝いの焚き物の所なのですが、いつもは、尼鯛と書いてあるのですが今回は、甘鯛と書いてあります、魚が違うのですか?」と質問をした。

「今井君、良く気が付いたね、誰か今の質問に答えられる人いるかな?」と皆を見た。

「そんな事も解らんのか俺が答えたるで!」と谷口君が首をさすりながら言った。

「弘法も筆の誤りと言う言葉を知らんのか、書を書きなれた偉い坊さんでも、たまに間違える事もある。という事だ、献立を書くのに慣れている親方でも尼鯛と甘鯛を間違ってしまったという事だ、どうぞ親方を許してください」と谷口君が言い終わると同時に焼場の柴田君が、「私がお答えしますので」と説明を始めた。

「明日の料理は髪結の祝いです。子供が生まれて髪の毛が伸びてきて髪の毛が結べる様になりましたよ、と言う。お祝いの席なのに、尼鯛の尼の字はふさわしくありません。髪の毛を切って尼さんになるなどという事を連想してしまうため、親方はわざと尼の字を使わず甘の字を使いました。

献立はお客様もご覧になりますから、以上です」俺は、思わず拍手をしていた。

皆仕事中は、無口だが、きちんと献立を読む力と献立の内容意味を理解しているのだ。

皆素晴らしい、俺は嬉しくなって「皆、包丁式の練習終ったら俺がラーメンと餃子おごるぞ!」と言った。

「わーい」「やったー」と皆は喜びはしゃいだ。

帰ったはずの親方は、調理場のドアの隙間から板場皆の話を聞いていた、心の中であいつらいい板前になるぞとつぶやいた、一度調理場を出て二階への外階段を上がればすぐに自宅なのだが「良い若い衆に恵まれたわしは幸せ者だ、おっと寒くなって来た」とポケットに手を突っ込み階段を上がった目には、嬉し涙が溢れていた。

次の日、髪結いの祝い料理と、包丁式は無事終了してお客様は喜んで帰っていった。

その日の夜、俺は切汰図を見ながら、つぶやいた。

「子守り鯉か、夏子が懐妊したら、公治叔父さんが、包丁式をしてくれる、と言っていた

俺も何度か練習したが、何かを忘れている様な気がする?」

文献を見ると、子守りの鯉は、安産祈願のため父親なる者が自ら庖丁を持ち無事の出産を祈願して行う式庖丁とある。

「俺は包丁師だから出来るけど、父親になる人物が包丁師や料理人じゃ無かったら、包丁式をそうとう練習しないと、出来ないぞ」と顎をさすりながら静かに言った。

「最後に子守りの鰭を取り包丁にて三度拝み、式上中央に置く大隅家口伝有りとある。

あれ?切汰図の中に子守りの鰭が無いぞ。式、上中央に置く?やっぱり無いや。

そうだ忘れていたのは、子守りの鰭の置き場所のことだ!」俺はポンと机をたたいた。

切汰図の中に子守りの鰭を置く場所が描かれて無いのだ。

親方が「好きな所へ置きなさい」と言うから毎回気分で置いていたけどそれでいいのかな?」と首を傾げた。

「明政さん、何ぶつぶつ言っているの?お風呂どうぞ」と夏子がやって来た。

「あ、ありがとう。夏ちゃん、子供が出来たら生まれる前に、包丁式の子守り之鯉を切って安産祈願をしょうと思って」と言うと夏子が「あら、嬉しいわありがとう。所で子守り之鯉の包丁式明政さんはできるの?」と聞いた。

「勿論何度も練習したから出来るけど、切汰図の中に、子守りの鰭を置く場所が描かれていない」と言いながら夏子に、子守り之鯉の切汰図を見せた。

「あら本当ね。多分、秘事よ、口でしか伝えないのよ。練習の時は何処に置いたの?」

「それが、切汰図に子守りの鰭の置く場所が描かれていないから、親方に聞くと好きな所に置けて言うから毎回違う所に置いていた。親方は何も言わなかったから、不思議に思っていた」

夏子は腕を組んで「秘伝だとしても、親方が何も言わないのも不思議ね、本当は、何処に置くのかしら?真実が知りたいわね」と、首を傾げた。

俺は立ち上がり本棚から進士流の料理文献を取出し子守り之鯉が行われた記録を調べ始めた。すると宮中で行われた文章を発見した。寛永十年(一六三三)明正天皇懐妊時に小御厨子所預の大隅流が子守り之鯉を切って、安産祈願をしたと記録がある。俺はこれだと思い、「夏ちゃん、子守りの鰭の置き場所が、解るかも知れない俺ちょっと見てくる」と言ってバックタイムペーパーを取った。

「じゃ、お風呂はタイムトラベルから返ってからね、明政さん気になると止まらないから、仕方ないわね、それで誰に乗り移るつもり?」と夏子は少し不満げな顔をした。

「えーと、御厨子所預の高橋宗治がいいと思う。戻ったらちゃんとお風呂はいるからね」と俺は、バックタイムペーパーに年、日時を打ち込んで、高橋宗治と打ち込み、腕に貼ると実行ボタンを押した。

静かである、俺は清流殿へ向かう廊下を数名の弟子を従え歩いている。束帯と冠姿だ。

宮中では、正装であるが歩きづらい、そして束帯には袖をくくる紐がないので庖丁式ともなれば袖が邪魔になり、失敗を招く場合もある。

目の前に、清涼殿の庭が見えてきた。庭で、と思い宗治の記憶を確認すると違うので有る。清涼殿脇の寿高殿建物の中の松の間のだ。

清涼殿を通り過ぎて寿高殿へ向かい松の間の隣の控えの間に入ると、大隅徳豊が待機していた。

彼は、髙橋宗治(俺)の部下であるが今日の包丁師でも有る。控えの間に入るとすぐ

「大隅、準備のほどは?」と高橋宗治(俺)が聞いた。

「はい、すべて整いました」と静かに大隅徳豊は答えた。少し緊張している様子だ。

「そうか、抜かりなく頼んだぞ」と俺は緊張がほぐれる様に大隅を励ました。

無理はない髙橋宗治御厨子所預に代わり小御厨子所預の大隅徳豊が執り行う事となったのだから、しかもお腹の子は誰の子かわから無い明正天皇を腹ませた人間の代理で執り行うのである、複雑な心境なのであろう。

顔を上げ大隅徳豊を見ると「かしこまりました」と一言深く頭を下げた。

高橋宗治に成りすました俺は、安産祈願、大隅徳豊の後見人として庖丁式最中は、大隅の後に控える事となる。

その他にも、庖丁式が始まる前に、俎板を開く絹取りの儀をしなければならない。

松の間に設置されたまな板には、白い絹が掛けられている。その絹を作法に基づいて取り除く作業だ。

そして、最後に三宝に乗せられた鯉を天皇に奉納する、奉納の儀までが今日の俺の仕事となる。

安産祈願を受ける、明正天皇は女性天皇である。本来なら、その父親が庖丁式を奉納し、祈願するのだが、父親が誰だかわからなかった。よって明正天皇が懐妊した事も秘密とされた。

明正天皇は、頑として誰の子なのかは言わず父親は、すでにこの世にはいないとだけ言った、しかし天皇として、しきたりや行事は、守りたいと言う考えを変えずにいたため内々でやる事となった。

側近の役侍従達もこんらんを隠せない、何故なら男子の天皇ならばこんな事はないので有る、女子の天皇即位は弥徳天皇以来、八五九年ぶりとなる。

しかも男子天皇の候補が居ないため明正天皇は、一時的に即位しただけなのである。

父親が誰かも分からず懐妊に伴う儀式包丁式をする事となり御厨子所預の高橋宗治に依頼が来たが、高橋宗治は連日包丁式が続いたのと、この包丁式は、明正天皇が懐妊した事が秘密である為、その事も考慮して小御厨子所預の大隅徳豊が行う事となった。

大隅徳豊は父親の代理の役なのである。

寿高殿松の間に、越天楽が流れはじめた。

しばらくすると襖が開き、進行役の合図が出た。明正天皇が座に座り庖丁式が始まる。

高橋宗治(俺)は、空いた襖を更に全開に開けた、そして膝行で松の間に入り座り直して明正天皇に一礼をした。

まな板の前へ膝行で進むと、絹が綺麗に掛けられている。右手で、絹の端をつかみ左へ折る、もう一度右手で折れた端を左へ折る。両手で手前から、向こうへ三度折り、持ち上げる。絹を持ったままゆっくりと後ろへ下がり、一礼して膝行のまま控えの間に戻る。天皇の前では、立って歩くことは許されない。絹取りの儀が終り。次に出ていくのは、高橋家門人、柳原馬之助である。

鯉と庖丁、板紙を所定の位置に置く御しつらえの役目だ、式家では持ち出しの儀と言うが、宮中では卸しつらえの儀と言う。

柳原の御しつらえの儀が終わり控えの間に戻ると、入れ替わる様に大隅徳豊が出ていく、高橋宗治(俺)は後見人なので大隅の後から続けて出て、大隅の右後ろに座った。

大隅は膝行でまな板の前に座った束帯なので、身繕いはしない。大隅は静かに箸庖丁に手をかけ、懸りを始めるのだが、箸庖丁とも切先を天皇の方へ向けてはいけない。しかも、包丁は表側だけを天皇に見せ、裏側を見せてはいけないのだ。決まりが多い庖丁式だ。俺は、目を見張った。

懸りが終わり水撫でに入る、すると越天楽が止まった、ここからは無音無言となるのだ。

大隅徳豊の持った包丁と箸の擦れる音だけが聞こえる、水撫も庖丁を返さず、三度行った。

鯉を切り始める前に真魚箸を五行、包丁を四徳に置き式に置かれた鯉を一度確認して間を入れる、大きく真魚箸包丁を開き鯉の宇名元に刺さると包丁が大きく宙を切って帰って来る、その包丁裏を見せず頭を一気に切った。「よし!」と俺は心の中で叫んだ、鯉の骨までさえ豆腐を切るような庖丁さばき、素晴らしい。

右板、左板を切り分け、仕上げの子守りの鰭を真魚箸包丁で持ち上げた。

「あ!」と俺は心の中で又叫んでしまった、右後ろに座っている俺からでは子守りの鰭をどこに置いたかが見えないのだ。

大隅徳豊は、子守りの鰭を置き悠々と仕舞庖丁に入る。

「しまった!子守りの鰭を何処に置いたか見損なった、せっかくタイムトラベルしたのに残念だ」と頭の中で考えた。

髙橋宗治(俺)は、庖丁師大隅徳豊より先に松の間を出て、控えの間に戻ると、後から大隅も戻ってきた。

来海健三郎が取り込みの儀を行う為三宝を持って松の間へ出ていく、続いて髙橋宗治(俺)は奉納の儀の為、来海健三郎に続き、すぐに松の間に戻った。

取り込みの儀とは今、大隅徳豊が切った鯉を、俎板から三宝に取り込む儀式で有る。

来海健三郎は作法通り俎板の前に座り真魚箸、包丁で鯉に触らず静かに鯉の切り分けられた身を、俎板から三宝に移して行く。

斜め後ろから髙橋宗治(俺)は見守っている。鯉の頭を移す時思わず心の中で叫んだ「そこへ隠したのだ」子守りの鰭は鯉の頭の中に隠されていたのだ。 

来海健三郎は俎板の鯉を全て三宝に乗せ終わると髙橋宗治(俺)の前に三宝を置き、右に三度ゆく回した三宝の正面が髙橋宗治(俺)の方に向いた。

来海健三郎は「御改めの儀お願い致します」と髙橋宗治(俺)に言うと膝行のまま静かに松の間を出て行った。

御改めの儀は、鯉の切り方に間違いが無いか又三宝の盛付に乱れは無いかを確かめる儀式なのである。

髙橋宗治(俺)は三宝の鯉を見ると、「間違いない」とまた心の中で言った。子守りの鰭は、頭の中にが置いてあった。

後奉納の儀を無事終えた俺は、腕に張って有るバックタイムペーパーの停止ボタンを押して現代に戻った。

子守りの鰭の置き場所は、夏子が言った様に秘事だったのだ。

だから、切汰図には描かれていなかったので有る、初めて見た大隅徳豊の庖丁式は、素晴らしかった、そして切汰図には描かれていない子守りの鰭の置き場所が解明出来たので有る。

現代に戻ると夏子がソファーで寝ている。

「夏ちゃん、今帰ったよ。風邪ひくから、ベッドで寝な」夏子は、目をこすりながら「おかえり、早かったね。お風呂入ってね」と、言いながらよたよたとベッドへ行った。

俺は、忘れない様にと先に子守りの鰭の位置を切汰図に書き込んだ。

いつか子供が出来たら、生まれる前に安産祈願の、子守り之鯉を切って、皆に披露しようと心に決めた。

子守りの鰭の秘事を解明した俺は次の日親方に、「子守りの鰭は頭の中に置くのですね」と自信たっぷりに言うと、親方はキョトンとした顔をして「あれ?教えてなかたかな?父親になる人間は、包丁師で包丁式が出来るとは限らん、そして生まれてくる子供も男子か女子か分らないから、子守りの鰭の置き場所は、切った人間が自分で勝手に決めて良い事になっているのだ。

明政が練習の度に子守りの鰭は、何処に置きますか?て聞くから好きな所へ置きなさいて言ったと思うが」親方は、ポンと手を打つと

「あ、それから代理人が執り行っても良いのだ、公治は夏子が懐妊したら子守り之鯉は、私が切りますと言っていただろう」と無邪気な顔をして言っている。

俺は、「そんなー、わざわざバックタイムペーパーで」と言いながら小さくなって指遊びをしていた。


四、包丁試合

進士流の伝書の中に一五二〇年庖丁式試合にて、進士流が他流派を抑え庖丁師の頂点になったとの記述を見つけた。

庖丁試合って何だろう?

次の日、庖丁試合の事を親方(父)に聞いてみた。

「ウム、わしも庖丁試合の事はよく知らんのじゃ。お前の祖父、進士喜政に聞けば何か分かるかもしれんな、電話で聞いてみなさい」と、父は何故かそっけない。

俺は早速岐阜山水亭の喜政じいちゃんに電話をした。

「もしもし、じいちゃん明政です」電話に出た喜政じいちゃんは嬉しそうな声で「お、明政か、どうじゃ、そちらの具合は」と元気に言った。

「うん、おかげさまで皆元気にしているよ、俺と夏子の結婚式来てくれてありがとう。良子ばぁちゃんも喜んでくれて良かった。進士流の文献の中に庖丁試合の記録を見つけたのだけど、詳しい事が知りたくて、電話した」と流行る気持ちを抑えながら言った。

「おー、庖丁試合か。いつのやつだ」

「進士流の文献には、一五二〇年って書かれているから、室町幕府の頃だと思う」

「あ、その時は進士流、進士次郎左衛門が優勝した時だな」年代を言っただけなのに流石喜政じぃちゃんで有る。

「じぃちゃん庖丁試合の事分かるの?」と聞いた。

「もちろんじゃ、一つのまな板で他流派と戦う料理人、庖丁師達の一大イベントじゃ。記録された物だけでも、数十回は開催されておる」と電話の向こうで自慢げに言った。

「包丁で他流派の人達を切っちゃうの?」

「いやいや、魚を切るのだ。他流派の人間を切るわけではない文献や、その時の様子を描いた絵図もわしの所に残っているぞ」と、喜政じぃちゃんは包丁試合に詳しそうで有る。

「じぃちゃん、その絵見に行ってもいい?」と聞くと「あー、かまわんが」

「次の休み、夏子と岐阜に行くよ。その絵是非見てみたい俺、包丁試合の事詳しく知りたい」

「おー女包丁師夏子と来るか、鮎でも食うか?」と、言った。

「うん、ありがとう」俺は、電話を切った。

次の休み俺と夏子は、車で岐阜の山水亭へ向かった。高速を降り、国道から田舎道を進むと、山の中腹に山水亭が見えてきた。

「こんにちは」和風造りの玄関を開けると、昼時とあってお客がいっぱいだ。

「あら、よく来たわね」さっそく良子ばぁちゃんが元気に迎えてくれた。

「遠くからで疲れたでしょう、忠政ったら栃木で商売するって言うから、秋子さんも元気にしている?」

と言いながら、座敷へ案内してくれた。

「じぃちゃんは?」と、俺が聞くと「板場よ、もう少しで落ち着くから、ゆっくりしていてね」と、言うと良子ばぁちゃんは、調理場へ行った。

しばらくすると、喜政じぃちゃんが鮎の塩焼きと蓼酢を持って部屋へ入ってきた。

「明政、夏子良く来たな。元気でおったか?今朝取れた鮎だ、天然だぞ」と、笹の葉に乗せた鮎をすすめてくれた。俺と夏子は

「ありがとう、いただきます」と鮎を頬張った海苔の様な香りが、匂う。

「やっぱり天然は、香りが違いますね」と夏子が言うと、「栃木の鮎もうまいが、やっぱり鮎は岐阜物じゃ、川の水が違う」と喜政じいちゃんは自慢げに言った。

しばらく新婚生活や仕事の会話が続いたが思い出した様に

「明政、そう言えば庖丁試合が、知りたいような事を言っておったな」と俺を見て言った。

俺は食いかけの鮎を皿の上に戻し「うん、父さんに聞いたら、わからないから、じぃちゃんに聞いて見ろと言っていた」と言うと、「忠政がわからないと?そうか、あいつまだ気にしているのか?」

「え、気にしているって?」

「まーよい、庖丁試合の絵図があるから、それを見ながらゆっくり話そう。わしの部屋へ来なさい」と立ち上がった。

夏子に、「じぃちゃんと話があるから、ここでゆっくりしていて」と言い残し、じぃちゃんの部屋へ行った。部屋に入ると壁に大きな絵が飾ってあった、中央に大きなまな板、それを挟んで直垂姿の庖丁師二人が箸と庖丁をもって向かい合っている。まな板の中央には、鯉だろうか魚が腹を下にして置かれている。どこの庭だろう、周りに着物姿の男女大勢が中央のまな板を見ている。

