柱時計は計らない❖3
押し寄せる魔獣の勢力によって戦況は卍に入り乱れる。
空から飛来する魔獣の圧倒的な数に対して防壁に備わっている戦闘魔道具では対処しきれない状況にまで圧されていた。
およそ一〇〇体の侵攻の内二〇体の割合で、魔獣は光弾の雨を掻い潜り国内に襲い来る。
私は逃げ惑う人々を誘導しながら、討伐体と共にチクタクへの非難を促す。
割れるように痛む頭。思い返せば碌に飯も食べていない。ランダリアンに発破をかけて見せたものの、かなり無理をしていた。
「あまり余裕はないですが……貴女《私》は神族近衛隊の長なのです……」自分に言い聞かせるように呟く。「無理をしないと、この死線は乗り越えられませんね」
姿勢を正し拳を固めると、心の中で静かに唱える。
――伍之術『獅子座』……
纏う白衣に隠した身体、指の先まで血は滾り鼓動は高まる。そして、全身の筋肉が破裂するのではないかという程に膨張し、冴え冴えと感覚は研ぎ澄まされて収斂する。
全身は鉄のように固く引き締まったものに変わり、後ろに束ねていた髪は棘のように芯が通り、火の粉の舞う風に踊る。
万全ではない体では消耗も酷い。果たしてどこまで行けるか――無論、死ぬまで止まる気は毛頭ないが――死期が早まっているのは鮮明に感じられた。
群がる魔獣は破れ鐘のような鳴き声をあげる。本能で危機がわかるのか、距離を置いて警戒している。
獣であれば力量を悟り逃げるだろうに、次の瞬間には狂ったような声を上げて迫ってきた。
私は地を蹴り攻撃を躱すと翼を掴んで引き寄せる。
細く伸びた首に腕を掛けると捻りを加えてへし折った。魔獣はだらりと四肢を垂らして泡を吹く。
勝てる。が、これではだめだ。
得物がないと時間がかかる……!
群がる魔獣の数は三体。いずれも頚椎を捻りやり過ごしたが、焦眉の急武器の一つでも手に入れたい。
辺りに武器が落ちていないかと視線を彷徨わせていると、瓦礫の山の一つに目が止まる。
火の気が上がる柱に瓦が黒く焦げ、煉瓦と煤けた白壁の瓦礫が積み重なった僅かな隙間、そこから覗く子供の足がもがいて暴れていた。
助けるべきか――私は込み上げる酸を飲み込み苦い顔をする。
最悪だ。己の身一つで精一杯だというのに、武器どころか背負うものが増えてしまう。追い詰められていることははっきりと自覚しているのに、目の前の命を見捨てることはできない。
「ッ! ……今助けます!!」
駆け寄って様子を見れば、少年は目立った外傷がないことがわかった。二階建ての民家が折り重なる形で崩れたのだろう。瓦礫は互いに寄りかかるようにして隙間が生じている。
中からはくぐもった声が聞こえた。
「だれか……だれか助けて!」その声は子供のもので、恐らくは少年。
私は瓦礫の柱に手を引っ掛けると上体を逸らし、ぐっと上に持ち上げる。
「今……助けます……!!」私はありったけの力を込めて隙間を作ると少年に叫ぶ。「早く、そこから出て――」
ばつん。
背後から突き飛ばされる衝撃。
皮膚が裂ける音。激痛が走り、左肩の力が抜ける。
視線を横へ向けると、首元に牙を沈ませる魔獣の血走った目がそこにあった。
「ぐッ……ぬぅぅぅ――!!」
迸る鮮血。肩口の肉を抉られて尚私は残された力を振り絞り瓦礫を持ち上げる。
「お、お姉さ……」
滴る血が焼けた土に溜まり、鉄臭い煙を昇らせる。
やっと開いた逃げ口には真っ赤に染まった私とその首に噛み付く魔獣が待つ。
少年は震えて動けずにいた。身を縮こまらせて、その手には一振りの包丁を握りしめていた。
武器を探していた私が見つけたのは子供一人と小さな刃物一つとは……神様はなんとにくいことをするのだろう。
魔獣はこのまま私が生き絶えるのを待つつもりだろうか。顎門を揺らして傷口を広げては今か今かと弱る時を待っている。
幸いにも、瓦礫の下に蹲る少年が武器を持っているとは気付いていない。
「やれますか……少年」私が訊ねると、少年は怯えきった肩をますます強張らせて後ずさった。
右腕は瓦礫を支えるために塞がっている。
左腕も痛みだけを残し、使い物にはならない。
少年の手に握られたその一振りの包丁に運命を託す。
「で、できないよ……戦おうと思って、でも怖くて」
「こう考えてください。
君が魔獣を殺せなかったら、私は死に、君は再び瓦礫の下敷き。噛み付かれて終わりです。
君がそこから出て魔獣を一突きでもできたなら、私が君を抱きかかえて逃げることができる」
少年は狼狽え戸惑うばかり。私は願う。
「一瞬だけでいい……勇気を……」
少年は逡巡した後に、包丁を握りしめている両手は静かに持ち直され刃先を前に向けた。
