拒絶
もう十年以上も前のことだ。
退屈な森の生活に飽き飽きしていたシェルファは、人間の街を見に行こうと、里の皆に黙ってひとりで森の外へ出た。
そして案の定、道中でモンスターに襲われた。
その時に助けてくれたのが、当時まだ駆け出しの冒険者だったリアムだった。
ただ、颯爽と駆け付けた割にリアムは弱かった。動きは鈍重で、剣の腕も未熟。モンスターを倒すどころか、一方的に攻撃を喰らうだけだった。
それでも、リアムは一歩も引かなかった。激痛に顔を歪ませながらも、最後まで体を張ってモンスターの攻撃からシェルファを守り続けた。
すぐにカイルが駆け付けたことで事なきを得たが、シェルファが怪我ひとつ負わなかったのに対し、リアムは全身が傷だらけだった。
それまでシェルファは魔法の習得にそれほど熱心ではなかった。
シェルファの唱えた回復魔法はお世辞にも優秀とは言えず、リアムの傷を完全に癒すことはできなかった。
情けなさと申し訳なさで下を向くシェルファに、リアムはぎこちない笑顔を浮かべて「それよりも君に怪我がなくてよかった」と言ったのだ。
その笑顔に不覚にも心を奪われた。
エルフは長い生涯において一度しか恋をしないと言われている。
その一度がまさか出会ったばかりの人間になるとは思いもしなかったが、シェルファは自分の気持ちに正直に生きることにした。
彼らがレニゴールの街を拠点に活動する冒険者だと聞いて、シェルファは密かに自分も冒険者になることを決めた。
しっかりと魔法を学び、一流の回復役になって、この優しい大男に恩返しをする為に……。
それからシェルファは故郷の森に戻り、五年の歳月をかけて魔法を学び直した。
シェルファの失敗は、エルフと人間とでは五年という時間に対する感覚が異なる点に思い至らなかったことだった。
修行を終え、冒険者となって無事にリアムとの再会を果たすことができたが、あろうことか彼はシェルファのことをすっかり忘れていたのだ。
五年間、彼のことを想い続けて必死に努力を積み重ねてきたのに、当の本人に忘れ去られていたのだ。感動の再会を期待していただけに、落胆は相当なものだった。
ちなみに、しっかりと覚えていたカイルは、リアムに事情を説明しようとしてくれたが、そんな方法で思い出されても嬉しくないので、絶対に言わないよう口止めした。
それからしばらくはパーティの仲間として共に戦う日々が続いた。
シェルファはリアムの戦いぶりを回復役として近くで見てきた。
彼は戦士としては弱かったが、その心はとても強かった。
街の人々や仲間を守る為に身体を張り、強大な敵を前にしても不屈の闘志で立ち向かい続けた。
口数は少なく、不器用で不愛想。でも、なぜか傍にいると安心する。
いつしか、シェルファはそんなリアムに故郷の森にある大樹を重ねるようになっていた。
そして同時に、彼が自分のことを覚えていない理由がなんとなくわかった気がした。
リアムにとって誰かの為に戦うことは、ごく当たり前の行動なのだ。
故に、モンスターに襲われた少女を守ることも、特別な意味を持たない。
シェルファにとって人生を一変させるような大事件も、彼にとっては日常のなかの出来事に過ぎなかったのだ。……覚えていなくて当然だった。
その事実はショックだったが、この不器用な男を放っておけないと、より強く思うようになった。
とはいえ、まったく自分のことを思い出す気配のないリアムに、シェルファはついきつく当たってしまった。本当は好意を抱いているのに、元々の性格もあって、それを素直に表に出せなかった。
思い出してくれるまでは決して名前で呼ばないと誓ったのも、『オルン』という言葉の意味について嘘を教えたのも、そんな複雑な心情の表れだった。
何を言っても怒らないリアムにシェルファは完全に甘えていた。
何があってもいつも傍にいて見守ってくれる。
パーティを、あたしを、守ってくれる。
そう無邪気に信じていた……。
凄まじい衝撃音がシェルファの鼓膜を激しく揺さぶった。
目の前でリアムが巨人に滅多打ちにされていた。
リアムは攻撃を受ける度に大きくよろめき、苦痛に顔を歪ませる。
それを見て、シェルファの心は締め付けられた。
何年もずっと近くで見続けてきたのに、分厚いヘルムで隠されていた顔が、あれほどの苦痛に歪んでいることを知りもしなかった。
もう痛いのは嫌なんだ――ふいにリアムの言葉が頭に浮かんだ。
(あのときあたしは彼になんて返した?)
