表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ゼロより暖かな世界

 原因は極めて単純明快です。

 この惑星の軌道の中心に位置する恒星の活動が、ほんの少し。そう、ほんの少し低下しました。それだけのことですが、人口が最盛期の1%を切るには十分でした。

 かつてヒトが最も多く生息していた「旧温帯」の平均気温は今や-30℃となっています。旧区分で「寒帯」と呼ばれていた気候帯はもはや「帯」などではなく、この星のほぼ全土を表す言葉となっています。


 ほぼ、というのは、いずれの事象にも存在する「例外」を示す言葉に他なりません。つまりは私が生まれ育った地区。いえ、私だけではありません。惑星人口のじつに99%がここや、ここと同じような場所で生まれ、育ち、働き、生殖し、死んでゆくのです。


 「冷蔵庫」。かつては熱気や湿気による食糧の腐敗を防ぐ目的で使用されていた道具の名だという話は有名です。ですが今日においては、生命の凍結を防止するシェルターを意味します。

 冷蔵庫は地熱を循環させることによって「旧亜寒帯」に最も近い気候を保っています。ですが気温が0℃を下回ることは決してありません。ヒトも、ウシも、黴も、針葉樹も(広葉樹というものは存在しないので、一般的には「樹木」と言えばすべて針葉樹です)、冷蔵庫の内部では凍死の恐怖から自由でいられるのです。

 

 涙も、糞尿も、血液すらも凍る「冷蔵庫の外」に自ら出て行くことは自殺行為です。

 例えば、日照時間の少なさゆえに精神を病んだ自殺志願者がふらふらと扉の外に足を踏み入れるケースは年に30件前後記録されています。ですが0℃を切り、遠ざかれば遠ざかるほどになおも下がり続ける外気に対する本能的な恐怖感、孤独感から、結局はほとんどの者が冷蔵庫に戻っていくのです。


 ほとんど。これも例外を表す言葉です。ええ、例外とは私のことです。

 私のような者を冷蔵庫の中の人々は「魅入られた」と表現します。

 魅入られた。なるほど、言い得て妙です。私は自殺したくて、ここを。外を。雪原を選んで歩いているわけではありません。無限のように見える白い大地を、紫がかった白い空を、何よりも美しいと思ってしまったから。命を平等に刈り取る温度を、決して溶けない氷雪のきらめきを、愛しく思ってしまったから。

 もっと、もっと果てを見たい。その欲求が、凍てつく大気を焦がすように胸をくすぐるから。その気持ちが死への恐怖より、本能より上回ってしまったから。

 私はもはやろくに動かない足で、往く道を踏み固めているのです。


 こんなこと、あなたの前で言ったらきっと怒られてしまいますね。

 その気持ちは欺瞞だ、冷蔵庫(ぬるま湯)で生活してきた者の傲慢だと指摘し、故郷に帰るように諫めることでしょう。冷蔵庫の内側の、扉近くから雪や氷を眺め、今や文献の中にしか存在しない種の花に例えて詩歌でも吟じていればよいと、厳しく断じることでしょう。

 そう、初めてあなたと出逢ったとき。海獣の毛皮を身に纏い、犬橇で移動するあなたの姿を見て「羨ましい」と口走ったときのように。そしてそのまま意識を失い、あなたに命を救われたときのように。

 

 あなたはこの星の人口の1%。いえ、正確な統計などどこにも存在しないゆえに、この数字は誤っているのかもしれませんが。重要なのは、あなたも「例外」ということです。

 

 冷蔵庫の外で生まれ育ったあなたの故郷は、思いのほか暖かい場所でした。もっとも、冷蔵庫の外の暮らしなど想像したことなどありませんでしたが。

 あなたの住居には、外気を防止するための構造上の工夫がそこかしこに見受けられ、その素材からは考えられないほどの暖かさが保たれていました。

 その素材とは、雪と氷です。そのことを知った時、私はそわそわと落ち着かない気持ちになりました。冷蔵庫の中では雪など持ち込まれてもすぐに溶けて水になるからです。

 そう口にするとあなたはけらけらと笑いましたね。あんた、雪に埋もれて野垂れ死ぬのは怖くないのに、雪に圧し潰されて死ぬのは怖いのかい、と。

 怖いかどうかと美しいと思うかどうかは別だ、と主張しましたが、鼻水を凍らせながら言われてもなとまた笑われてしまいました。


 でも私は、本当に。

 美しいと思ったのです。

 雪の家に住み、狩猟で生計を立て、橇を駆るあなたが、だれよりも。

 暖かいと思ったのです。

 生命を凍らせる大気の中、明日の命もわからない日々を強く生きているあなたが、冷蔵庫の中のだれよりも。



 あなたを呑み込んだ「クレバス」のことを、私はこの目で見たことがありません。それをあなたの故郷の人々が報せてくれたとき、また私は「羨ましい」と思いました。

 あなたが堕ちゆく大地の割れ目。流れゆく氷の底の底。

 世界でいちばん。きっと例外なく、いちばん暗く寒い場所。

 そこが美しくないはずがありましょうか。暖かくないはずがありましょうか。

 この目で見たい。この身を置きたい。そう願うのは、欺瞞でしょうか。傲慢でしょうか。


 それでも構いません。私のことを断じてください。怒ってください。どうしようもない莫迦だと呆れ返ってください。世界の果ての果てで、心臓が凍り切った後に、どうか。

 


 身体の震えがなくなってきました。

 かつてないほど清々しい気持ちです。

 あなたに近付いているのを感じます。

 こんな独り言の半ばですら、自分の舌が回らなくなってきたのを感じます。



 

 あなたの名をもう発音できないことだけが残念です。

 

 

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