不安げに揺れる瞳に、私は強く頷きかける。
「大丈夫です。必ず助けます。
だから私を助けてください」
少年は震えた体で立ち上がる。荒い息に鼻水が垂れて、頼りない笛のような音が漏れる。
小さな手に握りしめた包丁は震えながらも狙いを定めた。
祈るのは、誰にだってできる。
運命を変えるのは、一振りの勇気だ。
私は叫ぶ。
「やれぇぇぇえええッ!」
「うわあああぁぁぁッ!」
遮二無二飛びかかる少年は突き出した包丁を見事魔獣の胸に沈ませた。
耳元でけたたましく鳴く魔獣。暴れ狂う顎門から抜け出すと血は噴き出し、視界を朱く染める。
「逃げますよ!」
「わっ」
言うが早いか私は少年を右肩に担ぐと力強く地を蹴り跳躍。一足飛びでその場を離れた。
心臓が左肩に移動したみたいに脈を打つ。その度に血が吹き出して、全身に痛みが走る。
武器は手に入らず、深傷を負っては逃げるのみ。だが、私は勇気を見た。
チクタクを目前にして、一度アウロラを振り返る。どうやらランダリアンは上手くやったらしい。私達以外の避難は済んでいるようだ。
少しでも遅れていたらどうなっていたか。まさに今、前線側の防壁は災禍の龍によって崩され陥落したのだった。
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「助けてくれてありがとう」チクタクの門を潜ると、少年は改めて頭を下げた。
「避難所に隠れていて下さい。さぁ、行って」
本当はまだ助かったわけではない。そう言おうとしたが息が続かない。笑みを取り繕う余裕もない。意図せず追い払うような態度となったことを意識の隅で悔やむ。
少年は名残惜しそうに私の方を振り返っては、避難所へと駆けていく。
避難民を受け入れるために開かれた王宮には既に女子供と老人でごった返している。きっと、逸れた肉親がいるはずだ。
その姿が見えなくなると、あたりは長い時間縦に揺れた。立っているのもやっとの私は膝をついて耐え忍ぶ。
揺れから少し遅れてアウロラ側から一層強い地鳴りが響き、衝撃が駆け抜ける。災禍の龍に動きがあったのだろう。私はよろけながらも立ち上がり、歩き出す。
休む暇もなく、チクタクの防壁へ上がる。
遠くに望むアウロラの変わり果てた光景が広がる。
「カムロさん!」
私を呼ぶ声に振り向くと、賢人種の男が駆け寄って来た。
浅黒い肌は煤に汚れ、ひどく憔悴している。記憶が確かならばオロルの従者、名をラソマと言ったはずだ。
「意識が戻ったのですね……って、肩が……!!」
ラソマは駆け寄ると血相を変えて、一層脚を速める。赤黒く染めている白衣に真新しい流血を認めたのだ。
実際左腕は無いも同然で、錘がぶら下がっているようなものだった。
ラソマに指摘されてやっと傷痍の具合が予想よりも痛ましいものと知る。白衣が塗り重ねられた血糊によって張り付いているが、そっと布を剥がすと左乳房上部から抉るように胸筋をこそぎ落とされ、露出している鎖骨と上腕骨が砕かれていた。
「白衣の治癒術式も機能していません……そんな、どうして……」ラソマは色を失って口元を出で抑える。「そんな身体でここに来るなんてどうかしてますよ! 今すぐ王宮へ避難して下さい……!!」
「そんなこと……している時間はありませんよ。あれは災禍の龍なのでしょう?」私は睨むように火中に浮かぶ黒い影を指し示す。そうしなければ視界が霞んで見えないのだ。
アウロラを直進する巨大な龍。折り畳んだ膝に首を埋めて蹲った姿勢を維持したまま空中に浮かぶ。意思疎通を拒むようなその異質さは不気味で、魔法陣を辺りに発生させては光弾を放ち街を焼く。
侵攻の跡が焦土となって真っ直ぐに伸びていた。
「あれだけでは、ありません……女型のそ、存在も……今、退くわけには――」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ……」と、私を遮る声が聞こえる。
聞き覚えのある声、私は眼球のみ反応を返す。
「……サハリ……」
赤髪を風に揺らし、苛立たしげに私を見つめる視線。
そこ立っているのは、サハリを先頭に並ぶ兵の隊。隠密斥候の面々であった。
「退くときには退け。神族近衛。
……ここは私等の領分なんだよ」
言葉面は刺々しく、しかし投げかける視線は潤んでいた。
「ですが、目と鼻の先に龍がいる以上退けません。ヤーハ……報いて、み……」
力が入らない。
血も随分失ってしまった。
きっとサハリの姿を見て気を抜いてしまったのだ。
眩む視界は傾き、落ちる。
抱きとめたサハリの腕の中で、私は意識を手放した。




