忍び寄る影
海猫亭の昼は忙しい。
ひっきりなしに舞い込む注文に、常に満席状態の店内。このあたりで働く人たちがお客のほとんどを占めるから、昼の休憩にさっと食べてさっと出ていく、その繰り返しだ。午後一時をすぎるくらいには行列もほぼ解消されて、ラルベルもようやくひと心地つく。
この頃になると、空っぽのお腹も思い出したようにごはんごはん!と声を上げ始めるから不思議だ。
ということで、本日もラルベルのお腹が午後一時をお知らせしております。
厨房から今日のメニューにはないいい香りが漂ってきて、ラルベルは大きく匂いを吸い込む。
――ん~!いい匂い!昨日リクエストしたガーリックタコライスだ。
この前海に行った時に食べたタコとガーリックの組み合わせがたまらなくおいしくて、厨房にお願いして特別に作ってもらったのだ。
ご機嫌な様子で、空いた席を片付けるラルベル。
そこへ「まかないあがったよ!お食べ~」の声がかかって、スキップせんばかりの軽やかな足取りで休憩スペースへと向かう。
ほかほかと湯気をたてるタコライス。その上にはカラリと焼き色のついたガーリックスライスと彩り美しいハーブたち。具沢山のスープまで添えられている。
「ありがとうございますっ!いただきますっ」
さっそく大きな口を開けてぱくつくラルベル。
――ん~!!おっいしい~!幸せ。
大好きな町と大好きな人たちに囲まれて過ごすラルベルの一日は、今日も平和そのものだ。
いつもと変わらない光景に、おいしいごはん。
でもラルベルの穏やかな日常には、ほんの少しずつ不穏な影が忍び寄ろうとしていた。
それにラルベルが気づくのは、もう少し先の話――。
「団長!王宮より伝令です」
部下に渡された我が国の紋章が刻印されたその紙にさっと目を通すと、ダンベルトは部下に「後を頼む」と言い残して詰所を出る。
険しい顔をして、王宮へ急ぎ足で向かうダンベルト。伝令には、火急の警護案件あり、とだけ書かれていた。
王宮の正門前で第一師団団長のイレイスと出会うと、並んで王族が控える奥の宮へと向かう。ここへ出入りできるのは、王宮仕えの貴族の中でも限られた者のみであり、ダンベルトとイレイスはその限られた者の中でももっとも重要な役割を担っていた。つまりは国防を担う盾と武器としての役割である。
「なんだと思う?」
「……王族がらみではなさそうだが。あの噂が関係しているのかもな」
互いにいざとなれば命に関わる職務だ。部下たちにも危険は伴うが、それらを守る責任もある。どんな任務が与えられるのか、二人の頭にはさまざまな考えがよぎる。
衛兵により重々しい扉が開かれ、ふたりは中へと迎え入れられる。
そこで告げられたのは――――。
この国の北に広がるレテ山は、隣国との境に位置している。隣国側は断崖絶壁であり、二国間の行き来は不可能に近い。ある意味自然が作った国境の壁といえる。あまりに深すぎるその森は、地形の把握や警備上の観点からこれまでに何度も調査隊が派遣されているが、なかなか奥まで踏破できないため、時に犯罪者の恰好の隠れ場ともなっていた。
今回命じられたのは、レテ山周辺で連続で起きている連続強盗事件の調査である。
この半年くらいの間に六件ほど強盗襲撃事件が発生しているのだ。そのいずれも、被害にあったのは積み荷を多く積んだ大型の荷馬車で、人的被害もでている。犯人の目星はついておらず、有力な目撃情報もない。
ただひとつ共通しているのは、いずれも鋭い爪か牙のような痕が被害者の体や荷に残されている点である。獣の仕業とも考えられるが、目撃者はいない。急に風を切るような音が周囲でして、気がついたら怪我を負っており、意識を失っていたのだという。
しかも周囲には、被害にあった荷馬車以外の車輪の跡や足跡は残されていないのだという。
どうにも不可解な事件である。
もともと地理的にいっても隣国からの侵入者の可能性が完全には否定できないこともあって、ダンベルトには襲撃事件の詳細と近くの町や港での聞き込み調査が、イレイスの部隊には隣国の内定調査が命じられた。
