お酒を与えないでください
エステル視点。
両片思い状態のお話。
※恋人ではないけど両片想い状態
エステルは、ヴィルフリートよりも三歳年下だ。
普段はあまり意識していないし、年の差と立場を抜きにして気軽に接しているが、彼は年上の男性で、立派な成人男子。れっきとした異性である。
「……エステル」
それを今更に思い知ったのは、ヴィルフリートが熱っぽい眼差しで自分を見てきたからだ。
エステルがずっと焦がれ続けてきていた綺麗なサファイアの瞳は、普段は理知的で冷えた印象を抱かせるのに、今だけは膨大な熱を孕んで内側から溶けたように熱そうだ。
瞳だけでなく、頬も熱そうに見える。何せ白皙がすっかり赤に染まっていて、林檎にでもなるのではないかというくらいに、色づいている。
鼻先を掠める吐息すら熱くて――おまけに、お酒の濃厚な匂いがした。
(どうしましょうか、流石にこんなに酔うとか思っていませんでした)
いつもなら幸せ一杯のぎゅーが、今日ばかりは困惑混じりになってしまう。
事の発端は、ディートヘルムが気まぐれでくれたブランデーからだった。
ディートヘルムは、基本酒類は摂取しないようにしている。ワイン片手に執務室の椅子で脚を組んで傲岸不遜な笑みを浮かべているのが似合いそう(エリク談)なディートヘルムだが、本人はお酒は好まない。
しかしながら人からもらってしまったらしく、どうしたものかと処理に悩んだらしいディートヘルムが、ヴィルフリートなら料理に使うだろうと譲ったのだ。
ヴィルフリートもとんでもないところから譲られてきて驚いていたようだが、最高品質のものを譲ってもらえたのは素直に喜んでいた。
風味を確認しようと味見がてらに一杯飲んで――そして、酔っぱらったのだ。夕食後、エステルの、目の前で。
酔っぱらったヴィルフリートは、まずベッドにエステルを引っ張って座り、エステルを膝に乗せた。
自ら乗せた時点で彼がいかに酔っているか分かるだろう。素面ならまず自分から乗せるのはないし、そもそも自らくっつく事がないのだから。
向かい合わせで腿にエステルの腰を下ろさせたヴィルフリートは、そのまま戸惑うエステルを抱き締めてしまった。
「……ん、……いい匂いですね、エステルは」
首筋に顔を埋めたヴィルフリートが、熱い吐息に甘い響きを乗せて囁く。
それだけで背筋が震えるのは、あまりにも普段と違う積極性を見せているのと、えもいわれぬくすぐったさを覚えたからだ。
いい匂い、と言われてもピンとこなかった。
確かに夕食前に湯浴み(ヴィルフリートに自宅でしてくれと渋られるが)をさせてもらったので、石鹸の香りはするかもしれない。けれど、ヴィルフリートと同じものを使わせてもらっているので、ヴィルフリートには嗅ぎ慣れた匂いの筈だ。
「……石鹸は、ヴィルと同じものですよ?」
「あなたそのものがいい匂いなんですよ。……甘い匂い」
「ひゃ」
軽く唇で皮膚を撫でただけなのに、それだけでえもいわれぬ感覚が体を走る。
それが、唇が移動する度にどんどん増えていくのだから、エステルも身じろぎしてしまうのも仕方ないだろう。
本当に普段ならば有り得ない事だが、ヴィルフリートはエステルの体に触れる事を躊躇わなかった。
「……エステル」
甘い声で名を囁かれると、抵抗する気力が全部削がれて持っていかれる。元々、抵抗する気がなかったのだが……どちらにせよ今のエステルは、ヴィルフリートの声で体から力が抜けてどうにも動けないのだ。
上気した頬で愛おしげに見つめられると、余計に力が出ない。ゆっくりと頬に口付けられると、幸福感で溶けてしまいそうになる。
いつもならば躊躇うヴィルフリートが、今ばかりはみずから唇を押し当ててエステルをふやかしてぐずぐずにしようとするのだ。これで唇にされてしまったなら、エステルは恐らく、ヴィルフリートの思うままにとろけてしまう。
