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交わる視線と老紳士

 



 黒い影が夜の道を走り抜ける。


 タニアはただ胸に湧き上がる思いだけで、木々に引っかかってドレスの裾が破れるのも構わず、ひたすらに駆けた。


 ――あの方のところへ行けば。あの方に会いさえすれば、次の行動を教えてくださる。なんとしてもあの方のもとにたどり着かなければ……!そしてあれを渡さなければ。


 夫であるリューグ男爵はもう廃人も同然だ。長い時間をかけて食事に仕込み続けた薬が、ようやく効いてくれた。あの方の邪魔になるものはすべて排除する。そしてあの方の願いを叶える、それがただひとつの望みだった。

 長年虐げられ、ある時些細なことで激昂した夫によってひどいやけどを負わされ、二度とは人に見せられぬ体にされた。頼るべき実家もすでになく、どこに行くあてもない。

 そんな中で出会ったあの方――。


 タニアはひたすらに駆けた。どんなに足が傷つこうとも、ドレスが破れようと。


 その姿を、少し離れた場所からあざけるような表情で見やる男が一人。興味なさそうに小さく息を吐き捨てると、女のあとはもう追わず今来た方向へと戻る。


 王都の隣、ラルベルのいる町へと――。




 ダンベルトはタニアの逃亡を知るとすぐに動いた。


 いまだ所在のつかめていないエディオン侯爵の命で、あの私兵が用済みのグンニルを始末し、女を逃がしたのかもしれない。グンニルは用済み、タニアはまだ利用価値があるということか。


 ――侯爵は今どこだ。女はおそらく侯爵のもとへと向かったのだろう。が、どう追うべきか。狙うとしたら次はなんだ?残りの花粉を使って、この国で何をする気だ。


 所在のわからない花粉は、男爵家所有の屋敷や建物内からは発見されていない。となればあの女がどこかに隠していて、それをもってエディオン侯爵のもとへと向かっているとしたら。




 その翌日の町では。


 ――ダンベルトさん、美味しそうに食べてたな。朝からマルタさんと一生懸命焼いてよかった。マルタさんとノールさんにも何かお礼しなきゃ。


 浮き浮きと弾むような足取りで町を歩くラルベル。


 ――海、かぁ。またタコのアヒージョ食べたいな。あとパスタと。ダンベルトさんはきっとフライを頼むんだろうな。


 ふふっと笑いをこぼしながら、ラルベルは次々と店先をのぞいていく。

 マルタさんには干しブドウたっぷりのクッキー、それとも今人気のチーズケーキがいいかなぁ?ノールさんには、甘いものよりお酒?でも最近お腹の出っ張りを気にしているしなぁ。むしろ体にいいもののほうが……?


 ぶつぶつと何を買おうか悩むラルベルである。


「すいません、このチーズケーキとクッキーをください」


 店主に元気よく声をかけて、ラルベルはマルタへのお土産を手に入れた。


「んっと……。脂肪を燃焼させる効果のあるお茶かぁ。これ、ください。あとこれも」


 ノールには脂肪に効くというお茶と、疲労回復にいいという木の実のセットを買った。これでこれからも元気にあのお店で働いてもらわなくっちゃ、と足取り軽く下宿へと帰っていく。


 下宿の建物が見えてきたあたりで、ラルベルはふと人影に気づく。


「ロル、どうしたの?上がってく?」


 階段を上がりながら最近の様子などを話す二人。


「ちょっとお前に相談があってな。お前少しの間、仲間のとこに戻るか?ずっとっていうわけじゃなく少しの間」


 突然の思ってもみない提案に首をかしげる。


「どうして?もう体ならなんともないよ。あの女の人も捕まったみたいだし、噂も平気みたいだし」

「う~ん。いや、まぁ大丈夫だとは思うんだけど……」


 タニアの逃亡は、すでにロルにも伝えられていた。だが、余計な心配をかけないようにダンベルトに口止めされている。そのかわりに、ラルベルを一時的によそへ避難させられないかと相談を受けていたのだが。