「これが、庖丁試合の絵だ」

「これ、どこで試合した絵なの?」

「清涼殿だ」

「え、鶴庖丁する所、建物の奥にいるのが天皇?」

「そうじゃ」

「これから試合が始まるところだね」

「よくわかるな、その通りじゃ」とじぃちゃんは感心している。

絵を指差し「この包丁と箸を持った二人、五行に箸、四徳に包丁を立てている、板紙がまな板の脇に落ちているから澡分けが終わった所だね」と言った。

じぃちゃんは俺を見て「明政、よう勉強しとるな、そこまで解るのなら庖丁式の稽古はかなり進んでいるようだな」

「魚の切汰図は鯉から始まって鯛、鱸、鮒、蛸、海老、蟹、と習った。鳥は鶏で、鶴、鵠(白鳥)その他に五種類の切汰も習った。鶴の呪文も教わったよ」

「頑張ったなー箸返しは?」

「やったよ。開扇、弓、刃、さやぬき、打ち返しとか、父さん、俺への伝授は終了したって」

「フム、その若さで凄い」

「じぃちゃん、この庖丁試合の事教えて俺、見に行きたい」

「いや、今はもうやっておらん。明治以降は、庖丁試合は廃止された」と寂しそうに言った。

「そうなの、でも俺、バックタイム・・・」

そこまで言って、口をつぐんだ。

「なんじゃ?」とじぃちゃんは不思議な顔をした。

「いや、何でもない、なんで廃止になったの?」

「それを話すと長くなるが、よいか?」

俺は「うん」と頷いた。

「江戸幕府十五代将軍、徳川慶喜は、天皇に国政を返上した事により、天皇は、京都ではなく江戸で政治を行う事となる。京都から見て、江戸は東の方向にあるから、東の都東京と名付けた。

天皇は、江戸城に移るが、その時すでに包丁試合の判定をする審判員で有る御厨子所預の高橋家と小御厨子所預の大隅家の二家は失脚していた」

「え?なんで高橋家、大隅家は失脚たの?」

「十五代将軍、徳川慶喜は、薩摩、長州藩の圧力に負け幕府を返上することを決めるのだが、返上される側の光明天皇がそれを拒否したからだ」

「え、それと高橋家、大隅家の失脚と、どんな関係が?しかも孝明天皇は、幕府を返してくれるのに?いらないって言ったの?」と聞いた。

「そうだ、理由は色々あったみたいだが、孝明天皇は返してもらっても困るというのだ。そこで江戸幕府返上のお膳立てをした、薩摩、長州藩は怒ってしまって、言う事を聞かない光明天皇を何と毒殺してしまう。

その毒殺の方法なのだが、光明天皇は、天然痘を患っていたが、回復して元気になっていた。

十二月二十四日、夕方。小腹が空いたと言うので高橋家が重湯を作ってお出しした。

それを食べた二時間後、苦しみだし九か所の穴から血が噴き出した。

すぐに、典医伊良子が呼ばれたが、すでに手遅れだった。光明天皇は三十六歳で死んだ」「そんな事、教科書にも」

「当たり前だ!宮内庁が毒殺なんて発表出来るか!孝明天皇がお亡くなりになられたのは天然痘によるものと発表された。話を変えて重湯を食べてから苦しみだし、亡くなったのだから、誰が疑われたと思う?」

「ウーン、重湯を作った高橋家?大隅家?」「当然そうなるが、高橋家、大隅家には孝明天皇死後何のおとがめも、なかった。

しかしその後三年弱で高橋家、大隅家は失脚してしまう」

「なんで?毒殺犯人では無いからおとがめもなかったのに結局は失脚したの?」と言うと俺は、首を傾げた。

「両家、が失脚した理由だが、明治天皇は、高橋家、大隅家、の作る食べ物は一切口にしないと宣言した。そうなると、料理を作る高橋家や大隅家はいらなくなってしまったのだ」

「明治天皇は、父の孝明天皇が高橋家の作った重湯を食べて死んだと思っていた?だいたい毒殺自体が本当の話なのかな?」

「真実は、わしにも解らんが、料理庖丁家として、頂点の高橋家が失脚するのだから、それ相当の理由があって当然だ。

何千年もの間、天皇の料理番、天皇流庖丁式そして日本料理の総元締めだった高橋家は大隅家と共に再三直訴するが認められず包丁試合の判定をする審判員の高橋家と大隅家はなくなってしまった、審判員がいなければ包丁試合は出来無い」

「え、じゃあ次の天皇の料理人が包丁試合の審判員をすればいいじゃないの?」

「江戸幕府の料理人薗部流が高橋家、大隅家に代わり天皇の料理番となった。

明治からは、薗部流が料理や儀式を行う事となる。

しかし包丁試合の審判員を薗部流が出来るかと言うと話は別になる。

江戸幕府の料理人だった薗部流は、九条家の料理番をした事もある由緒有る流派だが残念な事に包丁家としての歴史が浅いのだ。

もっと古くから伝統守り続けて来た流派達の戦いで審判員と言う訳にはいかんのだ」と複雑な表情で言った。

「所で江戸幕府徳川家の料理は誰が作るの?」と聞いた。

「ハハハー江戸幕府徳川家はもう無いじゃないか」とじぃちゃんは笑った。

「あ、そうか、江戸幕府が無くなって明治になったのだった、天皇料理番高橋家、大隅家が失脚した時、江戸幕府が無くなり薗部流が江戸幕府から、天皇家料理番になった丁度タイミングがいいというか、皮肉と言うか、何とも解せない話だね」

「話を包丁試合へ戻そう、天皇家料理番高橋家、大隅家の健在中は二年に一度の割合で庖丁試合は行われていたが、明治になると包丁試合は廃止いや行われ無くなった」と、残念そうに言った。

しばらく絵を見つめていたがおもむろに

「実は、昭和に入って太平洋戦争後、包丁試合を再開しようという話が各流派から持ち上がった、戦争で多くの料理人が死に、各流派の人間や庖丁式や料理法が書かれた書物が失われた。

太平洋戦争が終わった事を記念して、各流派の食の戦い、庖丁試合の新人戦を開催しょうと言う事になって、進士流の進士菊政に白羽の矢が立った」

「進士菊政ひいじぃちゃん?」と俺は、聞いた。

「そうだ、明政から見ると、ひいじぃちゃんだ、高橋家、大隅家が失脚してから数十年経った昭和の時代包丁試合をまとめるとなると包丁式を始めた高橋家か進士流しか無かったからな、それから進士菊政の奮闘が始まった、進士菊政はまず全国に散らばる各包丁家や各流派に声を掛けた、すると各流派共挙って参加を表明した、何故なら庖丁試合に優勝すれば、全国にその流派の名が知れ渡る。優勝した流派の板前がいる店や庖丁式の奉納を行う神社、仏閣には多くの人が料理や庖丁式を見に来るからな」とじぃちゃんは嬉しそうに言った。

「成程、商売繁盛となるね」

「そうじゃ、しかも新人戦となると各流派が何人くらいの弟子を持っているか、指導がどのくらい優れているかを見られることにもなる」

「各流派共気合が入いるね。いくつの流派が集まるの?」

「三十はあった。しかし問題は包丁試合勝負判定の審判員の高橋家と大隅家が審判員を受けてくれるか?だ、明治、大正、昭和、と時代が進み八十年も前に失脚した両家だからな、悩んでいる所に包丁式、料理、流派の事が解らない宮内庁の役人達は、現在の天皇料理番薗部流が審判員でなければ、宮内庁、江戸城内での包丁試合の開催を見合わせてほしいと連絡が来た。

輪をかけ、もう一つ問題が発生する、出場者だ」とじぃちゃんは言った。

「出場者?どの流派も出場者はたくさんいたのでしょう?」

「そこで、お前の父、忠政が絡んでくる」と言うと、一本の巻物を取り出した。

「え、父さんが何かやらかしたの?」と俺が言うと、取り出した巻物を開きながら、

「やらかしたわけではない。これが、当時の対戦表だ」とじぃちゃんは、昭和に行われ様とした包丁試合の対戦表を俺に見せた。


 庖丁試合対戦表 昭和二十一年


進士流 山本 仁 対 四條流 進士忠政

薗流  薗 基蔵 対 薗部流 中村二郎

磯流  磯 順一 対 式田流 式田勝正

畠山流 田中京士郎対 上杉流 長野純平

大草流 大草公治 対 五十間 五十間兼行

北条流 西山佐輔 対 大友流 大友志堂

名古流 篠塚時宗 対 今川流 広瀬充寿

村上流 村上忠重 対 中里二刃流中里尊成

三ツ吉流平田元二 対 吉岡流 吉岡宗一

下野流 福島平次 対 朝倉流 小池吉家

川原流 川原壮二郎対 木の下流 内山清隆

大内流 本田虎正 対 小田流  秋山平蔵

浅井流 浅井源新 対 田邊流  田邊 孟

薩摩二刃 辻隼作 対 河内一刃流永井左右

菊田流 沢田克重 対 星里流 吉川 教能

堂上流 関  巽 対 東 流 久保徳之介

滋野井流 川上拓 対 藪 流  大森永臣

入江流 松下景秀 対 小倉流 石原甲太郎

西四辻流松浦隆元 対 示現流 毛塚雲水

「これを見ると、何か気が付くことはないか?」

「ウムー」俺は、対戦表をじっと見た。

「あ、二刃流がある。箸を使わないで、包丁二本って事?」

「そうかそこに目が行ったか!庖丁試合では、箸を持たなく両手に包丁で良い」とじぃちゃんが言うと、俺は、「え、それでは、不利じゃないの?魚をつかめないし」と言った。

「いやいや、そうでもない。それより、他に何か気づかないか?」と、言うじぃちゃんの目線を追うと不思議な部分に気が付いた。

「あれ、父さん進士流じゃなくて四條流で出場する事になっている?」

「それだ、この庖丁試合が出来なくなった理由だ」と言った。

「え、じゃやっぱり。父さんが何かやらかしたのだ」と俺は言った。

「いやそうではない。当時、忠政は若くしてすでに、四條流の師範代を務めるくらいの庖丁式の使い手になっていた。四條隆正家元も忠政を大変信頼し、いずれ四條流家元となる息子の隆吉の指導までまかせていた。

庖丁試合は、使い手の忠政が出場する事と、四條流の全員が思っていた。

しかし、多流派からクレームが出た。

進士忠政は進士流の継承者である。進士流からの出場は良いが、四條流からの出場はおかしい」

「なるほど確かに、進士流の人間が四條流から出るなら、他流も庖丁の使い手をどこからか引っ張ってくればいい、それでは格式を重んじる他の流派も納得がいか無いのは当然だ」

「進士流の方は父さんが四條流から出ても良かったの?」と聞いた。

「それも進士流の中では問題となった、当時進士流は三十歳前の多くの若手がいたが、忠政が四條流から出ても良いと言う者とゆくゆくは進士流の後継者となる者が四條流から出場するのは駄目だと言う者と意見が別れた。数日後当の進士忠政が庖丁試合を辞退すると言い出した。

本人の考えでは、いずれ進士流の継承者となる自分が、四條流として出場してしまったら勝負にかかわらず、四條流と言う名前に傷が付くそして進士流にも汚点を残しかねないと忠政の考えを聞いた四條隆正家元は他流派のクレームも最も、忠政の言う事も最も。

しかし、息子の四條隆吉ではまだ試合は無理。結果四條隆正は庖丁試合の辞退を決めた。

四條流の包丁試合辞退は、各流派と包丁試合関係者に衝撃と混乱を与えた。今までの庖丁試合で四條流が出場しなかった事など無い、しかもそれを聞いた五十間流、大草流、薩摩二刃流、東流が出場辞退を申し出てきた」じぃちゃんは強い口調で言った。

「どうなったの?」

「結局、進士菊政は庖丁試合中止を決めた。責任を感じた忠政は、嫁の秋子と共に京都美水苑をやめた。

良子も、わしも岐阜、山水亭に戻ってこいと言ったが、忠政はそれでは、四條流の四條隆正家元に申し訳ないと、日本料理の神様、高橋神社のある栃木で店を始める事とした」

「そうか、父母が京都から栃木に来た理由がわかったよ。そして、俺に、庖丁試合の事をよくわからないといった理由もね」と俺は言った。

「子供の時から、忠政は責任感の強い子供だった」と思い出す様に言った。

後突然「あ、そうじゃ、その栃木の高橋神社の主神高橋朝臣の能面が、わしの所にあるのじゃ、明政にあげようと思っていた」と又箪笥方へ歩いて行くと箪笥の引出しから木箱を持ってきて開けた。

包んである袱紗を丁寧に取り「これが、高橋朝臣じゃ」と言った。

能面の顔は、優しく、まるで女性の様である

これがあの磐鹿六雁の子孫の高橋朝臣なのだと思ったら胸が熱くなった。

「ありがとう、じぃちゃん大事にするね」と言った。

夕方、俺と夏子は早い夕食を山水亭でご馳走になり栃木に向かった。

帰りの車の中で俺は、昭和の庖丁試合は中止となったが、タイムトラベルして過去の庖丁試合を見に行こうと思っていた。

「忠政は、誰よりも庖丁試合の事は詳しいぞ」そう言ったじぃちゃんの顔は嬉しそうだった。

翌日桃山亭に帰った俺は、「親方、これ」と父に能面を見せた。

それを見た父は、懐かしそうな顔をした。

「じぃちゃんがお前に?わしが子供の頃この能面は、床の間にあった、毎日手を合わせ拝んだものだ。

高橋朝臣は、日本料理の神様でもあり庖丁式の守り神でもある。

じいちゃんが、これをお前にくれたという事は、お前は進士流式庖丁の後継者として認められたという事だ、甘えず、まだまだ精進しなさい」と父は嬉しそうに又厳しく言った。

「はい、親方これからもよろしくお願いします」と俺は言った。

父、忠政はパンパンと二度柏手を打ち、能面に拝礼した。

「親方、庖丁試合の事、じいちゃんから聞いたよ栃木に来た理由もね」俺も能面に向かってパンパンと柏手を打ち拝礼した。

「庖丁試合の事、わからん、なんて言って悪かった。

わしも大人げなく思い出したくなかったのだ、しかしこの能面を見たら何だか吹っ切れた。

何でも聞け、庖丁試合については、わしより詳しいものはおらん」

父の無邪気な一面を見て少し嬉しくなった、早速じいちゃんからもらった、庖丁試合の絵図と対戦表を父の前に並べて見せた。

「この包丁試合の対戦表は室町時代永正十七年(一五二〇)の清涼殿で行われた包丁試合の物だ。

この時の優勝者は、進士流の進士次郎左衛門だ」と言った。


庖丁試合対戦表 

     永正十七年辰 柏原天皇杯

第一戦

     本手       逆手     

一試合  五十間流 対   薩摩二刃流  

二試合  今川流  対   浅井流    

三試合  大内流  対   星黒流    

四試合  四條流  対   上杉流      

五試合  武田流  対   大草流    

六試合  進士流  対   堂上流    

七試合  薗 流  対   小田流    

八試合  北条流  対   吉岡流    

九試合  下野流  対   朝倉流    

十試合  川原流  対   藪 流    

十一試合 滋野井流 対   河内一刃流  

十二試合 田邊流  対   東 流    

十三試合 小倉流  対   西田辻流  

十四試合 大友流  対   中里二刃流 

十五試合 三ツ吉流 対   畠山    

十六試合 山陰流  対   式蔵二刃


「絵図に描かれているのは、清涼殿の庭に作られた、舞台だ。中央のまな板は長さ、四寸五分、広さ、三寸二分、厚さ、六分、全体の高さ一寸一分と通常より大きい。足は八足と言って八本ある。まな板の右脇に、高橋審判員、左脇に、大隅家審判員が座る。

庖丁師が向き合い一尾の鯉を三刀に卸す。先に卸した方が勝ちだ」と父は静かに説明した。

俺は、「え、三刀の鯉」と一言言ったが口をつぐんだ三刀の鯉の形は包丁式の切汰では簡単な型なので有る。

「澡分けまでの水撫では、各流派共に自流で行う。相撲で言う立合い前の仕切りみたいなものだ。澡分けが終わると、両者共、五行に箸、四徳に庖丁を立てる。本手側の箸か庖丁の切先(松葉先)がまな板についた瞬間に、試合が始まる。鯉は一尾で腹を下に向けておいてある。庖丁師が、まな板に向き合ったとき鯉の頭が左なら本手、右なら逆手となる。明政は、どちらでもできるだろう」と俺に聞いた。

「うん、本手、逆手共練習したからできるよ。両者とも、箸、庖丁の切先を付けた時が試合の始まりの合図なの?」

「そうだ、相撲で言うと懸りが仕切りで、水撫終りが時間いっぱい。審判員高橋、大隅、が杓形した庖丁のさやを抜くと軍配が返ったと同じ事になる。両者手をついてが、本手側箸と包丁がまな板についたときの事を言うのだ。相撲の立合いも、この庖丁試合の作法から来ていると考える人も多い。試合が始まると、三刀の鯉の形に先に仕上げた方が勝ちとなり、仕舞の水撫をできるのは、勝者だけとなる」

「一尾の鯉を三刀の形に先に仕上げた方が勝ちなの?」

「そうだ、明政は三刀の鯉の型に仕上げる何て簡単だと思っただろう?しかしそうでもない大変なのだ、何故なら自分が三刀に仕上げ様とすると相手側は、箸、包丁で仕上げられない様に邪魔をして来る、そして相手側も三刀に仕上げ様とするから自分の箸、庖丁で相手側の邪魔をする。どちらも一尾の鯉で邪魔をしながら三刀の鯉に仕上げなければならない大変な試合だ」と父は真剣に言った。

「まさに、包丁の戦い庖丁試合だね、相手を間違って切っちゃったりしないかな?」と聞いた。

「その場合は、傷つけてしまった方は、負けになる。審判員が杓形の庖丁を両者の間に差し入れ中止させるのだ。相手を傷つけず、相手の邪魔をしながら、自分は、魚を切る。

まさに、その三つの技の優れた者が勝つ。稽古を積んでも、他流派を押さえ優勝するには、大変な事だ」と父は思い出す様に言った。

「父さんも、この庖丁試合の稽古は、かなりやったの?」

「庖丁試合の稽古は、庖丁式の稽古とは別物だ。戦いなのだから、包丁式は出来ても包丁試合の練習は相手がいないと稽古にならない。流派内の試合稽古はもちろん、他流派との練習試合は相当やった。出稽古で、相手流派の技も見られるただ自流派の技を見せたり、教えたりはしない本番で使っても、ばれていては効果がないからな」と言った。

俺は、部屋に帰り夏子に、親方から聞いた話をすると夏子は、しばらく黙って聞いていた。

「公治父から聞いた事があるわ、時間さえあれば忠政さん、孝行さんと庖丁試合の練習をしたって。そして父も孝行さんも切傷が絶えなくって四條流の家元に怒られたって。今になれば笑い話だけど、危ないらしいよ、まさか明政さん・・」と俺の顔を下から覗き込んだ。

俺は慌てて「いやいや相手もいないし、バックタイムペーパー使って見て来ようと思っただけだよ」と言った。

「良かった、見てくるだけなら安心ね、桃山亭の加藤さんとか谷口さん相手に試合なんかしないでよ」と夏子は安心した様な顔をした。「所で包丁試合見に行くのなら誰に乗り移るつもりなの?」と夏子は心配そうに聞いてきた。