(酔ってる、と、ヴィルは……何だか、色っぽいです)
側に居るだけで匂い立つ色気が、エステルの腰を砕くのに一役買っていた。
素面のヴィルフリートは、どちらかといえば保護者の印象が強い。もちろん男性だという事は分かっているのだが、頼りにして甘えてしまう。
今のヴィルフリートは、保護者よりも男そのものだ。
元々、外見は整っているヴィルフリートだが、その魅力がとことん前面に押し出されている。
よくよく考えればヴィルフリートは体つきはしっかりしているし、触れれば引き締まった硬さを感じる。面倒を見てくれたディートヘルムとは違う男らしさがあり、抱き締められると性別差を突き付けられるのだ。
その上で普段は呆れたり優しい顔をしている事が多いヴィルフリートが、熱っぽく、愛おしげに、そしてどこか獲物を狙うような表情をしているものだから、何というか、心臓と腰に悪い。
「あ、あの、ヴィル……?」
「なんですか、エステル」
「その、……わ、わたし、美味しくないですよ……?」
何だか食べられてしまいそうでそんな事を口走ると、ヴィルフリートは一瞬呆気にとられたような表情をして……唇を、吊り上げた。
「俺にとっては、とても美味しいと思いますよ?」
「そ、そうですか?」
「あなたにとって俺が美味しいのと同様に、俺にとってもあなたは美味しいです。……少しくらい、味見をしてもよいとは思いませんか」
味見、そう繰り返すエステルの首筋に、ヴィルフリートは噛み付いた。
噛み付いたといっても甘噛みであり軽く歯を押し当てただけなのだが、エステルの体はこれでもかと刺激に震えた。ぴり、と弱い電流が走り、エステルを混乱させる。
思わず離れようとするエステルを、ヴィルフリートは逃しもしない。
それは当然なのかもしれない。
なにせ、エステルはヴィルフリートの可愛い獲物なのだから。
「……エステル」
そう囁かれるだけで、少しだけ浮かんだ抵抗する気力も、鎮められる。
ブラウスのボタンが上から三つほど弾かれても、今のエステルはされるがまま。
乳白色の山が寄り合う場所に口付けられても、ただ体を震わせる事しか出来ない。
別に嫌という訳ではなかった。エステルにとって、ヴィルフリートに触れられる事は嬉しいし気持ちのよい事だ。
けど――何故だか、今は無性に恥ずかしかった。
タオル一枚の姿も見せた事があるのに、少しはだけただけの今の方が、何倍も恥ずかしくてたまらない。唇が薄い肌をなぞる度に、心臓が跳ねて暴れまわる。
掌が膨らみを包んでやんわりと指先で戯れているのも、何というかとても変な気分で悶えそうで。
ちゅ、と肌を吸われるとぴりりと痛み未満の感覚がするから、エステルはもう限界だった。
「っヴィル、だめ、ねんねの時間です!」
思わず子供に対する言葉になってしまったが、その勢いは和らげず、エステルはヴィルフリートをそのまま後ろのベッドに押し倒した。
きょとん、といった風に目をしばたかせたヴィルフリートに、エステルは躊躇なく魔法をぶつける。といっても、睡魔を誘発する魔法であるが。
酔いと油断が功を奏したらしく、ヴィルフリートはそのまま意識を落とした。
すぅ、と穏やかな寝息に変わったところで、エステルはヴィルフリートの腿から降りて……自分の胸を押さえた。
ほんのりと残る、掌の感触。
嫌ではない、だが、酔ったヴィルフリートに触らせるのは、あまりよくない気がする。なんというか、とても、心臓に悪い。
素面ならまだ良かったのだろうか。そもそも素面なら自ら触りたがる事もないと思うが。
ヴィルフリートによってはだけられた自分の服装を見ると、胸元にはいくつか、赤い点が落とされている。
先程ヴィルフリートにつけられたものだろう。
これを見ていると、何だか胸が熱くなる。まるで、ヴィルフリートに触られた証のよう。
