表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

あなたとお別れするべきかしら?(1/1)

 その日の夜。私は星を見上げていた。


「お父様、お母様、どうしよう……」


 今日は色んなことがあった。リボンを作って、それをニキアスさんにプレゼントして、そうしたらキスされて、「愛してる」って言われて、「私も」って返して……。


 こんなに忙しい一時を体験したのは初めてである。私の頭はもうパンク寸前だ。


「私、ニキアスさんを好きになっちゃったの。でも、それってだめよね? 絶対にだめよね?」


 今のところ、ニキアスさんはまだ生きている。でも、今日みたいなことを何度も繰り返せば、彼の命もいつまで続くか分かったものではない。


 ――君の部屋に泊まってもいい?


 今日、就寝の挨拶をする時に、何気ない口調でニキアスさんがそう聞いてきた。


 私はうっかりと「いいわよ」と言いそうになったけど、言外の意味に気づいて慌てて首を横に振ったのだ。キスなら布越しでもできるけど、初夜はさすがにそういうわけにはいかないもの!


 ニキアスさんと寝室は別にすると決めていたから、私は居室にベッドを持ち込んでそこで起居していた。一番小さいサイズの寝台にしたのは、絶対にここに自分以外の人を寝かさないという決意の表れである。


 これからもその方針を変えるつもりはない。私の結婚は永遠に白いまま。ニキアスさんを好きになってしまった今となってはなおさらだ。


 でも、何だか虚しい。せっかくの愛し合う夫婦だというのに、制約が多くて息が詰まりそうだ。


 私は星空を睨む。


「どうせ残すならこんなカギじゃなくて、灰色令嬢が恋をした時の対処方法とかにしてくれたらよかったのに。お母様の意地悪!」


 ペンダントのカギをいじりながらお母様に八つ当たりする。私、いつの間にこんな不良娘になってしまったのかしら?


 ……色々なことを考えすぎて疲れちゃった。朝になればこの状況を打開する案も浮かぶといいんだけど。


 そんなことを考えながらベッドに横になる。


 けれど、「もしニキアスさんが隣に寝ていたら?」と想像してしまってなかなか寝付けない。


 そのまま朝を迎えた私は、もういてもたってもいられなくなり、ニキアスさんの部屋を訪ねることにした。


 ニキアスさんは妻の訪問の目的を勘違いしたのか甘ったるい笑みで出迎えてくれたけど、私の表情を見てすぐに真面目な顔になる。「どうしたんだい?」と聞いてきた。


「あなたを叱りにきたの」


 私は腰に手を当てる。二晩続けて満足に眠れなかったせいで体が重たい。ニキアスさんが私のプレゼントのリボンで髪をまとめているのに気づき、彼の顔から視線をそらした。


「命が惜しいなら、昨日みたいなことはもうしないで。あのキスがベール越しじゃなかったらどうなっていたと思うの?」


「僕はすごく喜んだんじゃないかな?」


「ニキアスさん!」


 いつもどおりの彼に頭を抱えたくなる。


「分からないの? 私、ニキアスさんが好きよ。だからこそあなたには生きていてほしいの。私ね、お母様の気持ちが初めて分かった気がするわ。お母様は私に何としてでも生き延びてほしかった。私が大事だったからよ。私もそれと同じなの。あなたを死なせたくない」


