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願えば叶うということ❖3


 全身に力を込めて、少しずつ重さにも慣れてきた。呼吸が乱れないように意識しながら、歩みは徐々に速度を上げて走り出す。


 板金鎧は賢しげに俺を眺めて、再び駆けていく。その速さたるや無尽蔵の体力にものを言わせてあっという間に距離が開く。しかし見失うことはなかった。視界を遮っていた靄が晴れてきているのだ。


「……何がなんだかわからないが、ついて来いってんだろう?」


 吐き捨てるように呟いて、俺は板金鎧の後を追うように走る。


 追いつける自信はないが、どうやらこの世界は俺を走らせたいらしい。遠く点のように見えるその背中を目指して、果てのない地平を進む。


 次第に乱れ始める息。

 全身から汗が噴き出し、体は熱を持ち始める。


 乱れることのない等速で駆けてゆく板金鎧に対して、俺の体力は追い付く前に底を見せ始めている。


 なぜ走らなければならないのか。

 待ってはくれないのか。


 歩きたい。足を止めたい。

 緩やかに速度を落としてしまう俺に対し、板金鎧は振り返りもしない。

 再び距離が開く。どこまで走るつもりか。


「なぁ……! 少し、休憩、しな、いか……?」


 息も絶え絶えで、なんとか追いすがりながら板金鎧に呼びかける。板金鎧はそこでやっとこちらに首を向けるが、構わず走り続ける。


「ちょっ……待て、待てって……」


 頭に酸素が足りない。代わり映えのしない景色に思考も曖昧になり、縺れる脚は速度を落とした。

 小走りになると途端に脚が重くなる。疲労を自覚して余計に辛いのだ。


 止まってはいけない。


 滴る汗に背筋は粟立つ。一度足を止めてしまったら、きっともう二度と走り出すことはできないことを悟った。


 額から落ちる汗が目に入って滲む。俺は荒く息を吐きながら服の袖で汗を拭い、最早歩くよりも遅い歩幅でなんとか脚を動かし続けた。


 俺を置いて離れていく板金鎧に心は焦る。


「大丈夫……いろいろなことを考えるな……」


 自分に言い聞かせる。あれこれと考えていると余計に疲れるだけだ。


「落ち着け……まだ、体力はあるはずだ。

 気が急いて本当の力が出せていないだけだ……」


 自己暗示。気持ちを軽やかに保つことで、この終わりのない苦痛をやり過ごすことにした。心が挫けないように。


「……多分、止まってはくれないんだ。俺がお前に追い付く必要がある。……そうなんだろ?」


 板金鎧は遠く、俺の問いかけは聞こえていない。それでも、俺にはなんとなくそれが正しいように思えた。


 この苦しみから解放されるには、板金鎧に追い付く必要がある。きっと乗り越えるべき試練のようなものに違いない。

 辛かろうとも助けてはくれない。脚を止めてはいけないんだ。


 舌を擡げて唇を舐め、唾液で湿らせると粘ついた喉を潤した。一つ大きく息を吐き出し、次に新鮮な空気で肺を満たす。……まだ、走れる。


 辛いけど、苦しいけど、限界じゃない。


 僅かながら心に灯る炎。消えてしまわぬように険しい顔を作り、拳を握る。


「落ち着いて、冷静に……」


 俺は前を走る板金鎧をしっかりと睨む。ここまで走ってきたのだから、今更投げ出すわけにはいかない。体力が底を尽きていても心が俺を突き動かし、駆り立てる。諦めてなるものか。


「あいつの歩幅に合わせれば……脚だけじゃない。全身を一体化するように……」


 軋む膝がしくしくと痛む。足の裏は皮がめくれているのか、踏みしめるたびに針に刺されたように鋭く痛んだ。疲労を訴える体。諦めるための言い訳ばかりが脳裏を巡る。


 ――きっと、俺はもう死んだんだ。

 ――ここまで走って来たけれど、それがなんだ。

 ――もうやめよう。やめてしまおう。これからもしんどいだけだ。諦めてしまえば楽になるよ。


 心の中にいるもう一人の俺が、弱音を吐いては不貞腐れた顔で語りかける。


 全て、まやかしだ。


 この世界はきっと俺の脆弱な精神が作り出したものなんだ。だから、心が折れない限り、走れるはずだ。


 肩で風を切り、腕の振りを利用して次の脚を前に運ぶ。疲れているからといって、姿勢を崩しては余計に辛くなる。ガントールが言ってただろ。『気丈に振る舞え』って、辛くても、全身で走るんだ。