俺は「うん、進士流明智光秀の上の弟、進士次郎左衛門が包丁試合で優勝する、下の弟に庄左衛門というのがいるから、彼に乗り移ろうと思う年は十六才だ。

進士晴舎(父)

進士藤延(明智光秀)

進士次郎左衛門(光秀の上の弟)

進士庄左衛門(光秀の下の弟)と、一族全員が、進士流で足利将軍家内の料理番だ」と調べて置いた事を話した。

「良く調べているわね、進士藤延(明智光秀)に弟が二人もいたの?」夏子は感心した様子で言った。

「俺のご先祖様だからね、ちゃんと調べてある、じゃ行ってくるね」と俺は、バックタイムペーパーをセットして、スタートボタンを押した。

「ワーワー」「頑張れー」「負けるなよー」

清流殿の庭は、観客であふれていた。

建物の中央に、天皇の姿がある。脇には、護衛の者だろうか、数名の刀を持った者がいる。今まさに、五十間流と、薩摩二刃流の庖丁試合が始まろうとしている。

俺は、永正十七年(一五二〇)四月三日進士庄左衛門(十六歳)に乗り移り、清流殿にいる。この包丁試合で進士庄左衛門の兄進士次郎左衛門が出場し優勝したのだ。

包丁試合は、二日に渡り行われる一日目は十六試合三十二流派が出場する。

第一戦一試合の懸りが始まった、流れるような、女性的な五十間流の水撫に対し、薩摩二刃流の水撫はゴツゴツとして男らしい。

まな板両脇には、高橋家、大隅家が審判員として座っている。そして、両審判員の杓形の包丁のさやが抜かれた、時間いっぱいである。

庖丁試合対戦表 

     永正十七年辰年  柏原天皇杯

第一戦

     本手       逆手     

一試合  五十間流 対   薩摩二刃流  

二試合  今川流  対   浅井流    

三試合  大内流  対   星黒流    

四試合  四條流  対   上杉流      

五試合  武田流  対   大草流    

六試合  進士流  対   堂上流    

七試合  薗 流  対   小田流    

八試合  北条流  対   吉岡流    

九試合  下野流  対   朝倉流    

十試合  川原流  対   藪 流    

十一試合 滋野井流 対   河内一刃流  

十二試合 田邊流  対   東 流    

十三試合 小倉流  対   西田辻流  

十四試合 大友流  対   中里二刃流 

十五試合 三ツ吉流 対   畠山    

十六試合 山陰流  対   式蔵二刃


逆手側、薩摩二刃流の切先は、俎板に付いている。本手、五十間流の包丁は、ゆっくりと空中を四徳に進み、切先がまな板に付いた瞬間に試合が始まった。

カチーン

五十間流の箸が鯉の頭を押さえようとする、薩摩二刃流の包丁がそれを遮った。五十間流の包丁が下から突き上げる。

突包丁と包丁のぶつかり合いである。

薩摩二刃流は、左の包丁を盾のように使って、五十間流の箸、包丁を鯉に近づけないようにして、右の包丁一本で鯉を切り始め簡単に、左板をおろした。

右の包丁で、鯉を返し、右板をおろそうとした瞬間、五十間流の箸が動き、薩摩二刃流の右手の包丁を箸で挟みこみ飛ばした。

薩摩二刃流は、右の包丁が無くなってしまった。五十間流は、箸、包丁を交互に使い、薩摩二刃流の左の包丁を防御しながら三刃の鯉を仕上げた。

「そこまで」大隅が言った。

「ワー」と場内から歓声と拍手が沸いた薩摩二刃流は、一本だけ残った包丁をまな板の下へ入れ、後へ下がった。試合終了である。

五十間流は、ゆっくりと仕舞の水撫の儀に入る。「勝者、五十間流」と、審判員の大隅が包丁の表を五十間流に向けた。

まな板の上が、片づけられ二試合目が始まる。

本手、浅井流、逆手、今川流である。

懸りが始まると浅井流の水撫は、丸く、包丁、箸を動かす独特な水撫。

一方、今川流は日本舞踊のような派手な水撫で有る。

本手、浅井流の包丁が五行に付き、試合が始まった。

箸、包丁がカチンカチンと音を立て、どちらも鯉に触れる事が出来ない、浅井流が、包丁で鯉を押さえると、今川流の包丁が、浅井流の包丁を跳ね上げ、今川流の包丁と浅井流の箸が空中でぶつかる。

次の瞬間、浅井流の箸が、開扇し今川流の包丁を持つ手の上に降りた。箸の先は、まな板に刺さり、今川流は包丁を持った手ごと浅井流の箸に押さえられ、動きを止められた。

今川流は、これを外そうとするが、浅井流の箸先はまな板にしっかり食い込み、今川流は包丁を動かすことが出来ない。

浅井流の包丁を箸で防御が浅井流は、包丁一本で鯉を三枚に卸し、頭骨を包丁ですっと立て、三刃の鯉を仕上げた。

「そこまで」と審判員大隅の声が飛んだ。

浅井流は、箸先をまな板から抜き、今川流の上にある手をどけた。

今川流は、箸、包丁をまな板の下へ置き、後ろへ下がった。

丸く円を描く浅井流仕舞の儀は美しい。

三試合目は、星黒流と大内流の中国、四国の戦いとなったが、四国の大内流が勝利した。

そして、注目の四試合目が始まった。

本手の四條流対逆手は越後の上杉流だ。

上杉流は、上杉謙信の家来村上義清の開発した戦闘伝達を中心とした包丁式を行う流派で有る。包丁試合に、どんな技を繰り出すか期待が高まる。両流派の懸り、水撫が終りいよいよ立合いだ。

本手、四條流の包丁は、間を置かず切先がまな板に付いた。速攻である。

あっという間に四條流の箸が、鯉の頭を押さえた。

上杉流は、押さえられた頭を取り返そうと、包丁で四條流の箸を叩くが、箸は頭を突き抜け、しっかりとまな板に刺さっている。即座に、左板を卸しにかかる。上杉流は、それを阻止しようとするが、四條流独特の剣形の包丁に阻まれ、上手くいかない。

上杉流は、四條流の箸に対し、包丁と箸を集中し、まな板まで刺さった四條流の箸を抜くことに成功。

今度は、上杉流の反撃が始まる。

四條の包丁を箸にて空中に持ち上げ、まな板まで下ろさせない技くるま箸だ、箸を下から上へくるくるまわす技である。四條流の包丁は、空中で止められている。

上杉流は箸を、空中で回しながら、右手の包丁で鯉の右板をおろした頭骨を立てれば上杉流の勝ちだ。

誰もが上杉流の勝と思った瞬間、四條流は身を後ろに逸らせ包丁で、くるま箸を逃れた。と、同時に鶴羽に構えたと思うと電光石火の如く、鯉の頭骨を一瞬で立て、三刃の鯉を仕上げてしまった。

不意を突かれた上杉流は、体制を崩し前につんのめる様に俎板の上に倒れこんでしまった。

「そこまで!」と審判員大隅の声と共に、審判員高橋が包丁を四條流の前へ差し出した。

「ワー」観客が一斉に声を出した。

清流殿では、天皇が立ち上がりそれを付き人が止めている。

天皇も包丁試合に興奮しているのだ。

上杉流のくるま箸の技、そして四條流の引き技からの鶴翼の構えの速さ見ている庄左衛門(俺)も、興奮が止まらない。

その時、後から聞いた事がる声が聞こえた。

「四條流危なかったな!上杉流の秘法、車箸の技は恐ろしい、四條流も勝ったとは言え次は無いぞ」と言っている、振り向くとそこには兄の明智光秀がどこかで見た事の有る男の人と立っていた、振り向いた進士庄左衛門(俺)に光秀(兄)が気付いた。

「庄左衛門来ていたのか!」光秀が言った。

「はい、藤兄(光秀)、父(晴舎)に勉強になるから見にいけと言われまして参りました」と庄左衛門(俺)はお辞儀をした。

「そうか、最初から見られたのか?」と光秀が言うと、少しこちらに寄った。

「はい本日の一試合から見ました」と俺が答えると光秀は優しく微笑んだ、しかし隣のどこかで見た事の有る男は、じっと会場を見て俺を見ない。光秀は、「我々は野暮用があって先程来た所だ」と小さい声で言った。その時ハット隣の男が誰か思い出した。慌てて「あ、失礼いたしました」と声を上げその場に座り礼をしょうとした、すると光秀が素早く俺の腕をつかみとめた。「内密じゃ余計な事するな」と俺の耳元で小さな声で言った。

「しかし失礼では?」と俺が言うと光秀は

「良いのじゃ周りに知られては困る」と言った。俺は「はい解りました」と言って緊張しながら会場の方へ向きを変えた。何と光秀と一緒にいた男は織田信長で有った。

室町幕府足利将軍家の後見人として足利家を助け京都を中心とした畿内に逆らう者は無い。これから戦となるかもしれない各地大名達の料理人や包丁流派の偵察に来たのだろうか?敵の内事を見られる絶好の期会でもあるのだ。包丁試合などのささいな事までも自分の目、耳で確認するその姿は、天下人にふさわしい。俺の行動にも動揺せず腕を組み会場を見ている。

すると今度は、違う方向から声がした。

「武田流の、素刃庖丁の技がすごいらしいぞ」と大声で言っている。

「なんじゃそれ」ともう一人が返すと、最初の男が自慢げに、「聞いただけで、見た事ねーから、おらも分かんねーけど、箸で相手の包丁を邪魔しながら、自分の包丁で相手の視界を遮るのだって」と大声で言った。

「なんだって、視界を遮られちまったら、さすがの兄貴も駄目だな」ともう一人も大声で応えている、二人の観客は、わざと大声で喋って目立ちたいのだろう。だっぺ、などの言葉なまりから擦ると、地方から庖丁試合を見に来たようだ、しかし一面包丁試合にも詳しい様にも思える、どこかで聞いた様な声だと思った時一人がこっちらを向いた。

目が合った瞬間向こうも俺も驚いた。

「あれー、庄左衛門でねーか、おめ、居ねーと思ったら先に来てたんか」と一人が言ったそれは、進士流の庄左衛門(俺)と同じ足利将軍家内料理役大草流の先輩板前、坂本与助と片山矢助であった。

大草流の与助と矢助の兄弟子の大草建史郎が五試合に出場するのである。そして進士流家元進士晴舎の息子進士次郎左衛門が六試合に出場する、つまり足利将軍家内の大草流と進士流の包丁師達、二流派がこの包丁試合に出場するのである。

進士庄左衛門(俺)は与助と矢助に頭を下げて言った。「すいません、父が見て勉強しろと言うものんで、先に参りました」父は、進士流家元進士晴舎である。

「おめえの、兄さんの試合は?」と矢助が聞いた。

「はい、六試合目なのでまだです」と答えた。

進士庄左衛門(俺)の兄、進士次郎左衛門が六試合に出場するのである。

「おい喋っている場合でねえぞ、建史郎兄貴の出番だ」と与助が会場を指した。

「ウオー、五試合が始まる大草流負けんなよ」と与助が大声で叫んだ。

本手、武田流、逆手、大草流で試合が始まった。両者、懸り、水撫が終わり、審判員高橋、大隅の杓形包丁のさやが抜かれた。時間いっぱいである。逆手、大草流の箸、包丁は、既にまな板に付けている。本手、武田流の箸、包丁が俎板に付いた。

大草流は、下から、箸、包丁を突き上げ、上段雁行にかまえた。

武田流は、ちらっと、大草流のかまえを見たが、すぐに鯉に箸を伸ばし、素早く、右板、左板をおろしてしまった。

しかし、大草流は、雁行にかまえたまま動かない。

武田流が鯉の頭骨を立てれば、武田流の勝ちだ。と、思った瞬間大草流は、上段雁行より、包丁に降りたかと思うと、鳥かんに決めた。武田流の、包丁、箸は、大草流の箸、包丁に挟まれ、動けない。

この状態がしばらく続き、場内が騒がしくなった。

「何やっているのだ。はやくしろ!」会場から批判の声が飛ぶ。「大草流の負けだ」と観客の一人が叫んだ。

しかし、高橋、大隅の審判員は動かず、じっと両者を見ている。

「なあ、与助これって、建史郎兄貴の作戦だよな」と矢助は不安そうに言った。

「ああ、大草流の鳥かんの恐ろしさが今にわかる、長ければ長い程いいぞ」と与助は会場を見つめながら言った。

俺は乗り移っている進士庄左衛門の記憶を確認した。

大草流と進士流の板前達は、板場で包丁式の稽古と包丁試合の稽古をよくしていた。その時見た大草流鳥かんの技は、自分の箸と包丁で相手の手を締め付け痺れさせるもので有る鳥かんの技は長ければ長い程効き目が出るのである。

しばらくして大草流は、鳥かんをはずし、箸、包丁を突き上げた。

武田流の箸、包丁は、自由になり、いよいよ三刃の鯉に仕上げに入ろうと箸が、鯉の頭骨をつかもうとした時、大草流の包丁が間に入り、武田流は、三刃の鯉に仕上げる事が出来ない。

この試合中、大草流は一度も鯉に触れていない。

武田流は、作戦を変え、素刃庖丁の技を出す。

大草流の目の前に包丁を出し、視界を遮る作戦だ。

大草流は、箸、包丁で目の前の包丁を払おうとするも、武田流の包丁はくるりと回り、また大草流の目の前に戻り、視界を遮る。

大草流はまた箸、包丁で払う、それが五回、六回と続くと、武田流の素刃包丁の力が弱まった。

武田流は、大草流の鳥かんで抑え込まれた技で、手がしびれてきたのだ。

八度目の素刃庖丁の時、武田流は力尽き、包丁を落としてしまった。

その時を待っていたかのように、大草流は鯉の頭骨を立て、三刃に仕上げた。

「そこまで!」と審判員大隅が言った。

武田流を見ると、包丁、箸とも手に持っていない。両手はだらりと下へ下がったままだ。

「勝者、大草流」と審判員高橋の杓形の包丁の表が大草流に向けられた。「ワーワー」と会場は盛り上がったその歓声の中大草流は、静かに仕舞の水撫に入った。

天に、包丁を突き上げる大草流仕舞の儀は、勝者の威厳を表していた。

「やったなぁ」と与助はほっとした様に言った。「ほだな、でも鳥かんの技あんなふうに効いてくるとはとは、おら、おったまげた」と矢助が言うと、「ほんとだ、練習試合の時でも見た事ねーだ」と与助が言った。

「おめえー、練習試合の時、あの効き目を見せちまったら、だめだっぺ」と矢助が自慢げに言うと「そだな」と与助が言った。

場内が少し騒がしくなった。俎板の上が片付けられて六試合が始まるのだ。

本手、進士流、逆手、堂上流、名が呼ばれた。

「矢助よ、あの堂上流って料理家じゃねえらしいど」と与助が言うと

「え、なんで出てきたんだ。」と矢助が返した。

「居合だってよ。庖丁試合より刀、真剣での人切り試合が本業だって堂上流にとっちゃー庖丁試合なんて、子供の遊びらしいぞ」と与助が言った。

「バカにしやがって!次郎左衛門、負けんなよー」矢助が大声で叫んだ。

大草流の与助と矢助だが、今度は同じ足利将軍家内板場の進士流の応援に入った。

六試合目は本手、進士流、逆手、堂上流、両者が俎板の前に座った。

懸りが始まる。

進士流の水が流れるような水撫に対して、堂上流は、座ったまま動かない。包丁と箸、俎板の五行と四徳に据えたままだ。

その包丁を見ると、柄の所に鍔が付いている、長さも二尺はあろうか、箸を見ると箸の持つ柄にかえりが付いている、しかも丸ではなく四角の箸だ。二本の箸の中に指が入っていない、ただ握っているだけだ。

進士流の水撫が終り、審判員高橋、大隅の杓形包丁のさやが抜かれた。時間いっぱいである。

逆手の堂上流の包丁、箸はすでにまな板に付いているので進士流の包丁、箸が付けば試合が始まる。

進士流は、ゆっくりと、箸、包丁を動かし瞬時にまな板に付いた。

試合が始まった。

進士流は、包丁で鯉の頭を押さえて箸を鯉の頭に刺した。堂上流は、何をしている?