 話している内に決意は固まった。今の私がニキアスさんのために――愛する夫のためにできることは一つしかない。


「私、実家に帰るわ。この結婚は間違いだったのよ」


「ユリアーネ? 何を言っているんだ?」


「だってそうでしょう? このままだと私はニキアスさんを殺しちゃうかもしれない。まともに触れ合うこともできないなんて夫婦じゃないわ」


「触れ合えるよ」


「無理に決まってるでしょう」


「いいや、できる」


 ニキアスさんは断言して、素早く私の手を掴んだ。引き寄せられ、ベールを引き裂くように剥ぎ取られる。


 ニキアスさんが私の頬に素手で触れた。布を一枚も隔てない直の触れ合いだ。


 ニキアスさんの黒い瞳に燃えるような光が宿る。私の中にニキアスさんの魔力が流れ込んでくるのを感じた。


 それは、まるで灼熱の溶岩が体の中で暴れ回っているような感覚だった。熱いを通り越して痛い。これは私の中に存在してはいけないものだと本能が告げ、肌が粟立つ。


 気がつけば、私はけたたましい悲鳴を上げていた。無我夢中で腕を振り回し、やっとの思いでニキアスさんから離れる。


「死んでたかもしれないのに!」


 ショックのあまり、私の声はいつもの倍近く高くなっていた。鎧をまとうように破れかけのベールで顔を隠す。


「よくもこんなことを! あなたって無茶苦茶よ!」

「そうだろうね」


 ニキアスさんが私を抱きしめる。


「でも、もう後悔はしたくないんだ」


 ニキアスさんが呟いた。私は彼の腕の中で震えている。ここはあまりに居心地がよすぎる。ずっと抱きしめられていたら、まともな判断ができなくなりそうだ。


 けれど、ニキアスさんの背後の壁に飾ってある肖像画を見ている内に冷静さを取り戻した。生意気で傲慢そうなお姉様の小さな口が今にも動いて、「私の弟に何かしたら許さないわよ」と言い出しそうに感じられたんだ。


「残される私の気持ちも考えてよ。置いていかないでちょうだい」


 私はそっとニキアスさんの胸を押した。あんなにしっかりと抱きしめられていたのに、たったそれだけでニキアスさんは簡単に離れていく。


「……ごめん」


 ニキアスさんが命がけの行動を反省したのは、これが初めてかもしれない。端正な顔が泣き出しそうに歪む。いつもは大人っぽいのに、今のニキアスさんは私より十歳以上も幼く見えた。


「少し焦りすぎていたかもしれない。……そうだよね。このままだと、君は独りぼっちになってしまう……」


 ニキアスさんの声はどこまでも寂しげだ。


 私は、彼の心の中にある深い傷を見たような気がした。もう古傷のはずなのに、未だにそこから真っ赤な血が流れ出ている。そのせいでニキアスさんは苦しんでいるんだ。


 私はニキアスさんを抱きしめて慰めてあげたい衝動に駆られた。私に彼の傷を癒やせるかは分からないけど、ニキアスさんが苦しまないように少しでも多くのことをしてあげたい。


 それでも、私は伸ばしかけた手を引っ込めた。代わりに、「どうしたの?」と尋ねる。


「あなたに死なれたら確かに私は一人になってしまうけど、まだニキアスさんは生きてるじゃない。だからそんなに動揺しなくてもいいのよ」


「それは無理だよ。一人きりになる辛さは僕も知ってるからね」


 ニキアスさんは懸命に笑おうとしたようだけど、口元がピクリと引きつっただけだった。


 私はこの話題を打ち切りにしようか迷った。けれど、すでにニキアスさんの心の傷は開いてしまっている。それを見なかったふりをして、このまま放置しておくなんてできそうもない。


 私は「誰に置いていかれたの?」と尋ねた。残酷な質問かもしれないと思ったけど、ニキアスさんの声の調子は変わらない。


「……姉上」


 ニキアスさんは壁の肖像画に視線をやった。


「本当に仲がよかった。毎日一緒に遊んで、ケンカなんて一度もしたことがなかった。何をしていてもすごく気が合ったから、まるで僕がもう一人いるみたいに感じられたんだよ」


 ニキアスさんはお姉様のことを全て過去形で話していた。


 肖像画が幼少期のものである訳。お姉様のお気に入りのぬいぐるみをニキアスさんが持っていた理由。


 私は不意に悟った。


 ニキアスさんのお姉様はもうこの世の人ではないんだ。


「姉が病気になった時はすごく辛かったよ。彼女は実家の離れに隔離されて、見舞いにも行かせてもらえなかった。病気がうつるといけないから、って。僕にできたのは、遠くから双眼鏡で離れを見ることだけだった」


 半身とも言える姉と引き離された幼いニキアスさんの健気さに胸が痛くなる。彼は一体どんな気持ちでレンズを覗いていたのだろう。


「窓辺のベッドで過ごす姉は、日増しに衰弱していくようだった。僕は初め、それは病気のせいだと思ったよ。でも、ある時気づいたんだ。姉が僕たちのいる建物のほうを祈るような目で見ていることを。姉を本当の意味で蝕んでいたのは病気じゃなくて孤独だったんだよ。家族と引き離され、誰も見舞いに来てくれない。そのことに姉は打ちのめされていたんだ」