「ほら、……近付いてきたじゃんか……」


 俺は己を鼓舞するように独言る。走る速度は回復し、板金鎧との距離は縮まる。


「もう少し……」


 板金鎧の背中をじりじりと目前に捉えた。手を伸ばせば届きそうな距離、俺は必死に手を伸ばす。


「神様……お願いだ……」


 そう願った時、俺の掌が微かに燐光を放つように見えた。見間違いかと目を凝らした時、板金鎧は無情にも俺の腕を乱暴に叩き払った。

 なんたる仕打ち! 体勢を崩された俺はこけつまろびつ板金鎧を睨むと、板金鎧はこちらに視線を向けた。


 ――カミ ニ イノッテ ハ イケナイ。


 そう、聴こえた。音としてではなく、心に直接語りかけるような……


「お前……話せるのか?」


 俺は驚きながらもはぐれないように走り続ける。板金鎧は続けた。


 ――シンコウ デハナイ キミハ キミヲ シンジテ。


 神に祈ってはいけない。

 信仰ではない。

 君は君を信じて。


 俺が俺を信じること。それがこの世界で手に入れるべき解だとするなら、もう一度、今度こそ、手を伸ばす。


「俺なら、届く……!」


 届かせる。


 神に祈らず、お前に辿り着く。

 限界をとうに迎えた体で、板金鎧に追い縋る俺は、最後の力を振り絞って速度を上げる。


 伸ばした手、指先が確かに背中に触れた。その接点から光が溢れ、目の前が白く染められる。

 自身の輪郭さえも白く焼かれた世界の中で、確かに板金鎧の声が聴こえた。


 ――ガイワン ハ ネガイノ チカラ。


 蓋碗は、願いの力。

 絶望の中で光へ手を伸ばす。祈りの具現。


 覚醒の予感が全身を駆け巡ると、意識が現実へ再構築されていく間、その身に何が起きたのかを思い出す。マーロゥに首を切られた記憶。その光景が何度も繰り返され、力強く脈打つ鼓動を感じる。


 命は、繋ぎとめられた。





 目を覚ました俺の視界に映るのは、目を焼くような眩しい朝日と、それを遮るように凭れる気絶したアーミラの姿だった。その周りにはガントールやオロル達が囲んでいた。


 察するに俺の命を繋ぎ止めたのはアーミラに他ならず、しかし代償として何かを失った。白く変色した彼女の髪が俺の顔に落ちる。


「何が……起きたんだ……?」


 俺の第一声を聞き届けて、オロルはゆっくりと頷くと口を開いた。


「アキラ……よいか、落ち着いて聞くのじゃぞ」


 そうして、オロルは仔細を語り始めた。マーロゥが俺の首に手を掛けたその前から遡って内地で起きた出来事を教えてくれる。


 あの時、俺がリナルディへ向かった後デレシスでは白い霧が発生。その霧の主成分は麻薬オピウムであり、多くの者は正気を失ったまま湖に溺れてしまった。


 オクタ、ザルマカシムはアーミラに助けを求め、霧を吸い込んでしまったカムロは現在昏倒。そして、この霧が医師マーロゥの仕業であると踏み、一同はリナルディへ合流を試みる。


 その後、何も知らない俺の前にマーロゥが現れた。首を切られ意識を失った後、合流したオロル達がマーロゥと交戦。しかし、ここでザルマカシムまでもが間者うかみであると知る。さらには、マーロゥは蛇堕へと姿を変えて禍人領へと退散。


