第三章 現われた青年
三 あらわれた青年
皇族一家が住み、日々の政務が取り仕切られ、各地方の統治者が集い、皇帝に決定を求める場所こそ、ティファグーノ宮殿である。
華麗にして壮麗。
岩石などからつくられる、朱色の塗料をふんだんに使い、壁には神話や、草花などの彫刻が施されている。全体は正方形をしており、一階部分が政務など公共の場であり、二階が生活の場、三階は祈りの場となっている。
とにかく広大で、近くに設けられた貯水池の水を使って、薔薇などが栽培されているちいさい庭園は、緑という色が珍しいこの国々の人々にとっては、黄金にも勝る美しさだ。
ほとんどが石造りの内部には、ほとんど砂がない。風や、ひとの着物にくっついて運び込まれる砂は、毎日大勢の使用人の手によって掃きだされており、ほこりっぽさも薄い。まさに別天地である。
カサギは、そんなとんでもない場所に来られるなどとは夢にも思っていなかったので、ガチガチに緊張していた。
いちおう、礼装を着ているが、なんだかしっくりこない。帝国の礼装は、たっぷりと布地を用いた、華麗なものだ。男性は金糸銀糸を使った色鮮やかなチョッキと、髪を隠すターバンを巻き、ゆったりしたズボンを穿く。女性は、装飾品をこれでもか! とばかりにつけられる。頭、腕、指、首すべてに、金細工の飾りが揺れている。そこに、原色鮮やかな裾の長い衣装をまとうのだ。カサギには、鮮やかな赤紫の衣装が、やけに重く感じられた。
「そんなに緊張しなくても、大丈夫だよ。陛下は穏やかで優しい方だし」
苦笑気味に言ったのはファナラトだ。
「だが、失礼があってはならないし、私はそもそも、こんな場所とは特に全然まったくさっぱり縁のない人間だったはずだから、なんというか、ああっ! 不安だっ!」
「落ち着いて、僕が教えた通りにふるまっていれば大丈夫だから、ね?」
ファナラトはカサギの背をさすりつつ、困ったように笑った。
二人が今いるのは、宮殿のエントランスで、アーチを支える美しい円柱が林立している。床は白と灰色と、黒の大理石のモザイクで、踏むのも恐ろしい。うっかり転んで、なにかを壊したら、と思うと足を踏み出すのにすら勇気が必要だ。カサギは、びくびくしつつ、前方から宮殿付きの小間使いを連れて歩み寄ってきたレイエネを見て、言った。
「レイエネ、私は、どうしても謁見をしなくてはならないのか?」
「残念ね。帰ったりしたら無礼になるわよ。いい加減、覚悟を決めなさいな。
あなたはこれから、調査隊の隊長として、皇帝陛下にごあいさつし、こうなった理由や原因を説明するのよ。
昨日、急に伝えたことだったから、混乱するのも仕方ないけれど、諦めて。なるようになるわよ。あなたはひとりじゃないし」
「うう」
カサギは呻いたものの、結局おとなしく、謁見の間へと連行された。
謁見の間に至る入口は、巨大なアーチで、壮麗な柱によって支えられている。
一階部分の最奥に位置するそこは、まさしく異空間さながらだった。外からは、まばゆい日光が惜しげもなく降り注ぎ、吹き過ぎゆく風には気分を落ち着かせる香の匂いが混じりこんでいる。薄暗い天井と、輝く床面のコントラストは、まさに小さな天と地だった。
カサギはその最奥に置かれた玉座に座する人物と、その左右にずらりと並んだ、勇壮で重々しい衣装に身を包んだ近衛兵たちの姿に圧倒された。
彼らのさらに手前には、大臣などの重鎮たちが揃っている。
「良く来たな。顔を見せよ」
柔らかな声がした。カサギはゆっくりと顔をあげた。
天上人と思っていた皇帝の姿が視界に映る。壮年の、威厳が人間として現れたような男性だった。意外に地味な衣装をまとっており、白い毛皮のマントに、ゆったりしたそでの、丈の長い生成色の貫頭衣という姿だった。額には、皇族である証明でもある金のサークレットがはめられている。一応貫頭衣には、金糸や銀糸で飾りぬいがされ、腕や足や耳には、様々の装飾品が飾られてはいるが、まわりにはべる近衛兵の方が、兜に羽飾りをつけていたりしているせいで、派手なくらいだった。
