朝食デート、やり直し(1/1)
私が居室に戻っても、ニキアスさんはいなかった。すっかり冷めてしまった朝食の皿の近くには、「すぐに新しいものを持ってこさせるよ」とのメモが置いてある。多分、ニキアスさんの字だろう。
「……『持ってこさせる』か」
つまり、ニキアスさんが持ってきてくれるんじゃないってことね。従者役を務めるのはやめにしたようだ。
一方の私は、つい数時間前まで夫に給仕をさせることに違和感を抱いていたのに、今では彼が一緒にいてくれないことに物足りなさを感じていた。
……物足りなさ? そんな感覚を覚えるのはいつぶりだろう。いつだって私は、自分に手に入る範囲のものが身の回りにあれば満足だったのに。
私は廊下に出た。目が自然とニキアスさんの姿を探すけれど、どこにもいない。そこで、近くを通りかかった使用人に思い切ってこう尋ねることにした。
「ニキアスさんの居室はどこ?」
そうして教えられた部屋のドアをノックすると、夫は驚き顔で私を出迎えてくれた。
「どうしたんだい、ユリアーネ! 君のほうから僕のところに来てくれるなんて!」
「別に……深い理由なんてないわ。ただ、もう一度一緒に朝食を取りたいって思っただけよ」
正確に言えば、私が卓を囲った相手はぬいぐるみなんだけど。でも、ニキアスさんはそんな細かいことを気にする性分じゃないらしい。端正な顔がパッと華やぐ。
「いいのかい!? ぬいぐるみじゃ食事はできないから、人間のほうの僕でご一緒することになるんだよ!?」
「ええ、そのつもりよ」
「わあ……! ありがとう!」
ニキアスさんはなぜかお礼を言って、黒い目を煌めかせる。
「ちょっと中で待っていてくれ! 実は、君に渡すものを用意していたところなんだ! 準備が終わったらすぐに食事にしよう!」
ニキアスさんは別室に姿を消す。私は言われたとおり、室内で待機することにした。
ニキアスさんの部屋はシンプルな内装だ。家具は必要最低限しか置かない主義のようである。居住二日目にして早くも散らかり始めている私のアトリエとは大違い。
でも、この部屋に無駄なものが一切ないのかと言われると、そんなこともなさそうだった。たとえば、部屋の奥には大きな絵画が飾ってあるから。
近くに寄って見てみる。肖像画だ。
モデルになっているのは、十二、三歳くらいの女の子。着ているのはライトブルーのミニドレスで、なかなかオシャレなデザインかも。今度、ぬいぐるみの服を作る時の参考にさせてもらおうかしら?
それにしても生意気そうな少女だ。ちょっと吊り目気味だし、口元には不遜な笑みを浮かべている。いわゆる、「いじめっ子」を連想させる容姿だった。
まあ、引きこもりの私は集団生活を送った経験なんてほとんどないから、実際の「いじめっ子」がどんなものかはよく分からないけど。
でも、この顔がもう少し優しそうな表情を浮かべていたら、ニキアスさんと目鼻立ちが似ているような気がした。もしかして、ニキアスさんの身内? そういえば、お姉様がいるとか言っていたような気がするけど……。
「それ、僕の姉だよ」
ニキアスさんが戻ってきた。小脇にふわふわしたものを抱えている。
「何を持ってるの?」
「ウサギのぬいぐるみ!」
ニキアスさんは優勝トロフィーを掲げるように、ぬいぐるみを誇らしげに持ち上げた。
その白いぬいぐるみの大きさは、私のリスのぬいぐるみの何倍もある。座ってる時に膝に載せたら、頭のてっぺんが顎置きにちょうどよさそうだ。目は赤いビーズでできていて、こぼれ落ちそうなくらい大きかった。
「これは僕が姉から譲り受けたんだけどね。ユリアーネにあげるよ。君のほうが有効活用できそうだろう?」
「え? いいの?」
声が明るくなったのが自分でも分かった。ニキアスさんからウサギのぬいぐるみを受け取り、頭を撫でてあげる。リスのぬいぐるみとはまた違う、もふっとした感触。これはこれでアリね!
