第二章 心の闇
二 心の闇
プロウウィン家は、帝都のなかでも裕福な層が住む、東の街区にある。
サナラム半島の国々のなかで最も大きく、豊かな帝国ではあるが、陸からも、海からもほかのところへ行けないため、建築材料は限られている。そこで、最も豊富にあるものが使われている。土だ。
そのせいで、くすんだ黄土色の、装飾のまるでない家が並ぶ。
殺風景な風景だが、見慣れた者にとってはふつうだ。そうでないものにとっては、奇妙な印象を与える。遠くから見たならばさしずめ、土で作られたモザイク模様のようらしい。
貴族たちは、そんな殺風景ななかでも、なんとか色彩豊かに暮らそうと、壁にタイルを張り付けたり、鮮やかな布地を使ったり、窓のところに工夫を施し、大きくて暮らしやすい、美しい住宅をつくりあげた。
そのうちのひとつで、カサギは暮らしている。
「カサギ様、お客様です。レイエネ・キマリーエとおっしゃるお方で、客間にお通ししておきましたが、よろしかったでしょうか?」
「レイエネが? うん、ありがとう」
朝食後、私室で調べものをしていたカサギは、小間使いの言葉に驚いたものの、とにかく客間に急いだ。
なにか、分かったのではないか、と思うと気がはやる。
カサギの私室は三階部分にあり、客間は一階だ。大急ぎで階段を下りると、戸口代わりに掛けられている、ややくすんだ緑色の、毛織の垂れ布を跳ね上げて中に入った。
「あら、おはよう」
「お、おはよう。あの……なにか分かったのか?」
「いいえ、全然、まったくよ」
レイエネは素っ気なく答えて、銀のちいさな器で出された茶をすすった。カサギは上がった息を整えつつ、がっかりして床に腰を下ろす。客間には毛足の長い絨毯が敷かれ、その上に、毛皮が乗せられ、座れるようになっている。帝国では、基本的に、くつろぐときは床に直接座り込むのがふつうだ。食事時も、貴族ではない庶民の家では、床に座ってとる。
カサギは、座した場所に敷かれた白い毛皮を撫でつつ、訊ねた。
「何だ……それじゃあ何の用で来たんだ?」
不満が言葉ににじむ。
「昨日も言ったでしょう? 上へ報告してから、あなたたちの処分を決める、と」
「ちょっ、処分ってなんだ? 私もファナラトも、何もしていないのに!」
「まあまあ、落ち着いて。
話はちゃんと最後まで聞くものよ。あたしは、上へ報告したのよ、余すところなくすべてをね、そして、返ってきた返答は、タヴァト族を調べろっていうものだったのよ。
もちろん、あたしたちはかの一族については何も知らないから、処分という名目で、あなたたちに協力してほしい、ということなの。
ほら、大学院は独立した機関でしょう。皇族でもなかなか手出しできないから、理由が要りようなのよ。
で、調査隊を組むことになったのだけど、その隊の隊長を、あたしにしろというの。そして、あなたか彼のどちらかに、副隊長を務めてもらうことが決定されたそうよ」
「なんだって!」
カサギは頭を抱えたくなった。
あまりにも急すぎて、気持ちがついていかない。無茶苦茶だ。
「あなたと、彼以外に、タヴァト族に詳しいひとはいる?」
「いや、あとは助教授くらいだと思う。教授は、それを察することのできた者にしか真相を教えてくれなかったから」
「そう、じゃあやっぱりあなたと彼は、あたしたちに同行してもらうしかないわね。助教授は連れて行けないもの」
レイエネはそう言い結ぶと、茶を飲み干して席を立つ。
「今日はこれで帰るけれど、細かいことが決まったらまた来るわ。嫌とかそういう苦情はなしよ。あなただって知りたいでしょう? 教授の死の真相を」
「………ごくろうさま」
カサギはやっとそれだけ言うと、立ち去るレイエネの背を見送った。
ここを、離れなくてはならない。
養父母には何と言おうか。
