あなたと夫婦になれて嬉しいわ(1/1)
「君は空を眺めるのが好きなのか?」
ニキアスさんが尋ねてくる。私は「どうかしら」と返した。
「今までは部屋の中にいることが多かったもの。青空なんて、あんまり見たことがないわ」
「でも、夜空は?」
まさかの指摘にハッとなる。
「ニキアスさん……私が毎晩空を見てること、知ってたの?」
「たまたまね」
ニキアスさんがふわふわのお尻を洗濯ネットの上につけて座る。
「王都でちょっとした用事があってね。少しの間、僕は領地を離れていたんだ。ちょうど一年くらい前のことかな」
ニキアスさんは過去を思い出そうとするように頭に手を当てる。
「ある夜、出先から帰る時に、僕は一軒の屋敷の前を通りかかった。その時、屋敷のバルコニーに人影が見えることに気づいたんだ」
「それって……私?」
「そのとおり。夜空を見上げるその人の寂しそうな横顔が忘れられなくてね。彼女の髪が灰色だったから、この人が噂に聞く『灰色令嬢』かってすぐに分かったよ」
王都に住んでいないニキアスさんのところにまで私の噂が届いていたなんて! やっぱり、この体質ってすごく珍しいのね。
「それ以来、その屋敷の近くを通りかかる度にユリアーネの姿を探すようになった。やっぱり君はいつも悲しそうな顔をしていて……。その内に、どうにかして彼女を楽しい気分にさせてあげたいと思うようになったんだ。今思えば、それが恋の始まりだったのかな」
「私が夜空を見るのは、両親のことを考えてる時よ」
恋、などという単語で気持ちを表現され、少しどぎまぎしてしまう。
数時間前にも「好き」と言われたけど、「恋」のほうが思いを伝える言葉として、より直接的な気がするから。動揺する心の内を悟られまいと、私は努めて平静な声を出し、首から提げていたカギを取り出した。
「二人の手を取れ。私は輝く星の下に眠る」
私はカギの持ち手に彫られている文句を読んだ。
「私の髪や目が灰色になっちゃった理由は知ってるでしょう? 私は難産の末に産まれたの。生まれる前に命が尽きてもおかしくはなかったんだけど、本能であらん限りの魔力を解放して、どうにかお母様のお腹から出てくることができたってわけ。でも、ちょっとやり過ぎたみたい。産声を上げてすぐに、魔力切れを起こして死んじゃったんだから」
肉体は魔力によって魂と結びつけられている。だから、魔力がなくなれば人は死ぬ。生きるために力を使ったのに、それが逆に私を殺すことにも繋がってしまったわけだ。
私の髪と瞳が灰色なのは、魔力切れを起こした証拠だった。もう一生元の黒色には戻らない。といっても、魔力がなくなっても生きている人なんてほかにいないから、推測でしかないけれど。
「お母様は私を蘇生させようとして、奇妙な魔法を使ったんだって。そのお陰で私はもう一度息ができるようになった。でも、代わりにお母様は……」
これは産婆から聞いた話だ。産婆も、お母様がどんな魔法を使ったのかは分からず、「あんな術は見たことがない」と言っていた。
詳しいことは不明だけど、お母様の体から銀に輝く鎖のようなものが飛び出し、それが私に取り込まれた途端に、私は息を吹き返したらしい。
私の両親は魔法の研究が趣味だったそうだから、二人が作り出した新しい術かもしれないとのことだった。
「お母様は自分の命と引き換えにしてまで私に生きていてほしかったんだと思う。でも、死者の蘇生なんて許されることじゃなかったのよ。お陰で私はこんな体質に……触れるだけで相手の魔力を吸い取ってしまうようになったんだわ」
言うなれば、術の副作用だろうか。私は灰色の毛先をもてあそぶ。
「お父様も私が生まれる一月前に亡くなっていたし、私は誕生と同時に独りぼっちになってしまったの。そのせいか、時々考えてしまうのよね。お母様を犠牲にしてまで私は生まれてくる価値があったのか、って」
私はペンダントのカギに彫られている文言を指先で辿る。
「このカギはお母様のものだったのよ。形見として私がもらったの。これを手に入れてからというもの、私は『二人の手を取れ。私は輝く星の下に眠る』って言葉の意味を色々考えるようになった。それでね、こう思ったのよ。亡くなってしまった両親がいつか二人で私を迎えにきてくれるのかもしれない。それで、私は独りぼっちじゃなくなるのかもしれない、って。ほら、死んだ人は星になるっていうでしょう?」
「だから君は星を見るのか」
ニキアスさんが静かな声で聞いてきた。私は黙って頷く。
「お陰で星座にも随分と詳しくなっちゃった。今の時期だと水精座が見頃ね。私が生まれた日にも綺麗に見えていたらしいわ」
暗い話題を変えようと微笑みかけてみたけど、ニキアスさんは笑みを返さない。代わりに真面目な口調でこう言った。
「価値はあったよ」
「え?」
「君が誰かの命をもらってまで生き延びた価値はあった。少なくとも僕はそう思う。こうして君と夫婦になれて、僕はすごく嬉しいからね。それだけじゃない。今朝はぬいぐるみの体を通してとはいえ、君とたくさん触れ合えた。お喋りだってしたし、朝食を取るために同じテーブルを囲むこともできた。色んな体験ができて、僕はとても楽しかったよ。だから僕はユリアーネにお礼を言いたい。生きていてくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう、って」
胸が震えて何も返せなかった。
生きていてくれてありがとう?
生まれてきてくれてありがとう?
今まで、私にそんなことを言ってくれた人は誰もいなかった。私が知っているのはごく狭い世界だけ。でも、その世界で生きる人は皆こう思っていたんだ。
『本当なら死んでいるはずなのに、どうしてあなたは生きてるの?』
そう感じるのも当たり前だろう。私はそれだけ異質な存在なんだから。私の生に対して生じるのは感謝ではなく疑問。それが当然だと思っていたのだ。
「何だか申し訳ないね。君の悲しい顔を見たくないからって求婚した僕のほうが、結婚生活を楽しんでるなんておかしいよね」
「……おかしくないわ」
私は首を振った。涙が目から溢れてこないように上を向く。
でも……それが嬉し涙なら、流しても構わないのかしら?
「ちっともおかしくない。……ありがとう、ニキアスさん」
「……僕はそろそろ人間の体に戻るよ」
ニキアスさんが優しい声で言った。
「いつまでも干されたままっていうのも、変な気分だからね」
洗濯ネットの中で、リスのぬいぐるみは動かなくなる。ニキアスさんが憑依の術を解いたんだ。
私はネットごとぬいぐるみを抱きしめた。服が湿っても気にならない。ずっとこうしていたい気分だった。
「私も、あなたと夫婦になれて嬉しいわ」
もう聞こえないと分かっていたけど、私は夫に向かってそう呟いた。