第5話: 春季攻勢の予兆
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1918年の初頭、冬が終わりに近づくとともに、塹壕に閉じ込められた兵士たちの間に不穏な空気が漂い始めた。ヴィルヘルムたちの部隊にも、司令部から「大攻勢」の準備が進んでいるという噂が届いていた。
ある朝、部隊の間で伝令が読み上げられた。
「近日中に前線の大規模な動員が行われる可能性がある。全兵士は準備を怠らぬように。」
その簡潔な言葉は、兵士たちに緊張をもたらした。塹壕の中で日常的な作業に勤しんでいた兵士たちも、次第にざわつき始めた。
「これがいよいよ俺たちの出番ってわけか。」
ヘルマンは銃を手入れしながら、少し嬉しそうに呟いた。
「本気で喜んでるのか?」
ヴィルヘルムは眉をひそめる。
「何だって?」
「攻撃が始まれば、俺たちだって死ぬかもしれないんだぞ。」
その言葉に、ヘルマンは一瞬黙ったが、すぐに肩をすくめた。
「戦争だ、ヴィリー。どのみち俺たちはここにいる限り、死と隣り合わせだ。それなら、一丁派手にやろうじゃないか。」
ヴィルヘルムはその楽観的な言葉に答える気力もなく、ただ銃の手入れに戻った。
日が沈むと、隊長が数名の兵士を集め、秘密裏に作戦会議を開いた。選ばれた兵士にはヘルマンの姿もあったが、ヴィルヘルムは呼ばれなかった。
「おい、何か聞いたか?」
会議が終わった後、ヴィルヘルムは戻ってきたヘルマンに小声で尋ねた。
「少しな。」
ヘルマンは周囲を見回し、誰にも聞かれないことを確かめてから囁いた。
「春が来る前に、俺たちは総攻撃を仕掛けるそうだ。」
「総攻撃?」
ヴィルヘルムはその言葉に驚きと恐怖を覚えた。
「そうだ。帝国軍が全力を出す最後の賭けだってさ。」
ヘルマンの声には期待感が滲んでいたが、その目にはどこか不安の影があった。
数日後、塹壕の中に新しい補給物資が届いた。弾薬や手榴弾の他、乾パンやスープの缶詰が山積みになっていた。
「これだけの物資を送り込むってことは、いよいよだな。」
ベテラン兵士の一人が、手榴弾を手にしながら呟いた。
「俺たちが勝てると思うか?」
ヴィルヘルムはその言葉に、何の根拠もない希望を求めて尋ねたが、ベテラン兵士は肩をすくめただけだった。
「勝つかどうかじゃない。命令が来れば、俺たちは行くしかないんだ。」
その現実的な答えに、ヴィルヘルムは黙るしかなかった。
夜、ヴィルヘルムは眠れずに塹壕の壁にもたれていた。頭上には星空が広がり、静けさの中で遠くから時折響く砲撃音が聞こえる。
「ヴィリー、眠れないのか?」
ヘルマンが隣に座り込んできた。
「この攻勢がどうなるのか、考えると頭が休まらない。」
ヘルマンはしばらく黙っていたが、やがて低い声で語り始めた。
「俺も不安だ。正直、戦争が終わるための攻勢だって言われても、信じられない。でもな、俺たちが動かなければ、このまま塹壕で腐るだけだ。」
「動いたら死ぬかもしれない。」
「動かなくても死ぬかもしれない。どっちにしても、結局は同じだろう。」
その冷徹な言葉に、ヴィルヘルムは答えを見つけられなかった。ただ、ヘルマンの隣で星空を見つめるだけだった。
翌日、訓練が始まった。攻撃の際の動きや、敵の塹壕を突破するための技術を叩き込まれる。ヴィルヘルムは黙々と命令に従い、体を動かした。
「走れ、走れ!敵の銃撃をかわすには動き続けるしかない!」
教官の怒号が響き渡る中、ヴィルヘルムは息を切らしながら障害物を越え、泥の中を這い進んだ。
「これが俺たちの未来だ。」
訓練の後、泥まみれのまま地面に寝転がるヘルマンが苦笑いを浮かべた。
「楽観的すぎるだろう。」
ヴィルヘルムはため息をつきながらヘルマンを睨んだが、その視線の奥には焦りが隠れていた。
日が経つにつれ、部隊全体に緊張が高まっていった。誰もがこの攻勢が戦争の命運を左右すると理解していたが、それが勝利を意味するのか敗北を意味するのかは、誰にもわからなかった。
ある夜、ヘルマンが唐突に話し始めた。
「もし俺が死んだら、家族に伝えてくれ。俺は戦場で堂々と戦ったって。」
「そんなことを言うな。」
ヴィルヘルムはその言葉を遮ろうとしたが、ヘルマンは静かに続けた。
「俺も君に同じことを頼まれるかもしれない。だから、先に言っておくんだ。」
その時、ヴィルヘルムは戦争の冷酷さを改めて感じた。どれだけ生き延びたいと願っても、運命は彼らの手の届かないところにあるのだ。