 ……残る戦力で後を追う前に、アーミラは俺に死者蘇生の禁忌を行い、現在に至る。


「生き返らせるための禁忌に、アーミラはその背中に翼まで生やしていた」と、ガントール。


「翼だって?」俺は戸惑いを隠せない。「そんなの、まるで翼人種じゃないか」


「翼人ではない。神族と呼べ」ランダリアンは苛立った様子で指摘する。


「ご、こめん……」俺は戸惑いながら答える。「でも、それより、これからどうするんだ?」


 未だ意識の戻らないアーミラ。はだけた背中には翼の跡も残っておらず、俺には未だ信じられない。身を起こして彼女の体を抱きかかえると、改めて問いかける。


 オロルは歯痒い思いに顔を渋くして答える。


「奴等の領地は目と鼻の先、だというのに既に一夜を明かしてしまったのじゃ。マーロゥにこれ以上時間を与えたくはないが、急いては返り討ちにあう……

 アーミラが起きるまでは軍備を整え、その時を待つしかあるまい」


 その言葉に俺は安堵する。俺自身も状況に理解が追い付いてはいなかったからだ。


「それで、オロル。俺はどうやって生き返ったんだ? 魔呪術無効の体なんだから、治癒できないはずだろう?」


「悪いがその話はガントールから聞け。そして義手を治すのじゃ」オロルは冷たくあしらう。


 避けるようにラソマの方へと足早に去って行ったオロルに俺は言葉もない。

 あたりは忙しなく動き回り、儀仗兵達も消耗した武器を補填するためにリナルディ領を散策にあたった。


 そんな中で俺に駆け寄る姿が二人。ガントールとイクスだった。


「アーミラを……」ガントールは左手を差し伸べる。アーミラを抱えて場所を移すようだ。


「アキラ、歩けるか?」次いでイクスが言う。仮面の奥から覗く瞳は心配そうにこちらを見つめていた。


「あ、あぁ……すまない」俺はなんとか答える。


 ぐったりと気を失うアーミラをガントールは軽々と担ぎ、俺達は隅へ移動した。

 倒壊した小屋、背の低い煉瓦に腰掛けて、軍備を整える儀仗兵達を眺める。彼等は魔獣の亡骸から綿甲具を剥ぎ取り、急拵えの防具を作っていた。


「……そうだ、俺の鎧……」と、思い出して辺りを探る。「鎧腕はどうしたんだ? どこかにしまったのか?」


 意識を取り戻してからふと気付く。俺は生成きなりの上衣と腰巻。その上から長上着ローブを被り、履物は短靴たんかと変わりはないが、身に纏っていた一番重要なものが無くなっている。得物の戦斧はイクスがしっかりと持っているのに、どこへやったのだろうか。


 ガントールは苦い顔をして呟く。「オロルの奴、肝心なところを話し忘れてるぞ……いや、わざとだな……」


「そういえば、俺がどうやって生き返ったのか詳しい話はガントールから聞けってさ。どういうことだ?」俺は首を傾げる。


 ガントールは口元をへの字に曲げて、どうしたものかと気まずそうにする。


「私は説明が苦手なのはわかるだろう? 事実だけを言うぞ」


 俺は頷く。


「アキラの鎧は、血液と混ざり合い今も体の中にある。緋緋色金が体内を巡っているのを感じ取れないか?」


「血に――」言葉が途切れる。


 脈打つ鼓動は強かに主張する。目覚めるまでに見た夢は何を意味していたのか。

 先を走る板金鎧。それは俺を導く緋緋色金。ならば、重たい体で駆け抜けた苦しみは蘇生の最中の意識が反映されたもの。


「願いの力……」俺はその言葉を転がす。板金鎧が残した言葉だ。


 ……だが、緋緋色金が自我を持つとは考えられない。精神世界で板金鎧に宿っていたものはもう一人の俺か、或いは神か。どちらも違うような気がした。


 鎧腕とは光へ伸ばす腕。

 持たざる者に許された足掻く為の脚。

 神を信じない俺に宿った、戦うためのアレス


「鎧腕が俺の体内にあるのなら、呼び出せるってことか……?」


 俺が願えば、それが叶うのか?


 その想いに応えるように、不意に走る痛み。

 ひとりでに裂けてゆく皮膚から溢れる血液は長上着を突き破り、硬質な血の糸を形成した。

 糸は寄り集まって束となり、筋繊維を形成。肩部から生えた第三、第四の腕は以前の鎧腕の意匠とは大きく異なった。


 形容するならば、むき出しの筋肉と健、芯には同素材である緋緋色金の骨も備わっている。


「……真っ赤だ」俺は鎧腕を目の前で眺めながら呟く。


「緋緋色金そのものが血肉になってるのか」イクスも目を奪われていた。その声音には一種の畏怖のようなものを含ませている。「禁忌……人知を超えてるな、こりゃあ……」


「わからないことだらけだが、解明する時間は与えられてない」呆然と眺める俺の意識にガントールが割って入る。「アキラ殿。こんな時に悪いが、一つ頼まれてくれ。私の義手は治せるか?」


「……あぁ、治すって約束だったな」


 我に返り、目の前に差し出されたガントールの義手を受け取る。蛇堕との戦闘によって基部から断ち切られたそれは、幸いにも機巧を理解するのに分解の手間が省けた。


「関節部の仕組みは単純なんだな。魔導回路はわからないけど、義手自体は簡単に治せそうだ――」と、そこまで口にして俺はガントールの隠す胸元に目を留める。「……鎧腕を展開する前に気付けばよかった。これを着てくれ」


 そう言って俺は長上着を脱いでガントールに渡す。

 ガントールは蛇堕との戦いで服を切り裂かれているのだ。その際に胸を覆う鎧の具合が悪くなっているようだった。ガントールは口にこそ出さなかったがその姿のまま戦い続けるのは避けたいだろう。


「そんなんじゃ戦えないだろうし、ついでに胸の留め具も治そう。他にも調子が悪い所があれば教えてくれ」


「ありがとうアキラ殿。助かるよ。

 ……でも、アキラ殿は寒くないのか?」


 ガントールは受け取った長上着を羽織り、秋風に奪われる体温に身を震わせた。


「寒いはず……だけど、なんか平気みたいだ。緋緋色金のおかげかな」


 俺の返答に対して、イクスとガントールは虚を衝かれたように目配せして、悲しむような顔をする。


 その視線が意味する答えを悟り、視線から逃れるように俯いた。

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