「噂、か……」
ダンベルトは小さくつぶやく。
レテ山周辺が最近騒がしいのはダンベルトも把握していた。先日港へラルベルと行った時も、念のためレテ山に近いルートを避けて若干遠回りしたのだが。
単なる盗賊などの輩か獣か、それとも――。
実は最近、レテ山周辺では奇妙な噂が流れ始めていた。
ヴァンパイアが現れたという噂である。無論ヴァンパイアなど昔話にでてくるような架空の存在だろうが、なぜそんな奇妙な噂が突然流れ始めたのか見当もつかない。この襲撃事件も、実はヴァンパイアの仕業ではないかと恐れる者も出てきている。
――誰かがおもしろがって流したほら話だろうが。とにかく今は調査に向かうための準備を急がねば。
詰所に戻ったダンベルトは、部下の人選と各所への伝達、装備の用意などにとりかかる。留守の間に何か事が起きた場合の対処も考えておかなければならない。
――調査は長くて一週間程度か。ラルベルにしばらく詰所にはこないよう言っておいた方がいいかもしれない。
レテ山近くの集落からきたといっていたが、あの近くに家族や知り合いがいるなら気をつけるよう話しておくべきだろうか。いや、しかしこれはまだ機密事項だし、変にこわがらせるのも……。
しばらく考え込んでいたダンベルトだったが、「少し出てくる。準備を頼む」と部下に伝えて詰所を出る。
海猫亭はやはりほぼ満席状態で、賑わっていた。接客の合間に話ができないかと、しばし店の外から様子を伺う。
「ダンベルトさん?そんなとこでどうしたんですか?」
ラルベルに見つかってしまった。仕方なく仕事の邪魔をしてすまないと思いながら、用件だけを告げる。
一週間ほど詰所を留守にするからその間は詰所に立ち寄らないように。でも何か困ったことがあればいつでも部下を頼るようにと。
ラルベルはダンベルトの平静を装うもどこか張り詰めた様子に気がついていた。
何も心配いらないと笑っていたけど……。
詰所へ戻っていくダンベルトの背中に、なんだか急に心細く迷子のような気持ちになるラルベルだった。
詰所ではイレイスが団長席に座り、こともあろうか酒を飲んでいた。部下は倉庫で何やら準備をしているらしく、ガタゴトと物音がする。
「勝手によその詰所で酒を飲むな。お前もまだ勤務中だろうが」
そう言ってグラスを取り上げるダンベルトに、にやりと笑って「ラルベルちゃんに会ってきたんでしょ」とポケットからもうひとつグラスを取り出す。
「しばらく留守にすると伝えただけだ」
イレイスは飄々とした顔でダンベルトの手からグラスを取り返して二つの小さなグラスに琥珀色の酒を注ぐと、一方をダンベルトに手渡す。
「例の件だが、獣という線は捨てきれないが、それにしてはどうも傷口が綺麗すぎる。あの辺は街道からも離れているからな。山に何者かが潜伏していても不思議ではないが。まぁあの噂はともかく。気をつけろよ、どうも嫌な予感がする」
ダンベルトは無言でグラスをあおる。
「それで?ラルベルちゃんはどうだった?寂しがられた?」
いつも通りの軽薄さでからかうイレイスをにらみつけながら、先ほどのラルベルの顔を思い返す。
――やはり少し不安にさせてしまったか。しかし、詰所のあたりも夜はたまに喧嘩騒ぎなんかがあるし、なんといっても嫁入り前の女性なのだし。
そう考えて、ラルベルをいつのまにか子どもではなく女性として見ている自分に気づく。
いや、違う。そういうことではなくて。
頭の中に浮かぶ気持ちを打ち消すように、二杯目の酒を一気にあおる。
「お前もまだまだだねぇ。うかうかしてるとさらわれちゃうよ?あ、ちなみにお前の留守中は俺がラルベルちゃんの様子みておいてやるから、安心していってこい」
思わず本気でにらみつけて「一ミリも近づくな。軽薄がうつる!」と言い捨てると、イレイスは楽しそうに笑いながらひらひらと手を振って詰所を出ていった。
「ったく。この忙しい時に余計なことを」
もやもやと晴れない気持ちで、ダンベルトはイレイスが置き忘れていったグラスと酒瓶を忌々し気ににらみつけるのだった。