ふと、心が弾んでいることに気付いた。生まれてからずっと、帝都から離れたことがないけれど、広い世界に憧れていた。邪魔な砂嵐さえなければ、世界はもっと広いだろうと思っていた。
その謎を解くために、半島を歩いて回れる。
カサギは、立ち上がって私室へ戻ると、簡素な部屋を見た。ただ、じっくりと。
今までありがとう、という気分で。
午後になると、いつもの楽な服装で、ファナラトがやってきた。
カサギは、図書館に行く道すがら、レイエネが来て告げていったことを話した。すると、ファナラトは、複雑そうな表情を見せた。
「頼りにされていると思えばありがたいけれど、利用するだけ利用して後で捨てられたりしなければいい、と思うよ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味。つまり、今は利用価値があるから使うけど、全部終わった後で、始末される恐れがあるってことだよ」
「始末………殺されるというのか? まさかそんなこと」
「甘いなあ、カサギは」
ファナラトは力なく笑って、黙ってしまった。それ以上はなにを話したらよいのか分からず、カサギは黙って良く晴れた通りを歩いた。
図書館は、あくまでも書物の収集のためにだけ存在している。ゆえに、利用者はごく一部の人間に限られていた。たとえ貴族であっても、学術的、または政治的な仕事をしていなければ、入場も閲覧も不可能だった。
図書館へと続く通りの人通りはまばらで、およそ活気というものがない。
現在、国で調べたところによると、人口が減っているらしい。確定したことではないらしいが、カサギはそれも仕方ないと思っていた。
あまりに限定された物資の奪い合いをしながら、半島の人々は暮らしている。貧富の差はすさまじいものがあり、今は裕福であっても、将来的にはどうなるか分からない。
自殺者も増えたそうだ。
「放っておけば、いずれ人間は滅んでしまうんだろうか?」
ふと、口に出してしまった。
カサギははっ、として口をふさいだ。目線をあげて、ファナラトを見やる。ファナラトは、カサギを見て、暗い笑みを浮かべた。
「滅ぶなら滅べばいい、と僕は思っているけどね。どのみち、人間なんて、いつかは滅ぶはずなんだよ。それが今だったとしても、驚くようなことじゃないさ」
「ファナラト?」
カサギは、不意に違和感を覚えて、隣を歩くファナラトを呼んだ。
「そうだよ。人間なんか、滅んだ方がいい。いつまでも戦いをやめないで、殺しあって、戦わなくなっても、奪いあって、他者を虐げる。動物よりひどいじゃないか。
少しでも、自分の地位やプライドを傷つけられただけで、凄まじく相手を憎む。
僕の家族なんか、家族なんてものじゃないさ。ただの、血と肉が詰まった皮膚だよ」
「お、おい! お前、変だぞ……どうしたんだ?」
カサギは立ち止まってファナラトの腕を強くつかんだ。ファナラトは、びくっ、として悲痛な表情でカサギを見て、力なく笑った。
「ごめん。その………今日は帰るよ」
「何か嫌なことがあったんだろう? 私でよかったら、話を聞くぞ?」
カサギは、必死で言った。このまま放ってはおけない。ファナラトは、カサギにとっては兄のように慕っている大切なひとだ。その彼が傷ついているのを見るのは、つらい。
「いや、君はまっすぐなひとだから、なにも言えないよ。君のなかのきれいな世界を、壊すつもりはない」
ファナラトは、そう言うと、そっとカサギの腕を外して、歩き去っていく。
カサギは動けなかった。
全身が水につかってしまったように、体が動かない。これ以上、踏み入るなと、ファナラトは、宣告したのだ。だから、カサギには追えない。
最も近しい他者に、手を差し伸べることも出来ない。
その事実は、カサギを確かに打ちのめした。