 ぶつぶつと何かを考えこみながらつぶやく幼馴染みの姿に、真意を測りかねるラルベル。その後もしばらく何かをつぶやいていたが、また来るといって出て行ってしまった。




 その日も海猫亭は繁盛していた。


「いらっしゃいませ~。こちらの席にどうぞ!今日のお勧めはアヌ鯛の香草煮込みですよ」


 新しく入ってきた客を朗らかな笑顔で迎えるラルベル。

 そこにいたのは初老の男。白髪交じりの髪に穏やかな人のよさそうな表情を浮かべて、店内をゆったりと見渡している。ラルベルと目が合うと、にっこり笑って頭を軽く下げる。


 ――商売人、ではないかな?もうちょっと品のいい、どこかの優しい大旦那様ってとこかな。


 ここで働き始めてたくさんの職業の人に会っているラルベルは、いつのまにかその人の職業や人となりをなんとなくその振る舞いや表情から見分けられるようになっていた。職業あるある、だろうか。


「ここはずいぶん繁盛しているんだねぇ。活気があって実にいい。じゃあ、お嬢ちゃんのお勧めをもらおうかな」


 少ししわがれた、でも落ち着いたバリトンボイス。そのゆったりとした品の言い話し方に、やっぱり行商人でも港で働く人ではないな、と思うラルベル。


「すぐお持ちしますね」と返事をして、厨房へむかう。ラルベルはふとその紳士を振り返ると、その肩越し、店の外から何者かの視線を感じた。


 ――誰か見てる?


 店の外にはそれらしい人はいない。不思議に思いつつも、あちこちの席から声をかけられるうちに気づけばその視線のことはすっかり忘れてしまった。


「はい、お待ちどう様。アヌ鯛の香草煮込みです。こちらはサービスのパンとクリームです。ほんのり甘くて男性にも人気なんですよ」


 さきほどの紳士に料理を運ぶラルベルは、ふと気が付いた。


 ――この人、ハーブみたいないい匂いがする。石鹸、みたいな。


 着ている衣服だろうか、体だろうか。以前ラルベルがゴーダでよく買っていた石鹸と同じ匂いがするのだ。ここへきてからはマルタが買ってきてくれる石鹸を使っているから、今となってはなんだか懐かしい匂いだ。ほんの少し郷愁にかられるラルベル。


 その紳士は優雅な手つきでナイフとフォークを使って魚を食べている。やはり、少しいい暮しぶりの人みたい。

 ラルベルがそう思いながら、ふと目線を店の外にあげたとき。


 ――やっぱり誰か見てる。


 じっとりとまとわりつくような嫌な視線だ。辺りを見回したラルベルは、一瞬視界の隅でさっと動く影を認めた。


 ――あの人?こんなに肌が汗ばむような陽気なのに、あんな首元までしっかり覆うような袖の長い黒い服を着ていて、暑くないのかな?


 そう考えて、はっとする。記憶の中の一コマが、その姿と合致したのだ。


「あの人だ……」


 いつかゴーダであった貴族の女の人。もうちょっとでラルベルがひかれそうになったあの時の女性だ。ロルとダンベルトに繰り返し言われていた。その人物を見かけたら決して話しかけたりせずにすぐに知らせろ、と。

 背中につぅ……と汗が流れ落ちる。


 ――どうしよう。ロルにフクロウで。でも、今は昼間だし目立つから飛ばせない。なら詰所に?でも……。


 ラルベルが動揺している間に、気付くとその女性は姿を消していた。


 少し離れていた場所からラルベルの様子がおかしいのに気づいた者がいた。店主のノールである。

 ノールはラルベルのこわばった顔にただならぬ事態が起きたのを感じて、機転を利かせる。実はこの店にも第二師団の部下が客として交代で潜り込んでいた。普段は隣町の警備をしているからラルベルは顔見知りではないが。

 ノールはその部下に目配せをして、すぐにダンベルトのもとに連絡するよう伝える。


 不安げな表情を浮かべつつも仕事に追われるうちに、あの紳士は気が付けばもう退店していた。


 ――見間違い、だったのかな。だってもう捕まったって言ってたし。でも一応あとでロルに手紙を出そう。


 ぐるぐると考えるラルベルを、ノールが心配そうに見つめていた。





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