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柱時計は計らない❖4



❖――視点:サハリ



 くずおれるともがら


 受け止めた腕にカムロの身体が撓垂しなだれかかる。じっとりと染み込んだ血が水音を立てて袖を濡らす。


 相当な無理をしたのだろう。ずっとその背中を追っていたからこそ、私にはわかる。この女がいかに努力を積み重ねて地位を築いたのか。


 彼女は一代目国家アーゲイの山中に庄を構える杣人そまびとの出だ。もともと前線からは遠く、神人種にならなくともそれなりの平和と安寧を享受できたであろう。それがいかにひっそりとしたきこりの生活であろうとも。


 ……だというのに、彼女は神人種となった。

 手足を失った兵が身を寄せ合い、余生を送るアーゲイの風土に触れながら幼年期を過ごした彼女の胸中には彼女なりの平和と正義の念があったのだろうか。そして神族近衛隊の頂点に立つ才覚まで持ち合わせていた。


 一方で私はどうだ。


 前線辺境の四代目アルクトィスで魔人の母と獣人の父の間に生まれ、日々血生臭い腐肉と蠅の集る貧民窟で口に糊する生活だった。

 この世を恨み、一石を投じるために必死の思いで神人種となったが、突き動かす原動力は似て非なるものだ。


 私が怒りを胸に生きるなら、彼女は理想を胸生きていた。

 神殿の矛である隠密斥候隊と盾である神族近衛隊……光と影の中で彼女の武勲に照らされ炙られいつしか目の敵のように思っていた。


 大儀そうに胸を張って情勢の描かれた紙面を眺める彼女が嫌いだった。


 己の命を賭けずに掲げる正義など、所詮温室育ちの絵空事だと断じていた。


 しかし、今は違う……


 精魂使い果たし、傷だらけで倒れる彼女の重み。その背に負った想いが手に取るように分かる。


 絵空事と誰が言えようか。


「……本当に、お前が羨ましくて腹が立つ……」


 結局、心を明かせば私は嫉妬していたのだ。


 生まれも血も地位も恵まれている彼女を見て、劣等感に苛まれていた……引き摺り下ろす機を窺って馬脚を現せと願っていたのに、裏の姿をいざ見れば、より一層の敗北を知る。


 私では到底成し得ないひたすらな修練。武術や魔呪術だけではない。世を治めるための研鑽に齷齪あくせくと机に向かって夜を過ごしていただろう。


 生まれも育ちも関係ない。

 費やした時間が違うのだ。


 負けて悔しいと思うには、その差はあまりに歴然としている。


「何かを得るためには何かを失う。……その上でお前は、全てを投げ捨てる強さがあった」


 杣人としての穏やかな生活を捨て、円卓では神人種としての地位を捨て、今は失った部下の為に全てを捨てて、ここにいる。


「……でもな、そんなの馬鹿がやることだ――」


 私は意識を失っているカムロに対して語りかけるように呟いた。


「――異世界人ヴォイニッチに影響されたのかもしれないが、あの男のやり方は到底真似できるものじゃない。真似しちゃいけないんだ……家族も地位も生活も守らなければいけない私達にはな……」