シェルファは自問する。
あたしたちが回復魔法を掛けてあげてるじゃない――そう言わなかったか。
それがいかに軽率な言葉だったか、ようやく理解した。
彼の心に寄り添うどころか、酷い言葉をたくさん浴びせてしまった。
回復役としてしっかりと支えているつもりで、まったくそれができていなかった。
つまらないことで意地を張り、心から信頼する人を傷つけ、見放してしまったのだ。
愛想を尽かされて当然だった。
ガジールの強烈な一撃を浴びたリアムの体が大きくぐらついた。
ついに限界を迎えたのだ。むしろ魔法の甲冑なしで今まで持ちこたえられていたことが奇跡だった。
このままではリアムが死んでしまう――。
そう思った直後、シェルファの心に強烈な嵐が巻き起こり、あらゆる感情を吹き飛ばした。
後に残ったのは強い拒絶だった。
まだ『ごめんなさい』も『ありがとう』も言えていないのに。
自分の気持ちを伝えられていないのに。
またリアムがいなくなってしまう。
嫌だ。嫌だ。
「――そんなの絶対に嫌だぁっ!」
想いが爆発した。
膨大な魔力が大気に放出される。
次の瞬間、アリーシャが展開していたシールド魔法に変化が生じた。
不可視のはずの魔法の盾がまばゆい光を放ち、まるで大輪の花が咲くように大きく広がっていた。
――――――――――――――――
「いったい何が起こりやがった!?」
イスタリスは混乱の極みに達して思わず叫んでいた。
状況に理解が追い付かない。いきなりリアムが来ただけでなく、今度は得体の知れない光の爆発である。わけがわからなかった。
「シェルファの力ですよ! 元々、彼女は精霊を使った支援魔法が得意ですから、アリーシャのシールド魔法を強化したんです!」
ヨネサンがうわずった声で言った。
「そんなことができんのか?」
「理論上は可能です。ただ、あそこまでとなると誰にでもできることじゃない。精霊は術者の心に強く影響を受けます。おそらくですが、シェルファのリアムを想う心が大いなる精霊を動かしたのでしょう」
「んな馬鹿な……」
にわかには信じがたい話だった。
だが、イスタリスにとって細かい理屈はどうでもよかった。
はっきりとわかっているのは、今が最初にして最後の好機だということだった。
ガジールは巨大な尻を大地に押し付けていた。光の盾に弾かれ、尻もちをついたのだ。座り込んだまま右腕を抱え込み、苦痛の呻き声を漏らしている。
ようするに、完全に動きが止まっていた。
この機を逃してはならない――イスタリスは即座に決断した。どの道、これまでの戦いで魔力を消耗し過ぎており、これ以上戦い続けるのは無理だった。
「お前ら、今から俺の言うことをよく聞け。次の攻撃で奴を仕留める」
イスタリスの言葉にヨネサンとライザールは揃って息を飲んだ。
「奴の背中……右肩甲骨の下あたりを見てみろ。薄く傷跡が残ってるのがわかるか? おそらくあれは三年前の俺達との戦いで負った傷だ。奴は全身を冷気で覆っているが、あの部分だけ冷気が弱い。そこへ全力の火球魔法を叩きつけて奴を倒す」
その傷跡に気付けたのは、リアムのおかげだった。彼がそれまで動き回っていたガジールの足を止めてくれたからこそ気付くことができたのだ。
「攻撃は三段階だ。まずはヨネサン、お前は残った魔力を全部使って奴に魔法耐性低下のデバフを入れろ。次に俺の火球魔法で周りの冷気を吹き飛ばす。でもって最後に止めを刺すのは――」
そう言ってイスタリスはライザールを見た。
その視線を受け、ライザールの身体がびくっと震える。
「お、俺?」
「お前しかいねぇだろ」
イスタリスの言葉に、ライザールは後ずさった。その顔からは、自信と傲慢さが完全に消え去ってしまっていた。
リアムが去って以来、ずっとこんな調子だった。今日の戦いも完全に精彩を欠いており、放った魔法はことごとく外している。今の精神状態と、この局面に掛かるプレッシャーを考えれば、及び腰になるのは当然と言えた。
だが、それがわかっていてもイスタリスは彼に頼るしかなかった。
三年前の戦いでは肝心なところで魔力不足に陥って止めを刺すことができなかった。あの苦い記憶を忘れたことはなかった。
そして同時に、自身の限界も思い知らされた。
悔しいが、魔法の才能においてライザールは図抜けていた。間違いなく、いずれは世界最高峰の魔法士になるだろう。
だからこそ、この程度で躓いているのが許せなかった。
「む、無理だって……イスタリスさんがやってくれよ」
ライザールが泣きそうな顔で言った。
「俺じゃ威力が足りねぇ。奴を倒せるのはお前の魔法だけだ」
「け、けど、今の俺じゃあんな小さな傷跡には当てられないって。今日の戦いでもほとんど攻撃を当てられてないし、それにもし外しちまったら――」
「ごちゃごちゃぬかしてんじゃねぇ!」
イスタリスは大声で遮ると、ライザールの襟首を掴んで無理やり引き寄せた。
「あのぼろぼろになったリアムを見て、てめぇはなにも感じねぇのか!? あいつが死に物狂いで作ったチャンスなんだぞ! それを無駄にするつもりか!?」
「リアムさんが……?」
「そうだ、リアムだ。だがよく聞け。このパーティのエースはリアムでもカイルでも、ましてや俺でもねぇ。ライザール、てめぇだ。てめぇ以外に誰がやるんだ!」
「――っ!?」
「大丈夫だ、お前ならやれる。お前は俺やヨネサンも認める魔法の天才だからな」
イスタリスの言葉にヨネサンは「そのとおりです」と大きく頷いた。
「天才……俺は天才……エース……俺が……エース」
ライザールはうわ言のように天才とエースという単語を繰り返す。その瞳に徐々に意志の光が宿り始めたのをイスタリスは見逃さなかった。
「失敗したらとか余計なことは考えんな。そんときゃ俺らも一緒に死んでやる。別に恨んだりしねぇから安心しろ」
「イスタリスさん……」
「やれるな?」
その問いにライザールは力強く頷いた。
「……わかった、やるよ。俺がリアムさんを、いやパーティを救ってみせる!」
「上出来だ」
イスタリスはライザールの肩を二度叩いてから前を向いた。
巨人がゆっくりと立ち上がろうとしていた。
「いくぞてめぇら! 根性見せろォッ!」
それを合図に三人は同時に魔法の詠唱を開始した。