 肖像画に描かれているのは傲岸不遜な少女の姿。そんな彼女が悲嘆に暮れている姿など想像もできなかった。


 きっと、それは幼いニキアスさんも同じだったんだ。強気で元気な姉が弱り切った表情をするなんて、ニキアスさんはその時まで考えたこともなかったに違いない。


 だからこそ、未だにお姉様のことが傷となって心に残り続けているんだろう。


「そう理解していたけれど、結局僕は何もしてあげられなかった。姉には僕の助けが必要だったのに。ただ一緒にいて、いつもみたいにお喋りしてあげるだけでいい。それだけで姉の心は大分救われたと思う。でも、僕は自分も病気になってしまうのが怖かった。病気になって死にたくないと思ってしまったんだよ」


「死ぬのが怖いのは当然よ。そんなに自分を責めないで」


「……ありがとう。ユリアーネは優しいね。でも、姉の葬式以来、僕には死よりも怖いものができてしまったんだよ。……後悔だ」


 ニキアスさんの声は重々しかった。手を胸に宛がう。


「この心臓が鼓動する度に僕の選択への罪が増す。一呼吸ごとに臆病さの報いを受ける。後悔しながら生きるのはそれ自体が一種の死なんだよ。心が過去のある一点に留まって、そこから動かなくなってしまうんだ」


「……だからニキアスさんは無茶ばかりするのね」


 ニキアスさんには信念があったのだ。「次こそは悔いが残らないようにする」という信念が。


 その誓いを果たすためなら、ニキアスさんは命だって賭けるつもりなんだろう。


「初めてユリアーネを見た時、僕が真っ先に思い出したのは姉のことだったんだよ」


 ニキアスさんが遠い目になった。


「君の寂しそうな顔と、隔離されている時の姉の表情をつい重ね合わせてしまった。それで、この人も孤独なんだろうなと思ったんだよ」


「つまり、お姉様の代わりに私を助けたくなったの?」


「代わりじゃないよ。ユリアーネはユリアーネだ。僕は君を愛してる。君と触れ合った末に死ぬなら本望だと思うくらいにはね。……だけど、君を置いていきたくはない。独りぼっちは嫌だもんね。……でもね」


 切なげな顔をしていたニキアスさんが背筋を伸ばす。黒い瞳に険しい光が宿っていた。


「そのことと僕たちの結婚が間違っていたかどうかは別問題だ。君たちは一緒にいるべきじゃないって言われたら、僕は相手が誰であろうとその発言を否定するよ。もちろん、それが君の言葉であったとしても受け入れられない。僕は君を実家になんて帰さないし、絶対に別れるつもりもないんだから」


「……結局そうなっちゃうのね」


 ニキアスさんの話を聞いている間に、彼がどんな結論を出すのか薄々察してはいたけど、思ったとおりだった。


 時には激しく、時には優しく、そして時には柔らかなのがニキアスさんの愛の形だ。共通点は私を包み込んで離さないということ。そして、私はそんなニキアスさんが夫であることに心の底から満足しているのだった。


「じゃあ、私の初夜の相手はぬいぐるみになるっていうわけ? 朝起きたら体中が毛玉だらけになってるわね」


 もはや実家に帰る気はなくなっていた。この結婚が間違っていたと言うつもりもない。


 ニキアスさんの話を聞いていたら、私も後悔するのが怖くなってしまったから。ニキアスさんとの結婚生活を途中で諦めたりしたら、絶対に悔いを残すことになるだろう。そんな未来ははっきりと予想できたもの。


 だったら、悲劇を回避する方法を全力で模索しつつ、彼とこのまま夫婦でいるのが最良の選択じゃないかしら?


「僕は君と一緒にいられるなら、一生もふもふのままでも構わないよ」


 ニキアスさんがおどけた口調で言う。先ほどまでの険しさはなりを潜めていた。彼にも私の考えていることが分かったんだろう。


「ユリアーネは人間の僕とぬいぐるみの僕、どっちが好き?」

「どっちも」


 私たちは顔を見合わせてくすくす笑う。


 私はひどく安堵していた。


 私からもニキアスさんからも、まだ笑顔は消えていない。少なくとも今の私たちに後悔は何もない。


 あとはただ未来に向かって歩み出すだけだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