見ると、鍔付きの包丁を、箸の上へ持って行き、構えている。堂上新陰流の構えである。

進士流の箸が鯉の頭を刺して包丁で鯉の右板をおろそうとした時、堂上流の包丁は、箸の上をすべる様に横一文字に動いた。危ないと思う間もなくすごいスピードで、進士流の箸と包丁に当たった。カチーンと大きな音がした。

進士流は、包丁と箸を持ったまま、後ろへひっくり返ってしまった。箸には、鯉が刺さったままである。堂上流は、箸を左わきに抱え、右手は包丁を大きく開き静止している。

まさに、居合だ。

進士流は、後ろにひっくり返った体を起こし、まな板の前へ戻った。

箸には、鯉が刺さったままである。審判員高橋、大隅とも動かない。

どうやら、進士流に、怪我は無いようである。堂上流は、箸の上に包丁を戻し、また堂上新陰流の構えに戻った。

進士流は、箸に刺さったままの鯉をまな板に戻し、鯉の右板をおろそうとした。

その時又堂上流の包丁が動いた。居合いの様に横一文字に包丁が動き、進士流の箸と包丁に又当たった。カチーンとまた大きな音がした進士流は、又箸が鯉に刺さったまま後ろにひっくり返ってしまった。「ウオー」と会場から観客の叫び声が響いた。

「殺す気かよ!」と会場から観客の声がするがその声を気にするでもなく堂上流は、また包丁を箸の上に戻し、堂上新陰流の構えに戻っている。どうやら、堂上流は、鯉を三刃に仕上げる気はない。ただ、邪魔をするだけのように見える。

進士流は、またひっくり返った体を起こし、まな板の前へ戻りながら、空中で箸に刺さった鯉の右板、左板をおろして、包丁の投げ技で、右板、左板をまな板上へ投げた。鯉の頭骨は、箸に刺さったままである。

「あいやー今の見たか、箸に鯉刺したまま空中で三枚に卸しちまった!」与助は矢助を見て言った。

「おー見た、見た、すげえなー次郎左衛門の野郎、大草流との包丁試合の稽古であんな技見せた事ねー」今度は矢助が与助の方を見て言った。

「あー稽古で見せちまったら、だめだっぺ」と与助が自慢げに言うと、

「そりゃあ、そうだ」と矢助が納得している。

「貴方達は、随分お詳しようですが、板前の方ですか?」と与助と矢助の会話を聞いた隣のおばさんが二人に声をかけた。とっさに与助は、「あ!」ばれてしまったと言う様な顔を作り、頭をかきながら、「いやー気が付きましたか、我々は、天下の足利将軍家内の料理役大草流の者でして、本当なら私が出場して優勝をかっさらうはずだったごわすが、今回は見送ったと言う訳でごわす。な!矢助」と与助は意味の分からない事を言うと矢助に目配せをした。すると「えー、そんな、いやその通りでごわす」と矢助は意味が分からないが九州弁でなんとか話を合わせた。

脇にいた俺は、笑いを押さえるのが大変で有る。

馬鹿には付きあってられないと会場を見ると、俎板を挟んで両者共に先ほどから動いていない、鯉の頭骨を立てれば進士流の勝ちだが。

堂上流は、構えたまま動かない。進士流も、うかつには、まな板の上に鯉の頭骨を立てられない。さぁ、どうする、と思ったとき、進士流は、鯉の頭骨をまな板の中央へ置こうとした。

無理だ、また来るぞ、と思った瞬間案の定堂上流の居合い包丁がさく裂した。その瞬間、進士流は後へ飛んだ。

堂上流の包丁は、横一文字に空を切った。次の瞬間、今度は前へ飛び、まな板の上に鯉の頭骨を立て、三刀の鯉を仕上げた。

会場の観客達は一瞬何があったのか、わからない。

「そこまで!」と審判員大隅が言った。

堂上流は、包丁を開いたまま、恐る恐る後ろを振り返り、まな板を見ると、綺麗に三刀の鯉が仕上がっていた。

「ワーワー」「すげーぞ」場内は、大喝采に包まれた。

「勝者、進士流」と審判員高橋が、声高々に言った。

堂上流は、気分を害したのか進士流の仕舞の水撫を見ずに、早々と会場を後にした。

俺は、「やったー」と進士流が優勝すると結果が解かっていても思わず声を出してしまった。

第七試合目は、薗流と、小田流の対戦となったが、薗流が勝者となる。次々と試合が行われて行く。

七試 合薗 流 対 小田流 勝者薗 流

八試 合北条流 対 吉岡流 勝者吉岡流

九試 合下野流 対 朝倉流 勝者朝倉流

十試 合川原流 対 藪 流 勝者 藪流

十一試合滋野井流対河内一刃流勝者滋野井流

十二試合田邊流 対 東流  勝者東流

十三試合小倉流 対 西田辻流勝者小倉流

十四試合大友流対中里二刃流勝者中里二刃流

十五試合三ツ吉流対畠山流 勝者畠山流

となった。

酉の刻(午後六時)周りは少し薄暗くなってきた。最終戦、十六試合

逆手、式蔵二刃流の大小の包丁は、天を下る龍のような懸りで水撫を終え、二本の庖丁はまな板に静かに置かれている。

本手、山陰流の箸包丁、両方がまな板に付けば、試合が始まるが、山陰流の箸と包丁の切先は、なかなかまな板につかない。式蔵二刃流をじらす作戦なのか?山陰流の箸、包丁は交わったまま動かない次の瞬間シュ!と音と共に式蔵二刃流の目の前から消え、一瞬にして箸、包丁は、まな板に付き試合が始まった。山陰流は、鯉の頭に箸を刺した。

式蔵二刃流は、下り龍に構え動かない。

山陰流は、燕返しの技で鯉の右板、左板を一瞬にして卸してしまった。

頭骨を立てれば山陰流の勝ちだ。

その時、式蔵二刃流の包丁が「えい!」と大声の気合と共に動いた。

右の包丁は、上段より、左の包丁は、中段より、連ぞくして山陰流の箸、包丁に襲い掛かり、山陰流は頭骨を立てるどころか、身体はまな板より後へおされ攻撃を受けるのが精一杯だ。

式蔵二刃流の連続して振り下ろされる包丁で防戦一方となった。

武蔵二刃流の連続して何度も、振り下ろされる包丁で、山陰流の箸は、曲がり、包丁は折れてしまいそうである。

式蔵二刃流は、凄い力でこれでもかと、何度も包丁を振り下ろす。バキンと鈍い音がし、ついに山陰流の包丁は折れてしまった。

仕方なく山陰流は、箸と折れて短くなった包丁で、式蔵二刃流が振り下ろした左の包丁だけを挟んで止めた。

しかし武蔵二刃流には右の包丁が有る、頭の上で一瞬止まったかの様に見えた右の包丁が、上段より振り下ろされた。「危ない!」と思う間もなく武蔵二刃流の右の包丁は、山陰流の箸と折れた包丁をかすめ、山陰流の垂直の左腕に当たった。

「ワーそれはねーだろ」と会場の誰かが叫んだ。

両者共、動きが止まった。会場は静まり返った。「そこまで!」と審判員高橋が包丁を両者の間に杓型の包丁を差し入れ、試合を止めた。

審判員大隅は包丁を置き立ち上がり、両者を押さえた。

場内は、騒然となった。包丁だから腕で止まったが、刀だったら腕を切り落としていただろう。俺は背筋に悪寒が走った。

山陰流は動かない、しかし式蔵二刃流の包丁は、山陰流の左腕に食い込んでいる。

審判員大隅が、二人を静かに引き離した。

山陰流は、緊急医務員三名に抱えられ、会場を後にした。

相手を傷つけた式蔵二刃流は、負けとなり、「勝者、山陰流」と、審判員大隅が言ったが、どちらの流派共、会場には居なかった。

第一戦、結果は、

     本手    逆手    勝者   

一試合 五十間 対 薩摩二刃流 五十間流  

二試合 今川流 対 浅井流   浅井流    

三試合 大内流 対 星黒流   大内流    

四試合 四條流 対 上杉流   四條流      

五試合 武田流 対 大草流   大草流    

六試合 進士流 対 堂上流   進士流    

七試合 薗 流 対 小田流   薗 流    

八試合 北条流 対 吉岡流   吉岡流    

九試合 下野流 対 朝倉流   下野流    

十試合 川原流 対 藪 流   藪 流    

十一試合滋野井流対 河内一刃流 滋野井流  

十二試合田邊流 対 東 流   東流    

十三試合小倉流 対 西田辻流  小倉流  

十四試合大友流 対 中里二刃流中里二刃流 

十五試合三ツ吉流対 畠山流   畠山流    

十六試合山陰流 対 式蔵二刃  山陰流

一試合から激戦となった一日が終わった。

今日の勝者が明日の試合に出るのである。

興奮して試合を見ていた俺はふと我に帰ると

信長や藤兄(光秀)の姿はなかった。あんなに騒いでいた与助矢助も先に帰ったようだ。

俺は、進士庄左衛門の腕をめくりバックタイムペーパーの停止ボタンを押して現代へ帰った。

現代に帰って気が付くとベッドで横になっていた、部屋の明かりが消えている。起き上がって台所の方を見ると電気が付いて、夏ちゃんが何かを作っている。いい匂いだ。

「只今!」と俺はベッドから起き上がり夏子に声を掛けた。

「あら、お帰り早かったわね、いま夕飯作るから待って。どうだった包丁試合?明政さん出場した訳では無いから危なくは無かったでしょう」と何かを作りながら言った。

「うん見学だけだから危なくないよ、試合会場で織田信長と明智光秀に有ったよ」と俺が言うと、夏子は料理の手を止めて、こっちを見た。

「あら包丁試合の会場って清涼殿でしょう、誰でも入れるの?」と驚いた顔をしている。

「ああ、包丁試合の時だけは誰でも入って見学出来る」と俺が言うと、「だって時代は室町時代でしょう、いくら足利幕府が安定していても、味方なら分かるけど、敵の大名や家来なんかも来たりしたら、まずいのじゃ?」と夏子は不思議そうに言った。

「皆包丁試合を利用して情報を集めていたりする、だから織田信長や明智光秀も情報を集めに変装して来ていたよ」と説明すると、夏子は納得した様に

「そうなの、はいご飯」と言って鍋をテーブルの上に置いた。

「うわー、旨そう、すき焼きだ」と俺が言うと、夏子は「違うわ、割下使かったから牛鍋よ」と言った。

俺は夏子の言った事を即座に理解して「あ、成程割り下ならすき焼きじゃ無くて牛鍋だね」と言った。

夏子は京都育ち、つまり関西人だ、関東では牛肉、豚肉、鳥肉、と何の肉かの区別で呼ぶが関西で肉と言えば牛肉をさす、そしてすき焼きと言えば、野菜や肉を鉄鍋で焼く、焼いた後に砂糖、醬油。酒で味付けをして、とき卵で食べる焼肉なのである。

関東では、だし汁、醬油、みりんで割下を作り、鉄鍋に割下を張りその中へ野菜牛肉を入れて煮込んだものに、同じくとき卵を付けて食べる。鍋で牛肉を煮るので牛鍋と言うのが正しい一方すき焼は、すき焼きと言われるのだから焼くのが本当だと関西の人はいうのである。

一般の人から言わせれば煮るか焼くかの違いなのだからどちらでも良いのだが、板前としては、こだわりたいのである。ちなみにおでんの事を関西の人は、関東焚き又は関東煮と言う。

そう言えば朝から何も食べていなかった、俺はがつがつと牛鍋を食べ始めた。

「夏ちゃんこれ食べたら、二日目の包丁試合見てくるね、二日目に進士流進士次郎左衛門の優勝が決まる」と俺は口をもぐもぐさせながら言った。

「えーそうなの結果解かって居るのに又行くの?」と夏子は行儀悪い食べ方をしている俺を見て言った。

俺は食べながら「ああ、結果より色々な流派の包丁の技や箸使いを見られる事が楽しい」

「明政さんは包丁師だから、でも凄い食べ方ね、慌てるとのど詰まらせるからゆっくり食べて、包丁試合終わったら寄り道しないで早く帰って来てね」と夏子は俺を見ながら嬉しそうに言った。

俺は、口をもぐもぐさせながら「了解」と言った。

庖丁試合二日目は、辰の刻(午前八時)から、観客が会場を埋め尽くしていた。今日は、第二戦八試合、第三戦四試合、第四戦二試合、そして第五戦の決勝戦まで行われる。

俺は、バックタイムペーパーの時間を少し早目にセットして会場の一番前に座り第二戦八試合を見ていた、そして第二戦の試合結果は、次の様になった。

    本手     逆手    勝者   

一試合 五十間流 対 浅井流  五十間流

二試合 四條流  対 大内流   四條流

三試合 大草流  対 進士流   進士流

四試合 薗 流  対 吉岡流   薗 流

五試合 下野流  対 藪 流   下野流

六試合 滋野井流 対 東 流   東 流

七試合 小倉流 対中里二刃流 中里二刃流

八試合 畠山流 対 山陰流    畠山流

山陰流は、昨日の十六試合で負傷したため、第二戦、畠山流との対戦を欠場となり、畠山流の不戦勝となった。

この第二戦の勝者五十間流、四條流、進士流、薗流、下野流、東流、中里二刃流、畠山流の八流派が第三戦へ進む。

第二戦終了後、半時の休憩時間となった、斜め横を見ると今日も与助と矢助が来ていた。会場の一番前に陣取り今終わった第二戦を振り返り会話をしている。

「三試合目の大草流と進士流の同門対決すごかったな」と、与助が言うと。

「練習試合では、大草流の方が強かったのに、進士流の巻き返しでの技すげかった」と、矢助が返した。

「んだ、進士流も裏技は本番でしか使わねぇんだ。大草流、進士流どっちが勝っても俺らの同門の仲間だからな!」と与助は、自慢げに言った。

次にはじまる三戦第一試合の四條流と、五十間流も同門と言えば、同門だ。

基は、五十間流から四條流が生まれているからだ。

しかしそれを知って居る者はい無い。

しばらくして休憩時間が終わり。第三戦第一試合の五十間流、四條流の試合が始まった、両者の懸り、水撫が始まると会場には拍手が沸き上がった。

審判員高橋、大隅の杓形包丁のさやは抜かれ時間いっぱいである。

本手、五十間流の箸包丁は、目にも止まらない速さでまな板に付いた。

四條流は、すばやく鯉の頭に箸を刺した。

それを五十間流の包丁が下から突き上げ、鯉の頭の箸を抜いた、どちらが鯉の頭に箸を刺すかの取り合いになった。

カチンカチンと、鯉の頭を取られまいと両者の攻防が続く。

五十間流が四條流の包丁の隙間を抜け、鯉の頭に箸を刺した。四條流が、包丁を下から突き上げ、刺さった箸を抜こうとするが、五十間流の箸は鯉の頭を突き抜け、まな板にしっかり刺さっているため抜けない。

ならばと、四條流は五十間流の箸が刺さった鯉を逆手より左板をおろした。

それを見た五十間流は、本手より右板をおろした。それを見た与作が、手を額に当て

「すげぇ、五十間流の箸を利用して、左板を逆さにおろしちまったぞ」と、思わず声を出した。すると「鯉の頭骨を右板左板の間に立てれば五十間流の勝ちだぞ」と、矢助が声を出した。

しかし、鯉の頭骨を両身の間に立てるには、まな板に刺さっている箸を一度抜かなくてはならない。五十間流が箸を抜こうと力を緩めた。四條流はそれを見逃さなかった。

包丁で、下から上へ突き上げ、鯉の頭骨は空中に投げ出された。五十間流は包丁でそれを空中で取り、今度は箸に投げ返したと思ったら、包丁に投げ返し、まな板に頭骨を立ててしまった。

「ワー」「ワー」と、観客席から、大喝采が沸き起こった。

「矢助、見たか!」と、与助は矢助を見た。

「すげぇ、今の空中技、三回も鯉の頭骨が空を飛んだぞ」と、矢助は、手をたたいた。

「そこまで」と、審判員高橋は包丁を両者の中へ差し入れた。

「勝者、五十間流」審判員大隅は包丁の表を五十間流に向け言った。興奮冷めやらぬまま二試合三試合、四試合と続き第三戦の結果は次の様になった。 

    本手    逆手    勝者        

一試合 五十間流 対 四條流  五十間流

二試合 進士流  対 薗 流  進士流

三試合 下野流  対 東 流  東 流

四試合中里二刃流 対 畠山流 中里二刃流

第三戦の勝者五十間流、進士流、東流、中里二刃流の四強が準決勝へと進む。

そして迎えた第四戦準決勝の結果は、次の様になった。

    本手    逆手    勝者      

一試合五十間流 対 進士流   進士流

二試合 東流  対中里二刃流 中里二刃流

結果通り、進士流と中里二刃流が第五戦、決勝戦を争う事となる。俺は、進士流が優勝する事が解っていても、興奮している。

迎えた決勝戦の第五戦、会場は歓声と拍手に包まれた、ふと清涼殿を見ると後柏原天皇の両脇に足利義稙と織田信長が座って居る。

この三人を同時に見られる事は、この時代の人間でも有り得ない、昭和の俺が見ているなんて・・バックのタイムペーパーと上杉君へ感謝で有る。三人は会話する事も無く会場を見ている。

進士流、中里二刃流が会場に現れたそして清涼殿に向かい座り一礼をした。審判員高橋の号令により両流派は左右に別れ俎板の前に座り懸り、水撫が始まった。

「ワーワー」「頑張れー」会場は、盛り上がる、俺は、手に汗どころではく全身汗で有る。

「次郎左衛門頑張れー」与助は、大声で叫んだ。隣から「与助、あの中里二刃流の包丁、左側はみてえだ!」と矢助が言うと、「あー、厚さが半端なく分厚いな」と与助は心配そうに言った。

進士流は、今回優勝すると、三度目の優勝となる。中里二刃流が勝てば、初優勝だ。

進士庄左衛門に乗り移った俺も思わず声を出した。「兄さん頑張れー、負けんなー」

逆手の中里二刃流は、二本の包丁をまな板に付けた、本手の進士流は、箸をまな板に付け、包丁で水撫を三度してゆっくりと横一文字に四徳へと進ませると静かにまな板に付けた瞬間試合が始まった。

右手上段、左手下段に中里二刃流は、鬼切の構えだ、その構えは、まるで獲物を狙うカマキリのようである。

一方進士流も左手箸を、胸の前、右手包丁を左下に構え、祈りの形に構えている。

この構えは、両流派共今までの試合では見せていない。

進士流の箸が、少し動くとそれに反応した中里二刃流の二つの包丁が、素早く動く。

カッチンと、音が鳴った、小競り合いが何回か続くと進士流の箸が、くるりと下を向き、鯉の頭を押さえた。

「早い!」と、俺は心の中で叫んだ。中里二刃流の左包丁が進士流の右手包丁を下から上へと跳ね上げた。

進士流の包丁は、箸は鯉の頭に刺さったままである。

中里二刃流は、進士流の頭に刺さった箸を利用して右手包丁で、右板をあっさりと卸した。

進士流は、鯉頭の箸を抜くと、中里二刃流の右手包丁を下から箸で突き上げ、押さえた。

両者は、がっぷり四つに組んだまま動かない。

しかし、上から抑え込む中里二刃流の力に負けて、下から受ける進士流の箸包丁がじりじりと下がってきた。

まな板まで下り、抑え込まれると思った時、全身の力を込めた進士流の箸包丁が中里二刃流の箸包丁を跳ね上げた。

中里二刃流は、勢いよく後ろへひっくり返った。

跳ね上げた進士流も後ろへひっくり返った。

中里二刃流は、すぐに起き上がり、右手包丁で鯉の頭を狙って突き上げ空中で左板を卸した。

「ワー」と場内から歓声が上がった。

鯉の頭骨を立てれば中里二刃流の勝ちである。

一方、進士流を見ると、すでに起き上がり、まな板に戻っている。

負けたかと思った、次の瞬間、進士流が箸と包丁を魚鱗に構えたかと思うと、前方に矢のように突き出し、空中で鯉の頭骨を奪い取った。

中里二刃流の右手の包丁が頭骨を奪い返そうとするが進士流の箸がそれを阻止すると同時に、右手包丁でまな板に鯉の頭骨を立てた。

場内は静かになった。誰もが音、声を出さない。

パチパチパチ と、誰かが拍手をすると、

「ワー」「パチパチパチ」と、一気に歓声が上がった。

「そこまで!」審判員高橋の杓形包丁が両者の間に入った。

「勝者、進士流」審判員大隅が包丁の表を向け言った。

「ワーワー」「パチパチパチ」場内の歓声が大きくなった。

「やった、やった」与助と矢助は抱き合いながらくるくる回っている。

会場の俎板の前では勝者進士流の仕舞の水撫が始まっている。

中里二刃流は、進士流を讃えて包丁二本をまな板の下に置き、進士流の仕舞の水撫に拍手をしながら見ている。素晴らしい光景だ。

進士流左右衛門に乗り移った俺も拍手していた。

柏原天皇も、足利義稙も、織田信長も、立ち上がり、拍手をしている。護衛の者達も、拍手をしている。

会場は、いつまでも歓声と拍手の渦に巻き込まれていた。

俺は一五二〇年四月三日と四日に清涼殿で行われた庖丁試合を見た。進士流が三十二流派の頂点に立った。興奮冷めやらぬまま俺は、バックタイムペーパーの停止ボタンを押した。


