第3話: 塹壕生活の始まり
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塹壕での最初の朝、ヴィルヘルムは泥にまみれた布団から起き上がった。体は冷え切り、手足は痺れている。塹壕の天井を覆う板の隙間から雨水が滴り落ち、そこかしこに泥の水たまりができていた。
「おはよう、ヴィリー。」
隣のヘルマンが声をかけたが、その顔にも疲労が滲んでいる。
「これが戦争の一部だなんて聞いていなかった。」
ヴィルヘルムは苛立ちを隠せずにつぶやいた。
「まだ序の口さ。」と、ヘルマンは肩をすくめる。「戦争はここから本番だ。」
朝食は硬い黒パンと薄いスープ。どちらも味気なく、冷たかった。それでも空腹を満たさなければ、次の勤務に耐えられない。ヴィルヘルムは不満を言わずに食事を終えたが、ヘルマンはスープを飲みながらぼやいた。
「なあ、せめてベーコンの一切れでも欲しいもんだな。」
「帝国が贅沢品をくれるわけないだろう。」
「そりゃそうだ。」とヘルマンは苦笑いを浮かべた。「でも文句を言うのも塹壕では大事な仕事だぜ。」
食後、分隊にそれぞれの任務が割り当てられた。ヴィルヘルムたちは塹壕の補修を命じられる。雨で崩れかけた壁を掘り直し、土嚢を積み上げる作業は重労働だった。
「おい、新人!」
分隊長がヴィルヘルムに向かって怒鳴る。
「その土嚢をもっと高く積め!敵の銃弾が飛び込んでくるぞ!」
ヴィルヘルムは必死に作業を続けたが、腕はすぐに悲鳴を上げた。ヘルマンが横で笑いながら手を貸してくれる。
「気を抜くな、ヴィリー。ここじゃ怠け者が真っ先に死ぬ。」
昼になると、塹壕の一角で休憩が許された。兵士たちはそれぞれの時間を過ごす。手紙を書いたり、ポケットから取り出したカードで賭け事をしたりする者もいた。
「ヴィリー、家族には手紙を書いたか?」
ヘルマンが尋ねた。
「まだだ。何を書けばいいのかわからない。」
「元気だって伝えればいいさ。それで向こうは安心する。」
ヴィルヘルムはその言葉に頷き、父と母のことを思い浮かべた。しかし、塹壕の惨状や昨夜の砲撃の恐怖をどうやって伝えればいいのかわからなかった。
夕方、敵軍の小規模な砲撃が始まった。轟音とともに地面が揺れ、泥が四方八方に飛び散る。新兵たちは恐怖で身体を震わせたが、ベテラン兵は動じなかった。
「頭を低くしていろ!」
分隊長の声に従い、ヴィルヘルムは塹壕の壁に身を伏せた。
「これが日常だ。」
ヘルマンが土を払いながら呟いた。「慣れるまで少し時間がかかるが、死ななきゃなんとかなる。」
砲撃が止むと、分隊長は新人たちを呼び集めた。
「よく聞け!敵の攻撃がいつ来るかわからん。常に準備をしておけ。」
その言葉が、戦争が終わりのない緊張の連続であることを嫌でも示していた。
夜、ヴィルヘルムは初めて敵軍の姿を垣間見ることになる。夜間の偵察任務に志願した数名とともに、彼は塹壕を離れた。静まり返った夜の空気の中、彼らはぬかるんだ地面を這うように進んだ。
「敵の前哨陣地は、あの林の先だ。」
偵察を指揮する上等兵が囁く。
月明かりが薄く差し込む林の陰で、ヴィルヘルムは小さな灯りを見つけた。それが敵兵の焚火だと気づくと、胸が高鳴った。ほんの数十メートル先に敵がいるという現実に、手が震える。
「落ち着け、ヴィリー。」
ヘルマンが肩を軽く叩く。その一言に、ヴィルヘルムは少しだけ冷静を取り戻した。
偵察任務を終えた彼らは、無事に自軍の塹壕へ戻ったが、ヴィルヘルムはその夜、焚火の向こうにいた敵兵の姿が頭から離れなかった。同じように食事をし、寒さに震える人間。それが、自分たちの敵なのだ。
塹壕生活の始まりは過酷だったが、それはまだ序章に過ぎなかった。ヘルマンの支えに助けられながらも、ヴィルヘルムは次第に戦争の現実を理解し始めていた。そして、その理解は彼に新たな恐怖をもたらしていた。
「戦争が終わる日は、いつ来るんだろう。」
ヴィルヘルムは夜空を見上げながら、そう呟いた。