「報告をいたせ」
「は、はい」
カサギは、ごくりと喉を鳴らした。誰も何もしゃべらない。こんなにたくさん人がいるのに、しわぶきひとつ聞こえない。異様な空気に飲まれそうだった。心臓が焼けつきそうで、今にも倒れそうな気分だ。
が、カサギは勇気をふりしぼり、口を開く。
「先日の、タイリー教授が殺害されたことと関連し、我々は、北方のタヴァト族が疑わしいという見解を抱きました。
教授は、彼らを調べ、彼らとあのナアルマヴレとが関連していることを突き止めました。そのせいで、詳しいことが私たちに話される前に、教授は命を落とされてしまいましたので、我々は、教授に代わって、彼らを調べに行きたいと思っています。
陛下に、吉報をお知らせできるよう尽力いたしますので、どうか、我々の調査に協力をお願いできませんでしょうか?」
それは、軍部の、皇太子の言葉でもあった。
皇帝陛下に話を通さねば、軍は派遣できない。軍部の総帥、つまり皇太子は、兼ねてから北の地に疑心を抱いていたのだ。今回のことは、恰好の口実になるとし、レイエネに謁見を命じた。そして、謁見し、説明をする役目が、最もそのことに詳しいカサギとなった。
理由は、最も陛下の心を動かしやすいだろう、というものだ。
「本当に、タヴァト族が怪しいのか分からねば、それはできない。
しかし、調査をするのは良いだろう。ただし、かつて我々は、彼の一族に不義を働いてしまった。
決して、彼らの不興をかわぬように調べ、報告をせよ。
以上だ」
「はい。ありがとうございます」
カサギは、精一杯微笑んで、頭を垂れた。
そっと後ずさり、謁見の間を退室する。外に出ると、カサギは、ほぅっと息をついた。異次元から抜け出せたような、そんな感じだ。
ファナラトやレイエネに、しきりに感心されながら、カサギはふと、日々をあんな場所で過ごさねばならない皇族のひとたちは、息が詰まらないのだろうか、と考えた。
その夜のこと、カサギは養父母に事の次第を告げた。
もう黙っているわけにもいかないし、旅支度もせねばならない。
「お前が本当にそうしたいというなら止めませんけど、でも、危険なことにだけは、近づかないで、そして、ちゃんとここに帰ってくること。
それが約束できないなら、行かせません」
「もちろんです。ここが私の家です………帰ってくる場所なんて、ここしかないです」
カサギは、手にした薄べったいパンに、豆を煮たものをのせて微笑んだ。
あまり大きくない長方形のテーブルには、様々な料理がところ狭しと並べられている。色をつけた米もある。鳥を香辛料で辛くとろりと煮たものや、羊のシチュー、レバーをペーストにしたもの、内臓の煮込み、新鮮なチーズや、果実類などだ。
北の大地と違って、野菜類は採れないが、果実類は豊富で、それらを食べやすく切ったものは、大皿にどん、と盛られていた。それらは、一般的な金持ちの食卓で、庶民はそれらのうちひとつでもあればごちそうである。
金属の器に山盛りにされた料理は、獣脂のろうそくの炎に照らされ、幸せの象徴であるかのように輝いているように、カサギには見えた。
「親も、父上と母上だけです。大丈夫です……陛下にもくぎを刺されました。危険には近づかないようにしますし、レイエネさんや、兵も数名つけてくれるそうです。
それに、帰ってきます。
私は、あなたたちの子供なんです。少しは信用してください」
「そう、そこまで言うのだったら、もう止めないわ」
義母は少し寂しそうに笑って、義父と目線を交わした。
義父は静かに頷いて、
「気をつけて行ってくるんだぞ」
とだけ言って、黙々と食事を続けた。
カサギは「はい」と頷いて、パンを口に入れた。辛くて、あまりにおいしくて、最初は何ごとかと思ったこの味にも慣れた。今では、なじんだ味。この味を味わいに、またここへ帰ってくるのだ。
そんなことを思いながら食事を続けていると、使用人が困ったような様子で顔を出した。