   五、ふぐ毒と大草流

「風月の間お替り出来ました」刺場の加藤君がのおかわりを出した。

「はい」仲居の宮田さんが大皿を盆の上に乗せお客様へ運んで行った。

冬になるとふぐのコース料理の注文が多くなるが、海のない栃木県では、冬にふぐを食べる習慣はない。

テレビで見たふぐ料理の情報と、関西関東の交通の便が良くなった事により最近になって栃木県の人もふぐを食べるようになり、ぽつぽつとふぐ料理の注文が入るようになったのだ。

「ふぐってどんな味がするの?」と、ふぐを食べた事のない人の注文がほとんどである。

ふぐの事を鉄と呼ぶ、鉄とは鉄砲の略で、つまり鉄砲に当たると死ぬ、ふぐの毒に当たると死ぬという意味である。

ふぐの身を薄く切る。生で食す鉄刺、鉄ちり鍋、ふぐに片栗粉をまぶして揚げたふぐの唐揚げ、ふぐの精巣の焼物、ふぐの煮凝り、ふぐ皮の肝和え、ふぐの雑炊と、数々のふぐ料理が有る、それをポン酢で食べる。

コリコリとした食感と、噛めば噛むほど甘みとうま味が口の中に広がり、日本酒に合うのである。

しかし食べなれない人にとっては、高価な割には美味しい物ではない。

何度も食べていくうちに美味しさがわかってくるのであり、一度二度食べたからと言ってうまさが分かるものではない。

しかも、ふぐには毒がある。この毒がある部分を取り除き食す危険な食べ物である。

毒を取り除く作業にはふぐ免許が必要となる。ふぐ免許の国家試験をパスしないとふぐを扱う事はもちろん、お客様に提供する事は出来ない。

ふぐの免許は親方、俺、刺場の加藤は持っているが、谷口君は昨年実技試験のふぐの皮引きに失敗して不合格であった。

「唐揚げ上がりました」と、その谷口君が元気に仲居の宮田さんに声を掛けた。

「はい、ありがとうございます」と宮田さんが唐揚げを運んでいく。おかしな話だがお店でふぐ料理を提供する場合お店の中の板前一人がふぐ免許を持っていればよいので有る。三人がふぐ免許を持っている桃山亭ではふぐ免許を持っていない谷口君もふぐを扱ってよいのである。

ふぐ会席の最後は、ふぐ皮の肝和えである。

ふぐ皮の上に鮟鱇の肝の裏ごしを乗せ、たっぷりのを乗せる。お客様が紅葉卸しとポン酢を好みで掛け、混ぜながら食べる。

ふぐの肝は、大きく美味しそうであるが、猛毒なので食べれば人間などひとたまりもない。

桃山亭では、肝和えはの肝を使う。

京都での修行中ふぐ料理はよく作った。

しかも肝和えには猛毒のふぐの肝を使っていた。何か毒を抜く方法があるのだろうか?と思った俺は、「親方、伺いたいのですが、叔父さんの所ではふぐの肝を使っていましたが」と俺は親方に聞いた。

盛付作業をしていた親方は手を止め俺の方を見た「ふぐの肝か、猛毒だが、毒を抜く方法がある」と意味深に言った。

俺は驚き「え、親方は知っているのですか?」と聞いた。親方は、下を向き静かに「あー、知ってはいるが、やった事はない。それは、大草流の秘事だから進士流には無い」と言うと親方は、顔を上げ続けた。

「大草流は、進士流より料理や庖丁式の秘伝、秘事を伝授された流派だが、足利幕府が無くなり、信長、秀吉の戦国時代から安土桃山時代は九州、薩摩藩島津家の料理番として仕えていたが後に江戸幕府徳川の時代になり、江戸徳川家に移った」

「九州の島津家に料理人として仕えた大草流は、進士流と離れ、独自の大草流の作法、調理法、庖丁式を開発して現在の大草流になったのだ」と親方が説明した。

俺は親方を見ながら「なるほど、進士流に独自の作法や調理法を加えたのが大草流か」とうなずいた。

「その独自に考えた料理法の中にふぐ毒解毒術と言うのがある。毒の抜き方を書いた物だが、これは大草流の秘事とされている」

「ふぐの毒の抜き方?へーそんな事出来るの?」と不思議な顔をした。

「ふぐは、冬に食べる事が多いが、元は暖かい地域の魚だ。九州では昔から大量に獲れるふぐを一般人も普通に食べていたから、ふぐの毒で死ぬ人も多かった」俺は少し驚いた「え、ふぐの免許がない人も調理していたの?」と聞いた。

「昔は、ふぐの免許など無い。ふぐは食べたし、命は惜しいと、地元の人達もおっかなびっくり食していたのだ。豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴い、山口県下関に各地から武将、兵隊が集まり、戦のために船で朝鮮に渡る。

食糧を確保しようと釣りをすると、やたらふぐが釣れる。地元の人が食うと死ぬぞと注意するも、ふぐをぶつ切りにして鍋で煮て食べた。武将や兵隊たちは「うまい、うまい、こんなうまい魚食ったことない」と、喜んで食べたが、案の定、食べた人間はバタバタと死んだ。

武将や兵隊は戦場で死ぬのが当たり前。魚を食べて死ぬのは戦人の恥であると、怒った豊臣秀吉は、この魚食べる、ベからづと、ふぐの絵を描いた立札をあちこちに立てたそうだ」と親方が説明した。

俺は「うまい物には毒がある、だね」と、あいづちを入れた。

親方は静かに「そこで島津家の命令で料理番だった大草流がふぐの毒の解毒を仰せつかり、それをまとめ上げ書にしたのが大草流ふぐ毒解毒術だ」と言った。

「ふぐ毒解毒術、そんな書物があるの?」と俺は聞いた。

「大草流ふぐ毒解毒術は、秘事とされ流派内の一部の人間しか知らん。わしは、公治の父、大草公継から少し聞いた事があるが、その解毒術を使った事はない」と親方が言うと、俺は「なるほど、だから桃山亭ではふぐ皮の肝和えに鮟鱇の肝を使うのだ、ふぐ毒解毒術を知っている大草流の公治叔父さんは、猛毒のふぐの肝で肝和えを作るのだ」と、京都翠光亭で作っていたふぐの肝和えを思い出していた。

「ふぐの事で知りたいなら公治に聞いてみろ。大草流の秘事には解毒術のほかにふぐの庖丁式の切汰図もあるはずだ」と言った。

「えー、ふぐの庖丁式もあるの?公治叔父さんに聞いてみる。親方ありがとう」

桃山亭の休みに、夏子と俺は、夏子の里帰りもかねて京都に向かった。

夏子の実家でもある翠光亭は京都西陣にある。

「ごめん下さい」なつかしい、俺はここ翠光亭で日本料理の修行を五年したのだ。

「おいでやす」暖簾をくぐり、夏子の母裕子さんが出て来た。

「よう来たわね。疲れたでしょ、甘い物でも」と葛切りを座卓の上に出しながら「父さん今部屋で探し物しているから、ちょっと待って下さい」

二人でくず切りを食べ、茶を飲む。

「板場に挨拶でもするか、お土産あったよね」と、俺は立ち上り久しぶりの板場の先輩後輩に挨拶に向かった、中を覗くと、器具や食器すべて昔のままである。

板前達は新顔が多い、先輩の広瀬さんが、立板になっていた。

「失礼します」

「おー明政君久しぶり。元気にしていた?」広瀬さんが笑顔で迎えてくれた。

「ご無沙汰しております」田中さんにも挨拶と思い見渡すが姿が見えない。

「田中さんはどちらに?」

「田中さん、昨年山梨に帰ってお父さんの料理屋を継いだ。店は、大繁盛でお祝いの時には庖丁式の依頼もあるって張り切っていたよ」と嬉しそうに言った。

「えー、田中さん、山梨県第一号の庖丁師になるって言っていたから、願いが叶ったのだね」と俺は手を叩きながら嬉しそうに言った。修行時代は広瀬さん、田中さん俺は、同部屋であった板場の仕事と五十間流包丁式を一緒に習った先輩達なので有る。

「お、明政ここにおったか」と叔父さんが板場に現れた。

「見つかったぞ、ふぐの切汰図とふぐ毒解毒術の伝書、今日は泊まっていくだろう、後でゆっくり説明するぞ」と嬉しそうに言った。「はい、ありがとうございます、お店忙しいみたいなので、板場のお手伝いをしたいのですが?」叔父さんは広瀬さんの方を見て「広瀬、どうだ」と聞いた。

広瀬さんは両手で俺の肩をぽんとたたくと「明政君が手伝ってくれるなら百人力だ!是非頼むよ」と嬉しそうに言った。

俺は、割烹着に着替えて、板場の手伝いに入った。

「明政君、刺場の沼田君を手伝ってあげて下さい」

「了解!」返事をして刺場へ行った。

刺場の沼田君は鉄引きでふぐを引いている。綺麗な仕事だ。

「進士明政です。お手伝いいたします」と挨拶をした。

「あ、ありがとうございます。ここ翠光亭の先輩とお聞きしました、公好さんからお噂は伺っております、鉄刺お願いします。この鉄引き使ってください」と、鉄引きを差し出した。

「綺麗に引いているね。沼田君、刺場になって長いの?」

「いえ、まだ半年です」

「えーそれにしちゃあうまいね。よく引けている」

「ありがとうございます」

俺は、鉄引きで鉄刺を引き始めた。

脇で見ていた沼田君の目はまん丸になり口は空いたままになった。

俺の正確な包丁使いとスピードに圧倒され驚きで言葉を失っている。

わずか数分で五皿の鉄刺を引き終えた。

「凄い、すごすぎる」と沼田君は震えながら言った。

俺はタオルで包丁をふきながら「よく研いである包丁だ、鉄刺引きやすいよ」と言いなが柄を見た、公好と名前が書かれている。

「あ、明政先輩そ、そのほ、包丁は、公好さんが僕にく、くれたのです」と言った。

「そうか、良い庖丁だね。使いやすいよ。そういえば、公好君は?」と聞いた。

「はい、こ、公好さんはき、九州大草流の家元の、て、手伝いに行ってお、おります、ます」と沼田君は緊張して言った。

「あー、おじいさんの所だね、所で話し飛んで申し訳ないけど板場の皆は、庖丁式は習っているの?」

「み、皆二年間は、五十間流で基本を習いますが、じ、自分は三年目なので親方に大草流を習っています、です」と沼田君はどもりながら言った。

「ほー、大草流か、良かった、頑張って覚えてね、それより沼田君最初と違って緊張しているように見えるけど俺、何か悪い事でもしたかな?」と聞くと

「いえ、いえ、明政先輩の包丁さばきが余りにも凄いので緊張してしまいました。公好さんから、明政先輩の話は聞いていました、一、ギター演奏がうまい。二、歌がうまい。三、社交ダンスがプロ並みだ!と聞いていました。ぼくはなんにでも緊急するから、明政先輩から、どれを見せられてもても緊急するなよ、と公好さんから言われていました。でも包丁さばきが凄いと言う事を聞いてはいませんでした、ですから明政さんの包丁捌きを見て緊張してえーと」と、少し震えながら言った。沼田君は礼儀正しく性格も素直なのである。いろんな事を沢山経験して沢山緊張して良い板前になって欲しいと俺は思った。

翠光亭の仕事が終わり従業員達の夕食に入ると親方(公治叔父)が、立ち上り板場の皆に向かって言った。

「皆今日もよく頑張ってくれた。今日は、栃木から義理の息子、明政君がきている。明政君は、進士流庖丁式の庖丁師だ。桃山亭では、庖丁式の指導もしていると聞いた。明政君に進士流庖丁式を見せてもらおうと思うが、どうだ」と大きな声で皆に聞いた。

「ワー」と、皆が拍手した。

「是非お願いします」皆が口々に言った。

俺は立ち上り「親方、ありがとうございます。進士流庖丁式、是非皆さんに披露させてください」とお辞儀をした。

俎板の上に鯉をセットして狩衣、烏帽子に着替えた。

夏子がカセットテープで越天楽を流し、いつものように庖丁式の由来を説明している。

紹介と共に摺り足で部屋に入り俎板前三尺に座り、身繕いをする。袖の紐を引き、袖を括り付ける。立膝すり足でまな板に寄り、懸りを終し切汰に入る。

式題は、龍門の鯉尾を立てる時に身の石畳も一緒に立てる、変わった切り方をする。

ドン 音と共に見事に尾が立った。

三度拝み、鯉に魂を吹き込み終了した。

「お見事」パチパチ

「ワー」パチパチ

「すげー」パチパチ

皆拍手喝采である。

「明政君、進士流庖丁式素晴らしかった。夏子のナレーションも良かったぞ」と叔父は上機嫌で言った、俺は頭をかきながら

「ありがとうございます」

「パパ、褒めてくれてう。公好、じいちゃんの所に長助だって?」

「あぁ、じいちゃんが勤めているホテルの板場が人手不足で、しかもホテルのイベントで大草流の庖丁式を披露するらしい」

「そうですか、公好君も頑張っていますね」

「あいつも庖丁師として自覚が出てきたのか、最近は何でもわしの言う事を聞くようになった。でな、翠光亭の板場でも大草流庖丁式の稽古を始めた」

「パパも公好に大草流を継がせようと必死なのよね」と叔父をからかうように言って叔父を見た。

「何を言う。優秀な者が継承してくれれば、わしはそれでいいのだ」と口をとんがらせた。

夏子は「ハハー、口ではそう言っても、本当は公好に継がせたいと思っているのでしょう、親バカね」と茶化した。

「夏ちゃん」と、俺は夏子を戒めた。

叔父は、「ワハハー、話を変えよう」と照れくさそうに言った。

俺は「先日、電話で話していたふぐ毒解毒術とふぐの庖丁式なのですが、その話を伺いたくて」と、話題を変えた。

「そうだ、そうだ、その話がいい」ふぐの文献とふぐの切汰図を座卓の上に出した。

「これが、大草流秘事、ふぐ毒解毒術と、ふぐの切汰図だ。簡単に説明はするが、到底覚えきれるものではないから、明日帰る前に全部コピーを取って、帰ってからじっくり読むといい本来は大草流秘伝の書物だが、今は、この切汰図もふぐ毒解毒術も役には立たない。ふぐの事は、進士流の明政にも伝えておきたかったからな!」と自慢げに言った。

「ありがとうございます」と俺は頭を下げた。「わしは大草流を、継承するため結婚を期に九州の父、公継の元に帰った。

二年経った頃、先輩だった翠光亭の主人田島先輩が亡くなり店を譲りたいと田島先輩の奥さんが言ってきた。

大草流の父は、京都で店を持っても良いと店の購入資金と大草流代々伝わる全ての文献を持たせ、京都に送り出してくれた。

その中にこのふぐ毒解毒術と、ふぐの切汰図もあった」

「その割にはパパおじぃちゃんに冷たいよね。いつも喧嘩しているじゃない」とまた茶々を入れた。

すると叔父は「そんな事はない、ただじぃちゃんが頑固なだけだ」

「どっちもどっちだけどね」と夏子は涼しい顔で言った。

「夏ちゃん公治お父さんが翠光亭を、引き継いでくれたから、俺と夏ちゃんが出会えたのだから」と言うと、

「ま、それもそう、ありがとうパパ」と照れくさそうに言った。

「ふぐの切汰図は、明政君が見ればすぐにできる。

だが、ふぐ毒解毒術の方は、そのまま鵜呑みにしては駄目だ、肝の毒ぬきは大丈夫だ、これは使える。

しかし、卵巣の毒ぬきとかは疑問だな、しかもふぐの卵巣の事に関しては、島津藩大草流料理書の中に不思議な文章があるのだ。

本当か嘘か分からんが、大草流が孝明天皇をふぐ卵巣の毒によって毒殺したと、ある」叔父は真剣な口調で言って俺を見た。

「えー、どういう事ですか?」

「大草流の人間が高橋家、大隅家の弟子となり孝明天皇の料理にふぐの毒入れ毒殺したという記録があるのだ。

その辺も時間が有れば調べてみてくれ、そして何か分かったら教えてくれ」と叔父は言った。

「わかりました、調べてみます」と叔父を見た。

翌朝、俺と夏子は文献、切汰図のコピーを取って栃木に帰った。


    六、 宮中事件

京都翠光亭、義理の父大草公治から、複写した切汰図を見ながらふぐの庖丁式の練習をしていた。

ふぐの皮は、トゲトゲがあり、食べるためには庖丁でトゲをすき引きしなくてはならない、しかしふぐの庖丁式では、この作業は省かれているのだ。

「よし、これで式之ふぐの切汰図通りだ」と俺は一人ぶつぶつ言いながらふぐの切汰を終えた。

大草流のふぐの切汰は、式之ふぐ、神紙之ふぐ、玉鷲之ふぐ、輿車之ふぐ、入港之ふぐ、祝い之ふぐ、釣海之ふぐ、死呪之ふぐ、沖之ふぐ、潮之ふぐ、無毒之ふぐ、法刀之ふぐ、と十二種類の切り方が有る。

「明政どうだ?できたか?」と親方が座敷に入ってきた。

「はい、親方出来ました。これが式之ふぐです」と俺は俎板の上を見た。

親方は俎板の上に並べられたふぐの身を見ると「ウーム、身の置き方が変わっているな。普通の魚の庖丁式とは違うな」と腕を組んで難しそうな顔をした。

「はい、ふぐは普通の魚と骨の構造が違いますから」と俺が言うと、親方はふぐの切汰図を見ながら「こんなに種類があるのか」と聞いてきた。

「はい、十二種類の切り方があります」

「そうか、練習しておきなさい、ふぐ毒解毒術の方はどうだ?」

「はい、今夜にでも読んでみます」

夜、俺と夏子は二人でふぐ毒解毒術を読んでいた。

夏子が突然「明政さん、この秘伝書の最後のページの裏側の小さな字、父が言っていた、孝明天皇の事ってこれじゃない?」と、言ってページの裏側をさした。

「どれどれ」と俺は夏子の指差した所を見るとそこには小さな字で、大草流門人、長州藩毛利家、福原海四朗と薩摩藩島津家、山下源左衛門、両人は宮中御厨子所、高橋家、小御厨子所預かり、大隅家に仕える料理人なり。         

慶応二年(一八六六)十二月二十四日、両大草流門人は、両藩の密命により、堀河紀子典侍と共に孝明天皇(統仁)を真砂粥にて毒殺、真砂粥は、山下源左衛門により調理、堀河紀子典侍により御配された。高橋、大隅家共、関係はない。と記されている