 この世界に迷い込んだだけの男とは違う。私達はこの世界に積み上げて来たものがある。捨てられないものがあるはずだ。


 『何かを得るために何かを失う』……その等価交換の中で、払える代償には限度がある。


「カムロ……お前は全てを失った。

 代わりに手に入れたものはあるか……?」


 些か仁に欠ける私の言葉にカムロは答えるはずもなく意識を失っている。

 ゆっくりと床に寝かせると私は部下達に振り返り、迎撃の指示を飛ばす。


「各自、チクタクに侵入する魔獣供から人民を守れ。

 この作戦の要はこの国の防衛……今だけは『矛』であることを忘れ、命を護る『盾』となれ。

 護るべき命にお前達も含まれていることを忘れるな」


「はっ!!」


 短い応答が返されると、私は手を前に突き出して振り払う。それを合図に部下達は散開し作戦を開始した。


 チクタクの守備がこれで安定するだろう。しかし、これからどう動くべきか――


「……驚いたな……」


 背後から聞き慣れた声。私の胸は早鐘を打つ。


「隊長……!」


 今しがたアウロラから抜けて防壁にたどり着いた男。どこかで失ったのだろうか手には得物も持たず、額から血を流し荒く息を吐いて座り込む男こそ隠密斥候隊の隊長である。


「生きていたのですね……」私は堰き止めていた涙が抑えられず声が震える。


 ランダリアン――二度と会えないと覚悟していた者だ。


「ああ。死ぬかと思った」隊長は私の頭を荒く撫でる。「戦場で泣くな。サハリ」


「っ……はい」私は頷き涙を拭う。


 賢人種ラソマは虫の息であるカムロの治癒術式を行いながら、顔面蒼白でランダリアンを見上げる。


「貴方まで怪我してるじゃないですか!」


「いや、軽症だこんなもん」ランダリアンは滴る汗と眉に貯めた血を親指で拭い飛沫を飛ばす。「……それよりカムロは大丈夫なのか」


「カムロさんは、現状ではわかりません。一命を取り留めたとしてもこの腕はもう……壊死が酷い」


 ランダリアンは膝をついたままカムロの容態を窺うと「そうか」と呟き、それから私を見上げる。


「部下達にはどんな指示を」


「はい。隠密斥候隊は神殿に現れた半人半龍の化け物と戦闘を行い、内十一名が死亡しました。

 残る十五名は現在チクタクの防衛に当たっています」


神族ラヴェル様は?」


「近衛隊と共にラーンマク地下壕に身を隠しております。このまま暗渠を辿ってここに合流する手筈です」


「了解。俺の代わりに指揮を執っていたのか……苦労をかけたな」


「いえ……当然の、務めです」


「今更言うことではないが、改めて言わせてもらう。

 いいか、死ぬな。……この争いは過去の比じゃあない。世界が終戦に向かって激しく火花を散らしている。

 今日を乗り越えれば……永きに渡る戦争に終わりが来るかもしれない。意地でも今日を乗り越えろ」


 真剣な眼差しに見つめられ、私はこくこくと頷いた。


 死なない為に、死ぬ気でこの死線を越えなければならない。そのためには隠密斥候隊としてやらなければならないことがある。隊の皆が明日を生きるためにやらなければならないことが。


「継承者を探さなくてはなりません。禍人領へ向かいますか?」


「いや、その必要はない。色濃い臭いが近付いてるからな。

 忘れもしない……断罪者ガントールの臭いだ。災禍の龍をやるつもりだな」


 その言葉に私はアウロラの方に目を凝らした。この距離ならば目視で確認できるはずだ。


 北上する黒い巨躯はすでに五代目を抜けて四代目国家デレシスの湖に片足を踏み込んでいた。その後ろに続いてきらきらと鋭い輝きが追従する。

 もしあれが継承者と禍人種であるなら、途方も無い戦力差だ。蟻が蜥蜴に挑むような……


「あれじゃあ『命がいくつあっても足りない』。合流するぞ。サハリ、武器はあるか?」


「武器、ですか……有るだけかき集めて来ましたが……」


 私はおずおずと部下の集めた武器を指し示す。それらは全て神殿から携えてきたもので、隊に属する者が帯刀する細剣レイピアから暗器の類いが数種。その他は壁に飾られていた旗槍や軍刀等、心許ないものばかりだ。