「あの、お食事中申し訳ありません。
キマリーエと名乗る警備兵が、カサギ様に緊急の用件があると」
使用人の言葉はそこで途切れた。
戸代わりの毛織布が荒々しく跳ね上げられ、レイエネ自身が顔を出したのだ。カサギはびっくりして立ち上がった。
「れ、レイエネ! どうしたんだ?」
「カサギ、すぐに来て頂戴」
レイエネは緊迫した様子で言いながら、ずかずかと入りこんでくると、カサギの腕をつかんで、部屋から出ようとする。
「ま、待って、くれっ! 理由くらい言ってからにしてくれないかっ!」
「タヴァト族が現れたのよ!」
「はい?」
カサギは話についていけずに、その場に踏ん張りながら首をかしげた。
「説明なんてまだるっこしいことしなくても、見てもらえばすぐよ。
それでは、プロウウィンご夫妻、失礼いたします。お嬢様はすぐにお返ししますので、どうかご心配なく」
「えっ、ちょっ……ああっ、いっ、行ってきまーす!」
カサギはずりずりと引きずられるようにして部屋から出た。夫妻はただあっけにとられて娘を見ていた。カサギは、混乱する頭を抱えて、夜の街路に飛び出すと、とにかくレイエネの後に続いて走り出した。
宮殿の地下牢。
現在ではまったく使われていないそこに、若い男がこちらを睨みながら、床に敷かれたぼろぼろの毛皮の上に座っている。
綺麗なひとだな、とカサギは思った。
カサギより一つか二つ年上だろう。端正な顔立ちで、アーモンド型をした、意志の強そうなすみれ色の瞳に、やや長めの、淡い色の金髪。肌はなめらかで白く、浅黒い肌で、黒髪黒眼の多い半島の人間にはとても見えない。
昔読んだ文献に出てくる、半島よりさらに北西に住まう人々が、そんな姿だったらしい。
襟元に切れ込みの入った生成色のチュニックを纏い、茶色いズボンを穿いている。腰には鮮やかな紅色の麻布が巻かれていた。飾り気はまるでなくても、とにかく綺麗だ、とカサギは思って、青年に近づくと、その顔を凝視した。
すると、青年は、驚いたように目を見張り、カサギを見つめ返した。
「あんたは! ……驚いたな。本当にいたとは……」
「私がどうかしたのか?」
カサギは青年の反応に戸惑い、訊ねた。が、青年は首を左右に振った。
「いや、こっちの話だ。今は関係ない。あんたの顔が、知ってるやつに似てたってだけさ………で、あんたは俺をどうしたいんだ? 頼みを聞いてくれる気はあるのか?」
「頼みとはなんだ? 私は来たばかりで、まだよく分かっていないんだ」
カサギは肩をすくめた。
現在、真っ暗で、焚かれているかがり火の明かりしかないそこにいるのは、カサギと青年の二人だけだった。
牢の入口には見張り兵がいるが、離れていて、存在は感じない。
レイエネはというと、ファナラトを呼びに行ってしまっている。
「とりあえず、お前の名前は?」
「とりあえず、か……俺はイグザードだ。イグザード・ファソガム。年は十八で、出身はレナドゥ。見ての通りのタヴァト族だ」
「私はカサギだ。カサギ・プロウウィン。見た目とちがって十七歳だ」
「………別にそんな逃げ場をつくらなくても、そんなところには突っ込まないさ。俺はただ、頼みがあるから、遠路はるばるここまで来ただけだ」
青年、イグザードは、素っ気なく言った。カサギは、苦笑した。確かに、彼の言う通りだと思ったのだ。
よく分からないが、不思議と信用できる。言葉のひとつひとつに、真実が見える。そんな気がしたのだ。
「私は、考古学の教授の助手をしていたものだ。今は、タヴァト族と砂嵐の関連について調べている。近く、北へ旅立つ予定だったんだが」
「だったら、手間が省けたな。
あの砂嵐は、俺たちの長の命令で、決して消えることなく吹き荒れ続けている」
イグザードの言葉に、カサギは驚愕した。
こうも簡単に肯定されてしまうとは、まったく思っていなかった。驚きの後、カサギの胸に押し寄せたのは、怒りだった。
「なぜだ、なぜそんなことを! そのせいで、どれだけたくさんのひとが理不尽な暮らしを余儀なくされ、死んでいったと思っているんだ!」