見ていると気恥ずかしくて前を閉めてから、エステルはヴィルフリートの横に転がった。
魔法のお陰で静かな寝息をたてている彼の寝顔を眺め、エステルもまた、瞳を閉じる。
この体の火照りは、寝たら収まっていると信じて。
エステルが朝起きると、ヴィルフリートが愕然とした様子でこちらを見ていた。
なんというか顔が真っ青で、慌てたというよりはショックを受けたようだ。エステルの覚醒に余計に顔色が悪くなっている。
そういえば昨日ヴィルフリートと一緒に寝たな、なんて他人が聞けば誤解しそうな事を思い出したエステルは、そのまま横たわったヴィルフリートの胸に転がり込んだ。
ヴィルフリートの心臓が跳ねたのは気のせいではあるまい。
まだまだ寝足りないエステルは、丁度よく安眠抱き枕が側にある事を寝惚けた頭で喜んだ。
昨日はどきどきしたが、今朝はそんな事はなく、安心感と幸福感だけが満ちている。きっと、昨日のはお酒のせいだったのだろう。お酒は怖いもの、そう認識しつつ、あのヴィルフリートも格好よかったな、なんて考えながら、ヴィルフリートの胸に顔をうずめた。
これに困惑したのが当のヴィルフリートで、彼は大きく体をゆらして、どこを掴んだらいいのか悩んでから肩を掴みそっと引き剥がす。
エステルの寝ぼけつつの不満げな眼差しに、ちょっとショックを受けていたようだが。
「あ、あの、エステル、俺は昨日……」
「……ふぁ……お酒飲んで、酔って、一緒にばたんきゅーしました」
「……襲ったりは?」
「襲う?」
「ああいえ良いです、多分、この調子だと致命的な事はしてなさそうですから」
何やらほんの少し安堵したらしいヴィルフリートが体をエステルごと起こすので、エステルもそれに甘えて体を起こして、ヴィルフリートの胸にもたれた。
……何やらまたヴィルフリートが固まり始めたが、エステルは構わずヴィルフリートに頬擦り。彼女にとって、ヴィルフリートが朝起きて側に居る事が、一番幸せだった。
ヴィルフリートに文句をつける気もないエステルにしばしヴィルフリートは動揺して、やがてエステルを優しく抱き締める。諦めた、に近いが。
「……失態をお見せしてすみません」
「よく分からないですけど、いつもより、くっついてくれました。嫌じゃないですよ」
「……なんというか、俺は何したんだ……」
思わず素に戻っているヴィルフリートに、エステルの「敬語がとれた」と期待の眼差しが突き刺さる。こほん、と咳払いしたのは、仕切り直しのためだろう。
「あっそうだ。ねえヴィル、これ何ですか?」
そういえば、と昨日付けられた痕を見せるためにブラウスのボタンを三つ外した時点でヴィルフリートは顔を背けたのだが、見てもらわない事には何なのかも分からない。
見えやすいようにブラウスをはだけたエステルが白い肌に刻まれた赤の華を露にすると、ちらりと視線を寄越したヴィルフリートが固まった。
今朝はよく固まるな、と他人事のようにエステルが見上げていると、ヴィルフリートはぎこちない動きで、エステルの柔肌を恐る恐る見つめる。
真っ白な肌に咲いた赤色。それも、胴体を緩く覆う下着で隠れるか隠れないかの際どい位置。
エステルとしてはこれが何なのか知りたかっただけだったのだが、ヴィルフリートは今にも壁に頭を打ち付けそうに眉を寄せていた。
「……ええと、酔った俺は一体何をしでかして……いや、誠に申し訳ありません。その、……酔って、キスマークを付けたようで」
「キスマーク?」
「あー、……肌を唇で強く吸うと、細かい血管が破れて内出血するんです。それがこうして痕になってしまうのですよ」
「なるほど。じゃあ何でつけたんですか?」
「な、何故、ですか……それはその……ええと、……エステルが、可愛いから?」
どう説明するか迷った末の言葉のようだったが、エステルは可愛いという単語に気恥ずかしさを覚えてはにかんだ。