「リスのぬいぐるみが乾くまでは、こっちへ憑依するよ」
この大きさのぬいぐるみが動くの!? もふもふ天国じゃない!
「じゃあ、まずはこの子も綺麗にしてあげないと!」
私は今にも鼻歌を歌いそうになっていた。
「大きいから洗い甲斐があるわね! それから、服も作らないと! さっき、ちょうど新しいドレスの案が浮かんだところなの!」
「この子も女の子だったんだね……」
「違うの? これはお姉様のぬいぐるみだったのよね? お姉様は何て言ってた?」
「さあ……」
ニキアスさんは困ったように首を傾げる。そして、壁の肖像画を見て「どうですか? 姉上」と聞いた。
当然、絵が返事をしてくれるはずがない。ニキアスさんは肩を竦めて、「いいよ、女の子でも」と言った。
ニキアスさん、よく肖像画に話しかけるのかしら? 私もぬいぐるみと脳内会話するし、意外と似た者同士ね!
私室に姉の幼い頃の絵を飾っておくくらいだから、二人はきっと姉弟仲もいいんだろう。私は一人っ子だからちょっと羨ましい。
……あっ、でも、ニキアスさんのお姉様ってことは、私の義姉でもあるのか。つまり、私にも姉ができたのね!
「ぬいぐるみ、大切にするわね、お姉様」
私は肖像画に向かって一礼した。
「かわいいドレスもたくさん着せてあげるわ」
「……たまには男装もさせてあげてね」
ニキアスさんがボソッとつけ足す声が聞こえてきた。
ドアにノックの音がして、使用人がやって来る。どうやら新しい食事が用意できたらしい。
「行こうか」
ニキアスさんが私の肩を抱こうとした。私は慌てて後退する。ニキアスさんは苦笑して、「これからは仲良くしてくれるのかと思ったんだけどな」と言った。
「仲良くするのと私に触るのは別よ。ぬいぐるみに憑依してない時は、こういうことしちゃだめ」
「これは手厳しい」
ニキアスさんがのらりくらりと返事して、服のポケットに手を突っ込んだ。私は急いでめくり上げたままのベールと、外しっぱなしにしていた黒手袋を身につける。
今まで部屋の外に出る時は厳重装備を貫いていたのに、すっかり油断していた。ニキアスさんといると、私が私でなくなっていくようだ。まだ結婚してから日も浅いっていうのに、こんな調子で大丈夫なのかしら?
二人で私の部屋へ向かう。さっきぬいぐるみと卓を囲った時と同じように、ニキアスさんは私の向かい側に座った。
今度の彼は牛乳に頭からダイブしたりしなかった。まあ、当たり前と言えば当たり前なんだけど。
牛乳がニキアスさんのお腹の中に無事に収まるところを見て、ちょっとほっとしてしまう。もし人間のニキアスさんが牛乳まみれになっちゃったらどうしよう? ぬいぐるみの時みたいに、私が洗ってあげるほうがいいのかしら?
そんな変なことを考えてしまい、軽く笑みが漏れる。
それにしても、誰かと二人っきりで食事をするなんて初めてだ。我知らずニキアスさんのほうをぼんやり眺めてしまう。
ニキアスさんの食べ方はお上品そのものだった。パンもオムレツも魚のフライも全部一口大に切ってから食べているし、カトラリーと食器が触れ合う音もほとんどしない。マナー教室の先生になれそうだ。
私は普段一人で食事をしていたから、作法なんてほとんど気にしたことがなかった。私の食べ方、汚くないわよね?
ニキアスさんの食事の仕方が綺麗なだけに、牛乳を浴びてしまったあの時の事件が余計に面白く感じられてしまう。
それとも、マナー講師的には「ぬいぐるみに憑依した際は、牛乳を全身で浴びるようにいただくのが正解です」っていう解釈なのかしら?
そんなことを考え、またしても一人で笑ってしまう。
誰かと食事をするっていうのも、案外いいものね。