「ああ、だから、俺が来た」
イグザードは、迷いのない目で、射抜くようにカサギを見た。
カサギは、黙ってその顔を見つめ、嘆息し、訊ねた。
「どういう意味だ?」
「ここに俺が来たのは、あんたらの協力が必要だからだ。俺たちは、長老たちのやり方には反対している。実は昔から反対派の集団はあったんだが、賛成派の方が人数が多くて、手出しができなかった。けど、今は違う。
かなりのタヴァト族たちが、反対派に回ってくれるようになった。
フォシマや、サノッソが、俺を………俺を信じて、送り出してくれたから。
そこで、事情を説明して、最も力のある帝国に助力を請いにきたんだ」
「そうだったのか………だが、それをどうやって信用するかが問題だ。信用するのは、すごく楽なことだけれど、私たちは、お前をすぐに信頼できない」
「信用なんかしてくれなくていい、けど、動いてみるに値することではある……だろ?」
イグザードの言に、カサギは少し思案して頷いた。
「そうだな。よし、私から色々と話してみよう。早くここを出してもらえるようにな」
「すまない。いや……ありがとう、かな。
あんたが話の分かる人で助かったよ」
カサギは、耳慣れぬ言葉に、思わず赤面した。かがり火のおかげで、そうとは分からなかったようだが、動揺は体の動きにも現れた。
ぎこちない動きで「いや」とか「そんなことないさ」とつぶやきながら、カサギは地下牢から出るため足を動かした。が、もつれて、盛大に転倒してしまった。
思いっきり鼻を打つ。
「………だ、大丈夫か?」
「う、うん。慣れてるから……私は、どうも時々、自分の体の動かし方が分からないのではないかと思うことがあるんだ」
独白めいた口調でつぶやいて、カサギは恥ずかしさに唇をかむ。
その場に何とも言えない沈黙が流れた。
「く……っ、くっくっく、ぶふふ、アーッハッハッハッハッハッハっ! なんだそりゃ、ありえないって。あんた、最高………」
イグザードは、なにやら唐突に吹きだすと、困惑するカサギの前で、盛大に笑い始めてしまった。カサギは、腹が立つやら恥ずかしいやらで、しばらく声も出なかったが、少しして、我を取り戻すと、叫んだ。
「きっ、貴様……いくらなんでも笑いすぎだ! こ……今晩は食事抜きだーっ!」
そう叫んでも、イグザードは、一向に笑いやまず、カサギは憤然として地下牢を出ると、ようやくやってきたらしいファナラトに告げた。
「あいつはまともそうに見えて、ひとをおちょくるのが好きらしいから、気を付けるんだぞ。いいな、分かったな」
ファナラトは、なにがなんだか分からないような顔をしていたが、カサギを呼びとめることはしなかった。とりあえず、それはありがたかった。
カサギは一刻も早く家へ帰って頭を冷やしたくてたまらなかったからだ。だから、ふたりに詳しい話などなにもせずに宮殿から走り出た。
あんな男にみとれるなんて、と悔しげに呻きながら、カサギは夜の通りをひたすらに疾走した。
その途中、路上で小さな死骸をみつけた。薄汚れた布地にくるまれ、微かに腐敗臭が漂ってきている。まだ、生まれて間もない赤子のようだ。カサギはびくっとして立ち止まり、少し離れたところで、街娼が客を呼ぼうと必死になっているのを見つけた。
頭が一気に冷えた。
この子どもは、私だったかもしれない。あの街娼は、私だったかもしれない。
限られた物資を奪い合うがために、凄まじい貧富の差が生まれた。プロウウィン夫妻に拾われなかったら、私は、こうやって死んでいたかもしれないのだ。
あの青年のことで、気軽に憤慨している場合ではない。
もしかしたら、この状況を脱するすべを知っている可能性を秘めているのだ。あの、憎い砂嵐を消してしまえるかもしれない可能性を、だ。カサギはふっ、と笑って、ゆったりと歩きだした。
が、ふと目にした光景は、カサギにとっては悪夢そのものだった。
ひどいショックで、体がふらつく。
そのせいで、家へ帰りつくまでに三回、転んでしまった。