「なんだ、これ?」と読んだ俺は頭を抱えた。

そして「どういう事?」と夏子を見た。

夏子は、人差し指を立て左右に振りながら

「つまり、薩摩藩と長州藩の料理人が高橋家、大隅家の知らない所で猛毒のふぐの真砂粥を孝明天皇に食べさせ、殺したという事でしょう?」と言った。

「そうだ、公治叔父さんが言っていた孝明天皇毒殺の事だ、大草流秘伝書のこんな所に書かれていたんだ公治叔父さんも見逃すはずだ」

「夏ちゃん、俺、バックタイムペーパーで行ってくる」

「誰に乗り移るの?」と心配そうに聞いてきた。

「そうだな、高橋家と大隅家は毒殺の事は知らないのだから駄目だ、ここに書いてある長州藩の福原海四朗がいい」と俺が言うと、「でもその人、毒殺した犯人の一人だよ?」と夏子は余計心配そうな顔をした。

「ああでも一番この事件を知っている人物だから」と両手で夏子の肩を強く握った。

バックタイムペーパーを机の引出しから取出し腕に張り慶応二年(一八六六)十二月二十三日と孝明天皇暗殺の一日前にセットして福原海四朗と打ち込み実行ボタンを押した。

突然声が聞こえた。

「分かったな、後はわしがうまくやる。お前達に足はつかない」典医伊良子光順が言った。

「はい、わかりました」福原海四朗(俺)と、山下源左衛門はふぐを受け取った。

「源左衛門、本当にやるのか?」と、海四朗に乗り移った俺が言うと、

「当たり前だ、藩の密命だ。海四朗、怖気づいたか?」と怖い顔をして海四朗(俺)を見た。

「でも統仁様(孝明天皇)だぞ!」と言った海四朗(俺)のふぐを持った手が震えている。

「あぁ、だから俺達でないと出来ないだ」と源左衛門は言ったがその声は、強気な言葉とは裏腹に震えていた。

「でもこのふぐ、どこでさばくのだ、高橋様、大隅様もその他の板場の人達もいるし」と海四朗(俺)は、更科にくるまれたふぐを持ったまま言った。すると源左衛門は「大丈夫だ、内台所を使えば、ついでに皆にもふぐを食わせよう」と震える声で言った。

「えー、みんなも?」と海四朗(俺)は驚いた顔をした。

源左衛門は、右手を振り回して「あほ!皆には毒のない所で雑炊でも作ってやる」

「そうか、そうだよね」と海四朗(俺)は安心た。

会話をしながら源左衛門と海四朗(俺)は内台所に向かった。

宮中には三つ、台所と呼ばれる所が有る。

本台所(御厨子所)天皇家の儀式料理や来賓接待料理を作る所と、脇台所(小御厨子所)天皇家が常に食べる食事料理を作る所、そして内台所は、板場や配膳人、従業員などの賄い食を作るところである。源左衛門と海四朗は、皆の賄い食を作る内台所を任されているのであるしかし任されていると言っても二人だけしか内台所には入れないわけでは無い、宮中に務める者なら誰でも入れるのである。

二人は周りを気にしながら内台所に入ると、

海四朗(俺)が誰も来ないか確認の為に内台所の入口に立った、近くにトイレと従業員用の休憩室があるので内台所の前の廊下を時折人が通る、平静を装って人が通るたびに胸の鼓動が早くなる。内台所の流しの上では源左衛門がふぐを卸しているのだ、「これでよし」と源左衛門の声がした。内台所の中を見ると、典医伊良子に渡されたふぐを源左衛門は綺麗にさばき終えていた。「海四朗!」と源左衛門は和紙に包んだふぐの卵巣を海四朗(俺)に差出した。「これを明日使うから棚の奥へしまっておいてくれ。」と源左衛門が言った。

海四朗(俺)はふぐの卵巣を受け取ると直ぐに棚の奥へしまった。

ふぐの卵巣は猛毒である。毒のない身は水に浸し明日葱たっぷりの雑炊にして板場と仲居達の賄いにする。

「源左衛門、葱、これくらいでいいかな?」

と源左衛門に葱を見せた。

「あぁ、十分だ。うまい雑炊が出来るぞ!」と源左衛門が言うと、「皆ふぐ食べたことないだろうからね」と、海四朗(俺)が応えた。

宮中では、毒のあるふぐを食すことは無い。

また、宮中に持ち込む事も御法度である。

御厨所の板前達も、ふぐを食べた事のある人間はほとんどいない。

それに対し、九州薩摩と山口長州出身の二人はどちらも子供の頃からふぐは食べ慣れてきた。そのうまさは、二人にとって最高なのである。

しかも二人は大草流の門人でもあり、大草流ふぐ毒解毒術も心得ているのである。

ふぐを捌くのは勿論どの部分が危険か、安全なのか二人は熟知しているのである。

「こんにちは。休憩時間二人で何をしているの?」と天皇陛下典侍の堀河紀子と皇太后陛下典侍の竹中鈴子の二人が内台所に入ってきた。

天皇に仕える宮人の女性を女官と言う、女官は三等官と言い尚侍、典侍、賞侍と三つの部署から構成されており、全て天皇の身の回りの事や雑用を執り行うので有る。

勿論料理の配膳、部屋の掃除、着物の用意、寝室の準備、下の世話までもする雑用係と言っても過言ではない、女官の中の典侍に属する二人は、天皇陛下の典侍と皇太后陛下の典侍と担当の部署は違うが、九州島津藩出身の紀子と仙台藩蘆名家出身の鈴子の二人はやたら仲が良い、歌と踊りの得意な二人は、休憩室で振り付をしながら歌を披露して皆を笑わせている、なぜ笑うかと言うと、二人の歌はお世辞にも上手いとは言えないからである、そして振り付けも猿が木登りをする様な踊りなので二人はモンキーレディーと呼ばれていた。勿論二人は知らない。源左衛門が

「紀子さん、伊良子様より聞きました?」と、聞くと、紀子は源左衛門を見た。

「あ、聞いたわよ、薬食の事ね」と言った。

「あぁ、そうだよろしく頼むね」

堀川紀子は、山下源左衛門と同じ九州島津藩の出身である。

そして紀子は源左衛門に恋心を抱いている源左衛門も紀子の事が好きなので有る。

だから源左衛門は紀子を毒殺に巻き込みたく無いと思っていた。弱い口調と目を合わせない源左衛門に紀子は不思議そうな顔をしたが「伊良子様改まって言うから、何かと思ったけど、いつもやっている事と同じじゃない」と、あっけらかんと言った。

「あぁ、いつものように俺達が薬食作るから、陛下にお出ししてくればいい」と、言うと、紀子は元気良く「はい、わかりました。何か特別な物でも出すのかと思ったわ!鈴ちゃん行こう」と言うと、竹中鈴子と内台所を出て行った。無邪気なモンキーレディーの二人だ、

知らない方が幸せだと、海四朗(俺)は思った。

次の日の午後

源左衛門と海四朗(俺)は、ふぐの身の入った土鍋にたっぷりの飯と葱を入れ、溶き卵を入れた、ふぐと葱のいい香りが立ち上がった。板場と典侍達の皆はふぐを食べた事がないと見えて、あっという間にふぐの雑炊は無くなってしまった。

「あー、うまかった」と、板場や典侍達は休憩に入り、内台所には誰もいなくなった。

それを見計らって源左衛門が、海四朗(俺)に目配せをした。

二人は、速足で内台所へ戻り、夕方の薬食の用意を始めた。

本来薬食は脇台所で作るのだが、今日は、内台所で作る事となっている。何故なら本台所も脇台所も御前会議の後の宴の料理と、包丁式の準備で忙しいからだ。

しかしその方が今日の薬食を作る二人にとっては都合が良い。

海四朗(俺)が昨日棚の奥に隠しておいたふぐの卵巣を取り出し、包丁で薄皮を切った。

「いて!」うかり薄皮を切るとき指先を切ってしまった、いつものように直ぐに舌でなめると直ぐに血が止まった。

源左衛門は、鍋に湯を沸かしている。

海四朗は、薄皮を切ったふぐの卵巣を源左衛門に渡した。

鍋の中にふぐの卵巣を入れると、薄皮が縮み、ふわーっと卵の粒々が花のように開く。鱈子や鯛子ではよくやる調理方法だがふぐの卵巣でやるのは初めてである。

「海四朗、冷水頼む」と源左衛門が小さい声で言った。

海四朗(俺)は、桶に冷たい水を張り中に笊を入れ源左衛門に渡した。

卵巣を、水に入れると卵の粒々が水中の笊の中で花火のように散った。

水から上げると、肌色の砂の様で美味そうだ。しかし、食べれば死ぬ。

「よし、これで準備はできた。後は、薬食まで休憩しよう」源左衛門が言った。

源左衛門と海四朗は内台所を後に、休憩所へ向かった。

モンキーレディーは、他の典侍の女達とおしゃべりを、しているので、モンキーレディーの歌の披露は終わったらしい。

海四朗(俺)と源左衛門は、横になって少し仮眠を取ろうとしたが目がさえて寝られないしかも手が震えている、海四朗(俺)はさっき切ったところかな?と指先を見ると血は止まっている。

「源左衛門」と海四朗(俺)が源左衛門を呼んだが向こうを向いて寝転がたまま返事が無い。

海四朗は「源左衛門よ!」ともう一度呼んだ。

「なんだよ!うるせな」と源左衛門は向こうを向いたまま、答えた、怒っているのだろうか?

海四朗(俺)は源左衛門の背中を見ながら言った「俺怖い手が震えている」と言うと、

「俺もだ」と向こうを向いたままの源左衛門が答えた、その肩を見ると少し震えている様に見える。 

その頃宮中御会議所では、江戸城明け渡しと幕府廃止について御前会議が行なわれていた。

既に数十回行われて来た御前会議だが今回の会議が最後になろうとしていた、今までの会議のように幕府側、倒幕側の意見が合わず決裂となれば戦となり多くの人が死に沢山の血が流れるだろう。しかし、最後の会議で幕府側の勝海舟と山岡鉄舟、高橋泥舟は、徳川慶喜との話し合いの結果倒幕軍との戦いによって江戸を火の海には出来無いと結論を出し無血にて江戸城を明け渡すと言う物であった。むろん倒幕側の薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、長州藩の木戸孝允も無血にて江戸城開城が望めるのであればと、安堵の意を示していた。

後は、徳川幕府が廃止になった後の天皇の意向が重要となるのだが、前回の会議では孝明天皇は江戸城開城、江戸幕府廃止に反対の意を唱えていたので有る。何故なら第一五代将軍徳川慶喜の後ろ建てとなっていたのは代百二十一代天皇孝明天皇だったからだある、孝明天皇は幕府徳川慶喜の良き理解者でもあったからである。最後となるだろう今回の御前会議の場でも、苦虫を噛み潰したような顔をして何も言わない。徳川慶喜の幕府側の大きな譲歩により戦をせず無血開城の交渉がうまくいっているのに、返される当の孝明天皇の意思が反対ではどうにもならないと薩摩藩の西郷隆盛も長州藩の木戸孝允(桂小五郎)も思っていた。

御前会議が終わり、宮中虎の間で宴に入る。

虎の間には、山岡鉄太郎をはじめとする勝海舟を初め幕府側十名と、西郷隆盛を初め江戸幕府廃止と江戸城開城を求める倒幕側十名が席に着いた。

遅れて孝明天皇が席に着くと、雅楽越天楽の生演奏が始まった、宴の前に庖丁式が執り行われるのである。

幕府側十名の胸の内は、穏やかであった。勝海舟の交渉が功を奏し無血にて江戸城開城が上手くいきそうであるからである。

所が倒幕側十名は、心穏やかではない。

薩摩藩西郷隆盛は、席に座ると前を向いたまま「無血開城で倒幕が上手く行きそうで何よりだが、幕府との戦いにいきり立っている藩の兵士達をどうやってなだめるかだ」と、長州藩木戸孝允に言った。西郷の言葉に木戸は頷きながら「確かに、西郷どんの言う通りでありんす、しかし兵士達の抑え、それがうまくいっても倒幕に喜ぶどころか反対の天皇がおりんすから、そちらの方が心配でありす」と、前を向いたまま答えた。西郷は頭を少し上げると、「木戸はん、藩の血の気の多い兵士達さえ抑えられればそれでよしでごあす、倒幕反対のご意見の孝明天皇には、すまんでごあすが、すでに手は打ってごあす」と言った。その言葉を聞いた木戸は驚いて西郷の方を見た。西郷は先程から同じ様に平然と前を向いている。

「なるほど血の気の多いのは薩摩藩の兵士より西郷どんの方で、ありんすな」と、言うと木戸は口をつぐんだ。土佐藩を脱藩した坂本龍馬を介して薩摩藩との同盟を結んだ長州藩だが倒幕の発言権は、薩摩藩の西郷隆盛が主となり進めている。長州藩の木戸孝允主な役目は倒幕が終了後の事なのである。

虎の間の包丁式は、後見人の大隅恒易による御しつらえの儀が終わり、庖丁師高橋宗芳が、現れた。

まな板の上には鱸と真っ赤な椿の花が添えられている。鱸は夏の魚、一方椿は冬の花で有る。この組合せは孝明天皇が料理番高橋家にわざと設置させた組み合わせである。式題は船中之鱸で有るがこの船中は戦中とも解釈出きる、この意味も包丁式最後に天皇からのメッセージとして御前会議に集まった幕府側と倒幕側の全員に伝えられるので有る。

鱸の身は見事な高橋宗芳の包丁さばきによって戦中之鱸いや船中之鱸の形に切り分けられた。

これは戦い合う倒幕側、幕府側が一つの船に争いなく乗る意味を持つ。そして最後に真っ赤な椿の花を添え仕上げるかと思われたが、庖丁師高橋宗芳は椿の花を右手で取り上げまな板の下に静かに置いた。冬に咲く椿の花を、夏の魚鱸の船には乗せない、何故なら二つは相反する物であるからだ、そして椿の真っ赤な花を人の血に見立てているのだ。今は戦中だが、血を流さず一つの船に皆で乗ろうと言う意味なのである。見ていた幕府側、倒幕側も孝明天皇の意を察したのか一斉に拍手した。皆の割れんばかりの拍手の中、西郷隆盛は、包丁式が終わると顔色が変わっていた。「不味い、おいは、孝明天皇の考えをとっ違えておった、しかし今からでは止められん」と一人呟いた。

包丁式が終わり宴に入ると御厨子所の配膳士、配膳婦が料理を運んできた。料理は、高盛りの有職料理である。有職故実に乗っ取り宮中では、儀式や接待などの時に振る舞われる料理である。最初に縁起をかつぎ嶋台が出される嶋台は、脚付きの隅切り六寸に乗せられた前菜で有る。そして吸物、煮た物、焼いた物(台の物)、酢の物と続き最後に食事となる。刺身は出さ無い特徴が有る、皆箸を取り、酒を飲み、穏やかな宴となった。

しかし、西郷隆盛は一口も手を付けていない。

その様子を見て長州藩の木戸孝允が言った。「西郷どん、孝明天皇の御意思もっと早く知りたかったですな、残念でした」とテーブルの下で手を合わせた。西郷は大きく息をすうと「この西郷一生一度の不覚でおわす後の事は全て、木戸はん、に、お任せします」と西郷はため息混ざりに言うと意味深に木戸を見た。

木戸は孝明天皇亡きあとは次の天皇となる祐宮の顔を思い浮かべ「了解しました、祐宮様の事は打合せ通り遂行致しますご安心を、せっかくの料理食べなくては怪しまれます。さ!まずは一献」と酒を西郷に進めた。

西郷は浮かない顔していたが、木戸の進めるままに、静かに酒と料理を食べ始めた。

数週間前には、発病していた天然痘も収まり、すこぶる元気な孝明天皇は、御前会議中は一言も意見を言わなかった、それは倒幕反対の考えだと思っていたが、今の包丁式を見ると倒幕側(公)幕府側(武)の公武一体を望んでいる、日本と言う船に血を流さず公武一体となり乗ろうと言う考えなのだ、西郷は孝明天皇の考えを理解していなかったのである。自分の愚かさ、そして既に始まってしまい今からでは止められないあやまった指示を出してしまった。食欲どころではないのである。

「源左衛門おるか?」典医伊良子が休憩所へ入ってきた。

「はい、ここにいます」と返事と共に横になっていた源左衛門は飛び起きた。脇で寝ていた、海四朗(俺)も飛び起きた。

「薬食の用意は出来ておるか?」と典医伊良子が言った。

典医伊良子の許可が無ければ薬食を作ることが出来ない。

「はい、準備できております」と源左衛門が答えると。

「統仁様お腹が空いて何か食べたいそうだ本日の薬食を頼む」と言った。

海四朗(俺)は、だいぶ早い、先程会議の後の宴が終わったばかりなのにもうお腹が空いたのか?と、思いながら源左衛門と内台へと向かった。その時体が何故かふわふわとした様な気がした。なんか変だ、足が思う様に動かない、歩くと曇の上を歩いているようだ。何ともいい気持ちがするが体が思う様に動かない。

「すいません。伊良子様トイレに行って来てもいいですか?」と海四朗(俺)は咄嗟に言った。

「おいおい、なんだ、後にならないのか、源左衛門一人で薬食作れるか?」と典医伊良子は源左衛門を見た。

「はい一人で大丈夫ですが、海四朗お前情けない奴だ」と言った源左衛門は、海四朗(俺)を見て言葉を失った。海四朗は、立ってはいるが、まるで幽霊の様に見える、目はうつろで右手と左足が小刻みに震えている。源左衛門は海四朗(俺)に「早くトイレに行け!」と言うと内台所へ入り薬食の調理にとりかかった。

鍋に出し汁を張り、醤油と塩で味を調え、そこに猛毒のふぐの卵巣を入れた。少し煮立たたせた後、水で洗った飯を加える、浅葱を散らして最後に溶き卵を少々加えると真砂粥となる。熱々の所を椀に盛り、生姜のしぼり汁を少々かける。後から典侍紀子が内台所に入って来た「あら美味そう!」と源左衛門の作る真砂粥を見て言った。

伊良子光順は腕を組んで何も言わず見ていた。

薬食は飲み薬の様な薬ではない、天皇の体調不良の時や病気の時などに消化の良い食べ物や、小腹がすいた時などに食べるおやつ、軽い夜食などの事を言う、朝食、昼食、夕食、以外の全ての食べ物を宮中では、薬食と言うので有る。そうなると宴の時に出された料理も厳密に言えば薬食なので有る、天皇の口に入る食べ物は全て典薬寮、天医の指導許可によって作られるので有る。天皇の食べ物は全て典医と料理を作る高橋家、により厳重な管理の元天皇に提供されるのである。 

その頃、海四朗(俺)はよろよろとトイレに向かって歩いていた耳はきこえるのだが身体が思う様に動かない、そんなに遠く無いトイレに向かって、歩いてはいるがふわふわと曇の上を歩いているようで中々進まない、先程休んでいたトイレ手前の休憩室に転がり込んだ、誰もいないようだが、目の前に霞がかかった様でよく見えない、その時左腕に貼ってあるバックタイムペーパーが、『ピピ、ピピ、危険、ピピ、ピピ、危険』と鳴り出した。まずいこのままでは、海四朗と一緒に死んでしまう早く停止ボタンを押さなくては、しかし体と手が動かない左腕のバックタイムペーパーまで何とか右手を伸ばすが目が霞んで停止ボタンが見えないバックタイムペーパーに手は触れたが気が遠くなり気を失った。

「明政さん」夏子の声がする。

どれ位時間がたったのだろう?