「正念場だというのに、このくらいしか……」


「何故だ? 蔵に幾らでもあっただろう」


 そうだ。神殿の蔵には有事に備えた武器の類が潤沢にあったのだ……しかし――


「私達が武器を回収するより先に蔵は破壊されていました」


「女型か……やはり知能があるようだな」ランダリアンは苦々しく顔を顰める。


 女型。たしかにあの黒い化け物は蛇堕とは外見が異なるものだった。通常の蛇堕であれば強靭な尾が形成される代わりに脚は無くなっている筈だ。

 神殿では遠目でしかその姿を見ていないが、あの化け物にはこれ見よがしに強靭な脚が備わっていた。そして上半身は不釣り合いに小綺麗な人の姿。


 半人半蛇ではなく、半人半龍。


「あの……ランダリアンさん。サハリさん……」


 不意に問いかけるラソマの声に振り向く。彼は恐る恐るといった態度で続ける。


「筋違いな事を聞いてしまうかもしれませんが、生き残るのが優先ならば、勇んで継承者様と合流せずともここの防衛に徹している方が良いはずです。

 それに、貴方達は神族近衛隊では……?」


 その問いに私は口を結んでランダリアンと視線を交わす。

 矛と盾――明るみには存在しない隠密斥候隊。明かすわけにはいかないだろう。


「神人種から選定された討伐隊みたいなものでな。近衛隊とは別だ。

 そしてラソマの言う通り、勇んで継承者と合流しなくとも確かに生き残れるだろう。だが兵隊ってのは命を捧げて人を守る為にある。ただ生き残るだけでは死んだも同然なんだ」

 

 ランダリアンは軍刀を握り鍔と鞘に浮いた錆に息を吹きかけて抜刀すると、眠っていた刀身の具合を確かめる。


「それに、少し訳ありでな。

 ……俺達の命は継承者に捧げられている」


 ランダリアンの言葉にラソマは首を傾げた。


「それってどういう――」


「隊長、その話は……」私は間に割って入るとランダリアンに対し声を顰める「公に明かしては都合が悪いのでは」


「いいさ。こんな話墓まで持って行ってなんになる」


 ランダリアンはそう言って私を跳ね除けるとラソマに話した。


「神殿では継承者に対して祈祷を行うのは当然知っているな」


「ええ、出征に際して行われる強力な加護の魔呪術を施すと聞いております」


「それだけの治癒術式を展開するには当然、莫大な魔鉱石を消費するだろう。ムーンケイでは産出量が減少しているというのに神殿にはそれができる……何故だと思う?」


「それは……その他の鉱脈からも税収として集めているからでは……」


 そう答えるラソマの顔にはあまり自信がないように見えた。実際、その答えは不正解である。


 ムーンケイ以外の鉱脈といえば三代目三女国家レクーと、四代目三女国家アルクトィスに走る山脈に点在するが、産出量は雀の涙ほどでしかない。

 ラソマもその現状を把握しているからこそ、己の解が正しくはないと顔を曇らせているのだろう。


「はずれだ。出征式典の際に行われる祈祷には、我々『日陰者』の神人種の命が捧げられている」


 言った。

 遂にランダリアンは言ってしまった。

 隠密斥候隊の存在こそ隠してはいるが、そこに属する者の役割を明かしてしまった。


 ラソマは絶句して色を失う。視線は揺れて、私――恐らくは長い赤髪から覗く形態異常の角――を見て、次にランダリアンの浅黒い肌を認めた。

 獣人種であるはずなのに、背丈は『天を衝く』とは言い難い男の容姿に気付いて、這々の体で言葉を取り戻した。


「神人種の……混、血……」


 隠密斥候隊は皆――混血。


 その身に二種の血を流し、体のどこかが歪んでいる者たちで構成されている。


「ヴィオーシュヌ教は本来、血を混ぜることを嫌います……神殿であれば、混血の者を神人種として向かい入れる事はあり得ない……

 でも、貴方達はここにいる……」


 ラソマは自身の言葉にますます青くなっていく。


「継承者様が傷を負えば、その分だけ貴方達の命が削られる……そうなんですか? ランダリアンさん」


「ああ、そうだ。部下達も含めた全員が生きて明日を望むには、これ以上継承者様に傷を負わせない必要がある」


 だから、私達は災禍の龍と戦う。


「そんな……」


 ラソマはそれきり押し黙ってしまった。切ない視線をこちらに投げかけては、かける言葉もなく俯く。


 知りたくない事実だろう。こと賢人種は信仰が厚い。いかにも信心深そうなこの男には受け入れがたいこの国の暗部だ。


 ランダリアンは小さく気丈な笑みを作り、軍刀と旗槍を持って立ち上がる。


「ま、いろいろ思うところはあるだろうが、カムロを頼んだぞ。

 俺達は災禍の龍に挑んでくる」


 じゃあな。と歩き出すランダリアン。私は後髪を引かれながら、防壁に残すラソマを見る。


「どうか――」


 ラソマは両手の指を組み合わせて祈る。その後に続く言葉は衝撃にかき消されてしまった。私はその穴埋めを解くように祈りを返す。


 ああ、神よ。どうか我らに救いを。

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