(可愛いからするなら、ヴィルが可愛いときにもして)
「言っておきますが、これ俺にはしないで下さいよ」
思考を読んだように先手を打たれたエステルは、ヴィルフリートに不満も露だったが、ヴィルフリートが頑なに駄目だと言うものだから渋々引き下がる事にした。
むう、と唇を尖らせたエステルにヴィルフリートが苦笑してそっと抱き締める。いいこいいこ、と背中をぽんぽんされて、安堵感が広がるのと同時に――やっぱり、昨夜のヴィルフリートとはどきどき感が違うな、と思ってしまうのだ。
(お酒の力が、ヴィルをあんなに色っぽくさせたのでしょうか。同じように触られても、お酒抜きでは違うのでしょうか)
「ヴィル」
「はい、なん、」
手っ取り早く確かめてみようと、エステルはヴィルフリートの抱擁から抜け出して、手持ち無沙汰になっている掌を、そのまま昨日されたように膨らみに押し当てた。
むにゅ、と音を立てそうな風に食い込む指先。エステル自身ちょっと邪魔になってきたそれを包み込む掌。
布越しにヴィルフリートの温もりを感じたものの、昨日ほど胸の高鳴りを覚える事もなかった。
ヴィルフリートは、片手に膨らみを収めたまま固まっている。
「やっぱり酔ってないヴィルにされてもどきどきしませんね。変なの。うーん、不思議で」
す、と最後まで言い切る前に、視界が引っくり返った。
ヴィルフリートが目の前に居るのは変わらなかったが、背景が天井になっている。
背中にマットレスの感触を感じながら、エステルは何が起こったのかとヴィルフリートを見上げる。
彼は、片手はそのままエステルの胸に置いたまま、じっとこちらを見ていた。
但し、その眼差しはいつもの優しげなものでも、呆れたようなものでもなく……もっと、好戦的なもので。
「……酔ってない方が怖いこともありますからね、エステル」
熱は宿っているのに冷えた眼差しで、彼は笑った。
掌の下で、心臓が跳ねる。
あれ、と自分の変化に戸惑うよりも先に、ヴィルフリートは身を屈めてこちらに顔を寄せた。
「俺も男だって事を、忘れるなよ」
耳元で囁かれた、初めて聞く低くてどこか挑発的な声。
腰が奇妙な熱と痺れを覚えて、自然と体が震えてしまう。甘さを孕んだ低音に、体の内側から熱が弾けるような錯覚すらあった。
お酒を注ぎ込まれたように、内側から酩酊していくような感覚。ヴィルフリートのお酒は抜けている筈なのに、その声自体が美酒のように甘美な響きで。
心臓の側に置かれた掌が、やんわりと山を撫でる。
それだけで、昨日とは比べ物にならないほど、どきどきした。
(もし、もっと触られたら?)
この掌が撫でるだけじゃなくてもっと他の事に乗り出したら、自分はどうなってしまうのだろう。
想像はつかなかったが、おそらく、これの比ではないほどに胸が高鳴るのだろう。
それは、嫌ではなかった。
「――さて、俺は朝御飯でも作りますかね。微睡むのも大いに結構、あなたは寝惚けていらっしゃるようなので、どうぞそのまま寝ていてください」
けれど、変化は唐突だった。
あっさりと、いつもの表情に戻ったヴィルフリートに、戸惑うのはエステルの方が。
さっと体を起こしてベッドから降りるヴィルフリートに、エステルはベッドに転がったまま呆然と見送るしかない。
心臓のどきどきは、止まらないまま。
エステルは、ヴィルフリートの背中がキッチンに消えるのを見てから、シーツを勢いよく被った。
(……ヴィルフリートも、男の人、だった)
当たり前のようで、忘れがち。けれどずっと感じていた事を、今更に突き付けられたエステルは、顔を林檎のように染めて枕に顔をうずめた。
当然、寝られる訳がなかった。
「……危なかった」
だからこそ、ヴィルフリートがキッチンの床にしゃがんでいた事に、気づく筈もない。