「明政さん大丈夫?」やっぱり夏子の声で目を覚ますと夏子の顔が目の前に有った。

「うわーあ!俺は飛び起きた、はあー、はあー」と俺は大きく息を吸った。

「何よ!ひどいはね。うなされて居るから心配したのに、何か有ったの?」と夏子は心配そうな顔をして言った。

「はあー、はあー助かった。危なかった!」俺は汗びっしょりで言った。

「何か有ったの?汗かいて、右手にバックタイムペーパーを持っているけどはがしたの?」と夏子が俺の腕を見て言った。

俺は自分の右手を見た、バックタイムペーパーを持っている、薄れる記憶の中でバックタイムペーパーを自分ではがしたのだ、助かったと思った。

「ねえ大丈夫なの?」夏子が又心配そうに言った。俺は手で汗をぬぐいながら「ああ夏ちゃん大丈夫だ、でもあぶなかったー乗り移った海四朗が突然、体が動かなくなる、目が見えなくなる、気持ちいいと思ったら、息苦しくなる、ヤバイと思ってバックタイムペーパーの停止ボタンを押そうとしても手は動かない、どこが停止ボタンなのか目が霞んで見えない、記憶はないけど、きっと俺、力振り絞ってはがしたのだな?」と夏子に説明した。

「殺人犯人までふぐ食べたらダメでしょう」と夏子は、少し笑いながら言った。

俺は「え、ふぐ?」とキョトンとした顔をして言った。

「そうよ、明政さんの今の話しの症状はテトロドトキシンの症状よ、体は動かないけど耳は聞こえていたでしょう」と夏子は平然と言った。

「確かに耳だけは聞こえていたような気がするけど?」と俺が答えると、夏子は、静かに、「ふぐ毒のテトロドトキシンは神経毒よ、耳には神経が無いでしょうだから音だけは聞こえるの、最後は肺の神経を犯して呼吸困難で死ぬのよ、明政さん危なかったわね」と言った夏子は冷静である。俺は慌てて、

「あ、こうしては居られない。戻って孝明天皇毒殺の真実を確認しなくては」と言って立ち上がろうとした、すると夏子の顔が先程の優しい顔から急に変わり「なんですって、又行くの、死にかけたのよ」と鬼の様な形相になった。

俺は、海四朗と一緒に死にかけた、夏子の気持ちも分かるが、この毒殺事件に乗り掛かった船だ、最後まで確認したいと思い言った。

「そんな顔するなよせかくの美人が台無しだ、今度は英照皇太后の典侍モンキーレディーの竹中鈴子に乗り移りうつるから大丈夫、孝明天皇毒殺とは関係の無い人間で毒殺事件も近くで確認出来る」と夏子を安心させる様に穏やかに言った。

「はあ、モンキーレディー?何それ、竹中鈴子、女の人に乗り移るの?大丈夫なの、安全なの?」と夏子は口早に聞いてきた。

今から直ぐに戻らなくてもバックタイムペーパーならば明日にでも又、宮中の同じ時間、同じ場所へ行く事は出来る、しかしトイレで大きい方を半分で出てきた様な気分で後味が悪い、今から宮中に戻って今までの記憶が鮮明な内に毒殺事件を確認したいのだ。

「海四朗の事も心配だし、今度は絶対大丈夫」と俺は夏子の同意を求めた。

「仕方ないわね!明政さん思い込むと、とことん追求するから、ただ今度乗り移る人は女の人でしょう、お風呂入らないでね」と夏子は不満そうに言った。

おいおいそっちかよ!と思ったが俺は

「了解しましたお風呂は入りません」と言った。そして慶応二年(一八六六)十二月二四日休憩時間の終わり五時四五分、宮中、竹中鈴子と打ち込みバックタイムペーパーを左腕に貼って実行ボタンを押した。

竹中鈴子に乗り移った俺は、本台所(御厨子所)にいた。

「すいません、英照皇太后あさこ様の寝屋準備に行って参ります」と竹中鈴子(俺)は、典侍長に噓の報告をした。急いで内台所へ伺った、目線が低くて胸が重い女だから仕方ないと思いながら。内台所の入り口から中を覗き込んだ。

「紀子、統仁陛下は部屋に戻られているか?」典医伊良子が、匙だけ乗った空のお膳を持って薬食ができるのを待っている紀子に聞いた。紀子は伊良子の方を向くと「はい、陛下は部屋にお戻りになられております」と答えた。

「よし、わかった。源左衛門!」と、伊良子が源左衛門を見た。

「本日の薬食は真砂粥にございます」と、源左衛門は真砂粥を紀子のお膳に乗せた。

「では参ります」と何も知らない堀川紀子はお膳を持っていつものように運んで行った。

典医伊良子と源左衛門は紀子の後姿を震えながら見ていた。

一方、竹中鈴子に乗り移った俺は、紀子に見つからない様に隠れ場所を変え内台所入口反対側の柱に移った、先ほどと同じく気付かれない様に内台所の中を確認した、背が低く近眼なので中の様子が見えないが、耳は兎並みに良いので声は聞こえる。

毒入真砂粥の薬食のお膳を持った紀子と廊下ですれ違う様に本台所(御厨子所)の先輩板前の佐山が内台所にやって来た、内台所の入口で、「源左衛門薬食出し終わったか?これ短冊に切っておいてくれ」と言うと大根を源左衛門に見せて大根を持ったまま廊下を戻って行った。

「あ、はい只今行きます」と、源左衛門は、本台所(御厨子所)へ行こうとした。

「待て!源左衛門残った真砂粥を捨ててから行け」と、典医伊良子は言うと何事も無かった様に典薬寮室へと戻っていった。

源左衛門は、真砂粥を全てすてると速足で本台所へ向かった。

柱に隠れていた竹中鈴子(俺)は、内台所に誰も居なくなるのを見ると急いで休憩室へ海四朗を確認しに行った。休憩室の入り口で海四朗は倒れていたが息はしている、体は動かないが声は聞こえているはずだ、「あらー海四朗さんじやない!駄目よ、こんな所でサボっていたら、サボるのだったら畳の上できちんとサボりなさい!」とわざと言って、海四朗を休憩室の窓際の畳の上に運んだ、その後速足で本台所(御厨子所)に戻ると「鈴子!何処に行っていたの!あさこ様が寝屋の準備に誰かよこしてと言って来たわよ」と典侍長が怒った顔で言った。

「すいません、あさこ様の寝屋の準備に行こうと思っていたら急にお腹が痛くなって、トイレに行っていました」と噓を言った。

「しょうがない子ね、早く行って!」と典侍長は怒りながら言った。

竹中鈴子(俺)は、急いであさこ様の寝屋の準備を終え自分の部屋へ戻った。

二時間後、宮中は少し慌ただしくなった。

廊下を典侍達が行き来する足音が聞こえる。

ふぐの毒は、テトロドトキシンと呼ばれる神経系の毒である。通常の調理法で無毒化や除去する事は出来ない。体の麻痺がおこり、呼吸中枢が麻痺し、呼吸困難で死んでしまうのである。

廊下で、孝明天皇担当の典侍達の話す声がした。

「統仁様ふわふわ空を歩いている様な感じがされるって」と一人の典侍が言っている

「えー、お熱は?」ともう一人の典侍が言った。

「無いようよ、気分がとっても良いと」

「なんだ、それなら問題はないじゃない」

「でも、典医様に一応連絡したね」

「そうね、その方がいいわね」と、ひそひそ話している。

そんな会話を聞きながら英照皇太后あさこ様担当の竹中鈴子(俺)は、海四朗がどうなったかを心配していた。

一方源左衛門は仕事が終わったのに帰って来ない海四朗を休憩室の畳の上で発見して自分達の部屋に連れ帰っていた。長州藩の源左衛門は子供の時からふぐ毒に当り、亡くなった人達を数多く見て来た。休憩室で海四朗を発見したとき海四朗の症状を見て直ぐにふぐの毒に当たったのだと気付いた。毒に当たったからと言ってすべての人が死ぬわけではない。助かる人もいるのだ。海四朗の行動を考えると卵巣の薄幕を切ったとき、誤って切った指先を舐めたくらいである、そのくらいの毒なら死ぬ事は無い。助かれば、何の後遺症も残らない、そして本台所(御厨子所)脇台所(小御厨子所)の板前達や典侍達も誰も知らないのだ。

思い出せば源左衛門の父はふぐの毒に当り死んでいる。子供だった源左衛門も毒に当たったが、食べた量が少なかったのか助かった。食べて二十分くらいで手の指がしびれて、叩いても痛くなくなった。ふわーっと気分が良くなってきたかと思うと、息苦しくなった。しかし、周りの人の声ははっきり聞こえ、目もちゃんと見えるのだが体が重くて、思うように動けない。母が布団の所まで運んでくれた所までは覚えている、気が付くと朝になっていて、隣を見ると父はすでに死んでいた。

母が泣いていたが源左衛門が目を覚ますと、母は良かったと、源左衛門を抱きしめた。

「海四朗頑張れ、明日朝には何も無かった様に元気になる、お前の分は俺がやりとげた。後は、俺達に出来ることは無い。伊良子様にまかせるのだ、頑張れ海四朗明!明日目がさめたら俺が抱きしめてやる」と源左衛門は、静かに寝ている海四朗に言った。

宮中の廊下がまた慌ただしくなった、孝明天皇担当の典侍達の会話の声が大きくはっきり聞こえた、その中には堀川紀子もいる。

「なんか、息をしていないそうよ」

「えー」

「伊良子様、馬乗りになって心臓の所を、何回も押したりしている」

「大丈夫かな、統仁様・・」と孝明天皇担当の典侍達は話している。

一回目のタイムトラベルでは、毒殺犯の一人海福原四朗に乗り移り、二回目のタイムトラベルで英照皇太后あさこ担当の典侍竹中鈴子に乗り移り宮中事件の全てを知った。何とも後味の悪いタイムトラベルとなったが、俺の見られる事はここまでだと、竹中鈴子の腕をめくりバックタイムペーパーの停止ボタンを押した。

慶応二年十二月二十四日午後十一時三十分

典楽寮、伊良子光順はじめ他の典医五名の治療空しく、孝明天皇は三十六歳の若さで亡くなった。

孝明天皇崩御の死因は、持病の肛門脱に加え

天然痘によるものと四日後に発表された。


  七、包丁式の継承

「六方芋湯がき終わりました」と加藤君が言った。

俺は、「お、そうか素湯でして、糠抜きをしておけ」と指示を出した。

「はい解りました」と加藤君は元気に言った。

里芋は六方の形に皮を太鼓に剥く、糠と鷹の爪をひとかけ入れ水たっぷりで灰汁抜きをする、中火で沸かさないように煮る、そうしないと芋が崩れてしまうからだ。芋は竹の子程ではないが灰汁が多い食材だ、灰汁は旨味でもある為抜き過ぎても芋の旨味が無くなってしまう、適度に灰汁を糠に吸い込ませるため芋のあく抜きに糠を使う。ある程度あくが抜けたら流水でぬかを洗い流す、次に味付けといきたいが、そうは行かない、あくは適度にぬけたが、糠の味が芋に染みてしまっているので素湯で茹で、糠の味を抜く、糠抜きをするのである。面倒な芋の下処理だが、だし汁の旨味をたっぷり吸い込ませた芋をお客様に提供するためだ。

煮方と立板になった俺は、煮物の下処理や味付けの煮方の仕事と、各部所へ指示を出す立板の仕事も同時にこなさなければならない忙しい。

昼席と夜席の桃山亭の仕事が終われば夜十一時頃から毎日のように父から庖丁式の稽古である。

既に切汰図を見ると、どの様な形でも切ることが出来るまでになった。

今日の式題は、式の鯉である。まな板の上に切汰図と同じく、身を置いた。最後に、包丁で尾を立てる。立てた尾を、今度は箸と包丁で拝む、鯉は清められて、天皇が食べる食材へとなった。まな板の下から、扇子を取り、袴に刺す。袴に手を入れ、少し持ち上げ、膝をついたまま擦りながら後ろに下がり、まな板から離れる。身繕いを崩し、手と手の間に鼻を突っ込んで礼をした。

「よう出来た。最後の石畳もよく出来た」と父は嬉しそうである。

「ありがとうございます」と笑顔で言った。

「明政、九十種以上の切り方の中この式の鯉は、一番細かく、難しい。

おだてるわけではないが、お前は筋が良い、進士流庖丁式を何処で披露しても大丈夫だもちろん、今後疑問や質問があれば何でも聞け」と父は胸を張って言った。

「はい、お願いします」

「ところで、鳥の方は?」

「はい、鳥も、ほとんどやりました。後は、毛鳥と山海の手位です」と答えると、

「そうか後で千年鶴の切汰でも確認するか?

明政が師範代として板場の皆に教えてくれているからわしも楽できるわ、ワハハー」

数日後、俺は進士流の師範代として、上級者達の包丁式の練習を行なっていた。

稽古歴の長い上級者達でも常に初心に戻って稽古をする。

「加藤君、背を丸めるな」

「柴田君、畳から足を上げるな。すり足だぞ」

「谷口君いいぞ!公家のすり足、その調子だ」

「安藤君、肩を落とせ、力が入りすぎだ」

「今井君、ロボットじゃないのだから・・・もっとゆっくり、柔らかくだ」

俺は、五十間流道場へ入門した時の兼行さんの事を思い出しながら指導をしていた。

今年から桃山亭に入った新人達の指導は先輩板前達が丁寧に指導している。

先輩新人を問わず皆は包丁式の稽古に熱心に稽励んでいる。

すり足の歩き方から礼等の仕方、持出の儀、組み付けの儀、仕舞いの儀、奉納の儀と進んだ。包丁式には、現代には、あてはまらない決まりや作法が多く有る。

その代表的な物が歩き方だ、現代ではそんな歩き方はしない、すり足で歩く歩き方や、畳の上に両手を付いて礼をする挨拶するなど無い、立ったままの礼か握手で有る。

手の使い方も全て手のひらを上に向けて下から物をつかむ、手のひらを下に上から物をつかんではいけないのである。

上から手のひらを下に物をつかみと、うんこ握りと言われ下品だ、日本古来は手のひらを上に向け握る事を順手、手のひらを下に向け握る事を逆手と言った現代と逆なのである。これらの事以外にも現代と古来の違いは多々あるが、毎回初心に戻り繰り返し練習する事で自然に包丁式の基本作法が出来る様になる。

「皆、集まって下さい、今日は、私が長久の鯉を切ります。

包丁式稽古歴の長い

皆さんには、今まで色々な切汰を見せてきましたが、本日の切汰は簡単で宴などでもよく見せる式題なので覚えてください、説明しながら切りますから、よく見てください」と身づくろいをし、まな板へ寄った。

「まずは、まな板しらべ、右手左手の親指をまな板の中央に付け、両方いっぺんに開く、この時まな板がガタガタしないか、しっかり確認して下さい。

次に、箸、包丁を同時に取り、空中で合わせ、胸の前まで持ってきて、左手で十字を作り、親指でしっかり押さえて、右手で肩から二度、肘から一度撫でます。

次に、箸、包丁を大きく左右同じに開いて、板紙を切ります、板紙は三分の一切って、波を作り、作った波を陰陽返して、上の板紙を三つに折って、鯉の腹に突っ込んで腹を洗います、汚れた板紙は、取り出して残った板紙で包んで、包丁、箸で五行に置いて、箸を陰に構え、包丁で板紙をまな板の下へ落とします。加藤君、この後の水撫は何ですか?」と俺が聞くと加藤君は、「はい、太子です」と元気良く答えた。

「その通りです、包丁は、朝拝に大きく太子を描くようにゆっくりと、箸は後から追っかけてきます。箸と包丁は、四徳で合わせ、松葉先を三角形にして、五行までゆっくり戻り、箸を立て、包丁で水撫を三回します。包丁の水切りをして、鯉を返して、同じ事をもう一度繰り返します、包丁で、又水撫を三回して、鯉の頭から数えて鱗三枚目から尾まで包丁で撫でます。谷口君、これを何と言いますか?」

「え、俺ですか、えーとなんだっけ?」谷口君は両手で頭を抱えた、その格好を見て皆は、又「ワハハー」と笑った。

「では柴田君分かりますか?」

「はい、澡分けです」と柴田君が答えた。

「澡分けは、鯉が清められました。という意味です。これから切汰に入ります。まず、鯉を包丁で立て、背をかり、かった背びれは、手前に置き、これを四等分にして、長という字を作ります。頭を切って、水口(鯉の口)を宴酔に向け、このように置き、箸と包丁で波分けの鰭(頭のすぐ下の鰭)を開き、頭がころりとひっくり返らないように安定させて、身を三枚に卸します。右板左板は、腹を合わせ朝拝へ置き、骨で久という字を作ります。尾を小さめにとって、四徳によけておき、骨の宇名元(背の頭よりの骨)を小さめに切って、背びれで作った長の下へ置きます。最後に、四徳に置いた尾を庖丁に乗せ包丁を、三度回し、ダンっと久の字の右下へ置ます、するとほら、久と言う字になりました」

皆は、パチパチと手をたたいた。俺は包丁を三度回して言った。

「仕舞い包丁をしてまな板より下り礼をします。これで終わりです。切り方の手順も簡単でしょ?では、加藤君やってみて」と長久の鯉の切汰を加藤君に促した。

「はい」と、元気に言った加藤君は、まな板に鯉を置き全員が見守る中緊張しながらも最初の包丁式の切汰を始めた。

板場の皆は、帰りが遅くなることも気にせず、むしろ楽しみのように稽古に励んでいた。

進士流の包丁式に使われる道具は主に俎板、包丁、真名箸、板紙、と四種類ある、俎板の寸法は流派により違いがあるが、

大俎板、幅四尺三寸、奥行二尺四寸、厚さ四寸、足の高さ三寸五分、

中俎板、幅三尺三寸、奥行一尺八寸、厚さ三寸、足の高さ三寸六分、

小俎板、幅二尺七寸五分、奥行一尺六寸五分

厚さ三寸、足の高さ二寸五分、と三種類有る。

俎板には全て名前があり向かって右上を朝排、左上を宴酔、右下を四徳、左下を五行、そして俎板の中央を式と呼ぶ。

包丁は流派事に違う。先のとがった剣形をした物、脇差の様に刃先の丸まった物、又は青龍刀の様な物と流派により違い、包丁の形で何流かが分かる、寸法も様々だが一例を上げると目釘の穴より九寸、包丁のまち、より目釘の穴までを一寸とする、つまり包丁の長さは八寸となる。柄は一位の木で作る。箸は、真魚箸と言い魚専用の箸だ、ちなみに野菜専用の箸は菜箸と言う。

寸法は包丁と同じく鉄の部分が八寸で柄の部分は四寸で有る、又柄の元に銀を巻く、銀は毒により変色する為、万が一毒が混入されても素早く知ることができる。包丁、真名箸共柄までの長さを揃えた方が良い、板紙は俎板の上で使用する紙の事で、布巾の代わりである。寸法は幅一尺八寸奥行一尺三寸の和紙で大奉紙と言う奥行を半分に折り、横半分折りの四つ折りとして食材を清めたり魚や俎板、包丁、真魚箸を拭いたり、時には包丁で切って幣束を作ったりと様々な使い方が出来る便利な紙である。

その他にも包丁式を執り行うに三宝の寸法や衣装等々と多くの決まり事が有る。

稽古は、板前だからと言って割烹着では行わない必ず白丁と言う白の着物と白の袴で行う。実際の稽古では、切り方の絵、切汰図を確認しながら行う。

進士流の鯉の切り方、切汰は、文献に載っているだけで、式之鯉、祝之鯉、婿取り嫁取り之鯉、元服之鯉、屋渡之鯉、姿鯉、八刀之鯉、御前包丁、後来之鯉、川南浦之鯉、無目之鯉、初雪明之鯉、無鰭之鯉、戦場之鯉、釣殿之鯉、犬馬場之鯉、泉之鯉、神紙之鯉、鰭立之鯉、嫁鯉、筏之鯉、尾立之鯉、龍門之鯉、大鯉、簾包之鯉、肴之鯉、三曲之鯉、矢之鯉、花見之鯉、移徒之鯉、大鯉切、両身下魚身体之鯉、四季之鯉、長片身下之鯉、両身下之鯉、鰭隠之鯉、掛之鯉、法之鯉、陰陽之鯉、神前之鯉、雪朝之鯉、季節之鯉、と四十二種類の切汰が有る。

一度切っただけでは、覚えられない、しかも鯉以外に、鯛や平目、鯧(真名鰹)蟹、海老、鮑、と魚貝類の切汰は無数に有る。そしてこの他に鶴、鵠(白鳥)雉、雁、と鳥も数々有る。

歴代の進士流の包丁師達も全部覚えていたわけでは無く、その時の儀式に合わせ式題を選び切汰図を確認して切っていたのだ。

板場の皆は次は、なにを切ろうかと進士流の切汰図を見ながらわいわいと話をしていた、そこに親方が白の着物に袴(白丁)で座敷に入ってきた。

「おはようございます」全員が慌てて座して礼をした。親方は歩きながら、包丁と真魚箸を鞘から抜き、

「皆頑張って包丁式の稽古励んでいるようだな。全員が数々の鯉の切汰が出来る様になったと、明政から報告を受けた。

今日はわしが鶴の庖丁式を見せるから、全員わしの前へ集まってくれ」と言うと親方は俎板の脇に座った。

「はい」「有難う御座います」と全員が親方の前に集まった。親方は俎板の上の準備をしながら、

「鶴は、昔から貴重品で天皇の前で行う事しか許されなかった。現代では、国の天然記念物にも指定されているため、鶴を、捕獲することは出来ないので、代りに鶏を使う」と、部屋のすみのテーブルを指差し「明政、俎板に鶏をセットしてくれ」と言った。

「承知しました」と俺は、作法に乗っ取りまな板の上に鶏をセットした。

身繕いをした親方が、まな板の前に座り説明が始まった。

全員が緊張して親方を見ている。

「鶴の切り方は、舞鶴、真千年鶴、早千年鶴、鷹の鶴、祝鶴、式の鶴、草鶴、寿の鶴、扇鶴、その他数種類の形がある。今日は、式の鶴を切る、本来無言で行うが、皆に分かるように説明を加えながら切るから、よく見るように」と言うと、親方は、まな板にセットされた鶏(鶴)に向かい懸りに入いった。

「板紙を三つに折り、まな板の前を撫で、鳥分けをする。左右の羽を開き、ここで一度箸を崩し、両足を素手でつかみ足の筋を切り、足を左右に開き、ここで一度目の呪文をいうからよく聞いてくれ、御鶴御足御*****だ、次にももと足を切り分けこの様に置く、次に箸を崩して素手で羽を掴み、左右と羽を切り取る。羽を包丁で二度ほめ、箸で一度ほめる。箸を組み直し、頭を突き出して、首の骨の所を包丁でつき回し切る。ここで胴を引き回し、手前に向けたら中央に箸を立て二度目の呪文を言うぞ、御式御鶴御頭*****だ、次に包丁を立て、首から頭を切り離す。まな板の式の上に、切り離した頭をこの様に置く、次に羽を上に向け、このように置く、切った股は、四徳上への所へ式と言う字のようにするぞ。胴の身は、左右と羽の下へ置く。最後に、両足の爪を上にして五行へこのように置く。箸庖丁で頭を拝み、最後の呪文を唱える。本来なら、秘事なのだが現代、天皇の前で鶴庖丁をすることはないので、皆には教えておく、式久阿羅下那州多唖安泰鶴須盡有情瞧放不、これで終わりだ」と親方は仕舞い包丁をしながら言った。

息を止め、食い入るように親方の包丁さばきを見ていた皆は、声を出した。「凄い」「うっはー」「お疲れ様です」

「明政!鶴、鵠(白鳥)その他の鳥の呪文をかき出し皆に教えてあげなさい」と親方は立ち上がった。

「はい解りました。皆、次の稽古は鳥で、水撫切汰の稽古だ、気をぬくなよ!」と俺が言うと、皆は「よしや!」「がってんだ!」「頑張るぞ!」と声を上げた。

桃山亭の包丁式の稽古は日々行われ進士流の包丁式は、俺を始め板前達へ受け継がれて行く、そして俺には代々伝わる進士流の料理、包丁式、儀式作法を継承し後世に残すと言う使命があるのだ、気を抜かず頑張るつもりだ。


八、桃山亭

日本は高度経済成長期に入りバブル経済に湧いている。桃山亭も昨年のおせち料理の注文、そして年が明けての新年会の予約と商売繫盛である。

板場は忙しく現在の板前では足りず、四月からの新人板前の募集を調理学校や職業安定所へ出し板場の人数も増えた。

日本料理を扱う桃山亭の板場の人数は今年入った新人を入れると八名になり、そこに親方、立板の俺を入れると板場十名体制なのである。

観光ホテルでもないのに!給料だけでも大変と思うのは当然で有る。

毎日数百人の料理を提供する桃山亭だが板前の人数はそんなに必要なのか?

その答えは、日本料理の料理形態にある、名前の如く桃山亭は、料亭で有る。

料亭の提供する日本料理は、ほとんどが会席料理、だからである。

通常日本料理と言えば、蕎麦、うどん、寿司、鰻、刺身、天麩羅、などを想像する、これらは全て会席料理の中の一品を抜き出した物なのである。

つまり会席料理店、料亭は寿司からうどん蕎麦まで扱うので料亭の板前達は、日本料理と言われる全ての料理が出来なければならないので有る。

それに加え日本料理独特の会席料理献立の仕組みにもある。

日本料理の会席料理の献立を立てる場合、調理技法、の違いで立てる。

焼き物、煮物、揚げ物、生の物、酢で〆た物、などである。

調理技法で分けているので食材は同じで良い。

焼いた魚、煮た魚、揚げた魚、生の魚、酢で〆た魚、などと食材は全て魚でもよいのである。

そして味の中心となるのは乾物から抽出した出汁となり、味付は塩、醬油、味噌、で付ける。

簡単に言うと鰹節と昆布で出汁を取り塩、醬油、味噌で味を付けるので有る。

トマト味とか、玉蜀黍味とか、牛乳味などは無いこれらは食材で調味料では無い。

調理技法で、献立を立てる日本料理に対して食材の違いで献立を立てるのが、フランス料理をはじめとする西洋料理だ、魚料理フィッシュ肉料理アントレ野菜料理サラダなどである。

中国料理の献立は、食材、調理技法に関係なく薄い味の物から段々と濃い味の物を出していく献立となる。

世界には色々な考えかたがあるので有る。

日本料理の専門店ならば沢山のお客様が入いっても板前の人数を抑えられるが、全ての技法を扱う料亭となるとそうはいかないので有る。

単品メニューの日本料理の店に比べ料亭では全ての技法味付を身につけなくてならない為修行は辛い、板前十人中、二人残れば御の字なのである。

しかし桃山亭の板前達は、皆元気で辛さなど気にしていない。

そして日本料理は、いくつかの種類に分ける事が出来る。

桃山亭で扱う会席料理これは字のごとく会食や会合、知り合い皆が集まる場の時に出される、お祝事や法要など人が集まる所に出され多少の決まり事を守れば自由な料理と言ってもよい。

焼物にフランス料理のローストビーフが出ても、口直しに中国料理のエビチリが出てもよいのである。

それに対して懐石料理は決まり事や作法などが多く決まりの料理と言って良い。

懐石について説明する前に伝えなくてはならない事がある。

テレビやラジオ広告などで、見たり聞いたりするが、料理人からすると?なんで?と思う事が多々ある。

懐に石と書いてかいせきと読むが意味が解らないのが普通だ、胸ポケットや内ポケットなどと違い、和服の場合胸と帯との間に懐が出来る、懐には大事な物を入れる、小さな護身用の刀とか、財布など昔の人は、今日は懐が寂しいなどと言った。

つまり懐に入っている財布にお金があまり入っていないという事だ。

字を読むと懐に石を入れる?

昔は、お坊さんになるには、長くつらい修行が必要だった、お坊さん修行中の人間の事を雲水と言う。

この雲水達の修行は過酷で食事と言えば雲水粥飯と言い応量器で食べる毎日毎回お粥なのである。

おかずと言えば、梅干と沢庵、塩、最後にお茶だけで、若い雲水達には過酷な食事事情なのである。

特に冬は暖房も無く空き腹にはこたえた。

そこで考えたのは落ち葉などを集め焚火をしてその中に小石を入れる。

熱くなった小石を取出し布で包み懐の中へ入れた。

現代の暖カイロの様だ、胃が暖められ少し食べた様な気になるので有る。

雲水達が飢えを凌ぐ為に行っていた行為が

後に懐石と言われる様になった。

別名を温石とも言う、実際に食べた訳では無く胃を温めただけなので懐に石を入れた位の軽い食事と言う意味で使われる。

懐石の下に料理を付けてしまうと軽い食事料理と意味不明の事となってしまい、本来は、懐石の下に料理をつけるのは間違いである。

会合や会食の席に出だされる何でもありの会席料理に対して作法決まり事の多い懐石は、茶事の時に出される。

空腹時の胃に濃い抹茶は良くない抹茶の刺激を緩和し美味しく飲むために、懐に石を入れた位の軽い食事を取るのである。

最初に折敷と言う平盆が出される盆の上には、向付、飯、味噌汁、が載せられてある。

向付は、季節で取れる魚を昆布占めにして煎り酒が掛けられる、飯は、炊き立てを一口だけ載せるこの一口の飯の盛り方で何流の流派かが解る一口大の丸なら表千家、一口大の一文字ならば裏千家となる。

次に煮物椀が出される名前では、椀に盛られた煮物と思われるが、どちらかと言うと吸い物の様に汁が多い

続いておかわりの御飯が飯器で出だされ、自分で食べられる分を自分の器に盛る、折敷の味噌汁の汁替えが行われ、強肴(焼物)預け鉢(炊合せ)箸洗い、と続きいよいよメインイベントの八寸となる。八寸とは、二十四センチ角の白木の器の事と言い、山の物、海の物が対角線上に懐石の人数分より一名分多く盛られる。

この八寸と燗炉に入れられた酒で、招待客と亭主の間で、刺しつ刺されつの作法が始まる。

これを千鳥の盃と言う茶事の経験のある人は、理解出来ると思うが、作法を覚えるだけで何年もかかる、最後に湯桶と香の物が出て懐石終了となるが最後に招待された客は自分の食べた器を持参した懐紙で綺麗に拭き清める。

全員が拭き終ったら一斉に箸を折敷の上に落とす。

その音を水屋で聞いた亭主は、折敷を下げに出て全て折敷が下げられた時点で懐石の終了となる。

作法と決まりの多い懐石は簡単に食べられるものではない、茶事の経験を積んだ者達だけが楽しめる料理はなのだ。

桃山亭では茶事の依頼があればお受けする、表千家、裏千家、武者小路千家、などの三千家を初め川上不白流や藪ノ内流と各流派に合わせた懐石を提供する。

各流派共に違いがあるのでお茶の家元や先生との密な打ち合わせが必要となる。

家元好みと言い、当家の家元は、鯛が好きだとか鮑の煮物椀を食べたいなどといった注文が入る、昔からのわびさびの質素な懐石から現代では贅沢な懐石と変わりつつある。

そして祝い事や法要時の包丁式の以来、出張料理の依頼まで受けるので親方、女将を始め板場、仲居はてんやわんやで有る。

「少し注文の受付を制御しなくては・・」と親方がぼそっと言った。

「え?予約や注文が入っても取らないと言う事ですか?」とおれは驚き親方を見た。親方は調理場の机の上に両肘をついて、「ああ無理して取っても、料理の質や味が落ちてしまうからな、それが店の衰退する原因になる」と難しそうな顔をして言った。

「えーどんなに忙しくても板場は手を抜いたりはしません」と俺は毅然と言った。

親方は、笑顔で俺を見ると「おー頼もしいな、その息で頼んだぞ」と言った。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」と仲居の声がした。

親方は、「話は後にしょう、お客様は神様だ」と言いながら立ちあがった。桃山亭の昼の部のテーブル席は十一時から、十二時半までと、十二時半から、二時までと一つの席が二回転する。この他に座敷に法事や祝い事の予約席のお客様が入る、日によって違うが予約無しのテーブル席のお客様が五十人、法事や祝い事の予約のお客様が五十人とすると、毎日百名のお客様が昼の部に来店する事となる。

毎日の営業が昼の部だけなら良いのだが、そんなに甘くは無い、夜の部があるのだ、夜の席はほとんどが予約の会社接待客が主だ。

しかも一組の予約の人数が多い、今日の夜の部のお客様は、四十七名様と、二十三名様の二組の予約が入っている為、仲居達と板場の皆は、立ったまま昼食の飯とおかずを掻き込む。

谷口君の作った賄い料理だが美味しく感じる、食事の最後に麦茶を飲むとすぐに夜の仕込を始めた。

ここの所夜の部の予約が多く休憩を取れないことが有る、そして夜の部の仕事も終わり、片付けをして包丁式の稽古で有る。

包丁式の稽古は、習い事であって給料の発生する仕事では無い。桃山亭の板前達の拘束時間は何と一日十六時間にもなるのだ!世間から言うと桃山亭は、立派なブラック企業なので有る。

しかし誰一人として文句を言わない。文句どころか皆は嬉しそうにも見える。

「あー疲れた」とソファーに座ると、ふと昼間親方が言っていた事を思い出した。今は、料理も接待もクレームもなくお客様に満足して頂いていると思うが、これ以上忙しくなったら危険かもしれない、盛付が雑になったり、接客が疎かになったりそんな些細な事から客足が遠のく可能性もあると、今後の事を考えると少し不安になってきた。

「明政さんぼーと考え事して、ビールどうぞ」と夏子がソファーの脇に座った。

「有難う、気になる程の事では無いけど親方が少し、お客様の注文を控えた方が良いのではないかと言うから」

それを聞いたた夏子は頷きながら「へー流石親方ね、料理人の感覚って、鋭いわね、お客様の予約や注文を控える事賛成だわ、私だったら今よりももっと前にやっていたわ」と言った。

「え?夏ちゃん?」俺は言葉を失った。

夏子は俺の前のソファーに座ると烏賊にマヨネーズを付けてかじるとビールを一口飲んで喋り始めた。

「桃山亭は翠光亭に比べて厨房が狭いけどその分板前も少ないからバランスは良いと思うわ、でもお客様が座れるテーブル席の数は桃山亭の方が多い、だからテーブル席が満席になると、少ない板前で多くのお客様の料理を作らないとならない、でも皆慣れていると言うか、優秀と言うか、料理の手抜きもなくお客様は皆様喜んでいるわ、今のお客様の数の来店ならば昼の部は合格ね。

問題は夜の部の予約のお客様の数ね!翠光亭座敷は全て小間に仕切られていて、多い人数のお客様は入れない、それに対して桃山亭は近代的な作りで小間の仕切りを取れば大広間になるから多い人数のお客様も扱える。

栃木は多人数の宴会が多いけど、京都は観光客などの少人数のお客様がほとんど。

板前の少ない桃山亭では夜の部の予約のお客様の数が多いと今日の様に休憩が取れなくなってしまう。

だから親方の言うように予約の制限をした方がいい訳、でも商売だから、店の都合で予約の制限をしてしまうと、売上と利益がへる。それは料理の価格を見れば分かるわ、翠光亭の親方(父)も、桃山亭の親方も同じお店で修行したからお料理の味や盛付、使っている食材などほとんど同じだけど、料理の価格から言うと同じ竹籠膳でも、桃山亭の方が五百円安いわ、内容は竹籠に盛られた焼き物、焚き物が入った八寸と刺身、吸物、ご飯、香の物と葛切り、抹茶までどちらも同じだから、お客様は栃木に居ながら京都の味を堪能出来て価格が安いと大喜び、だけど利益率は少ないわ。

そして女将や仲居達の接待も、親方の献立も板場の料理も一切手を抜かない。

親方や女将は明政さんや嫁の私より何倍もの気を使っているわ、女将も親方もプロとしてのこだわりとプライドがあるのね。

でもそれを続けていると、張りつめた糸がプチと切れるか、気づかない内に少しずつ料理の手抜きや接待の手抜きが起こるの、本人が手ぬきしょうと思ってする訳では無くて、忙しさの中で自然に起きてしまうの、お客様は敏感で自然と足が遠のいたりして自然にお店は衰退して行くの、誰が悪い訳でもないわ、自然にそうなってしまうの、そうなる前に予約や注文を制御したり、価格なども調整して適度な忙しさにする、そうすれば店は安泰、後世に残るわ」と夏子は説明した。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