終焉❖3
「さて、――」
両の手を叩き合わせて乾いた音を鳴らすと、オロルはその後に続く言葉を詰まらせた。おそらくは『さて、どうする』と続くはずだろうが、どうするべきかは誰もわからない。
カムロを後ろ手に拘束すると、私達は杖から湖畔へと出た。未だあたりには靄がかかっているように見えるが、オロルが起こした炎によって空気が上へ流れ、紫煙は随分と晴れてきた。
焼べた木が燃焼し、音を立てて爆ぜる。じっとりと濡れた体を暖める中、オクタは赤く照らされながら、拳を固く握り締めた。
「ヤーハバル……」
悲痛な思いで火を眺める。その向こうに広がる涙の盃は今や波も穏やかで、仲間が溺死したなんてとても信じられない。まるで霧が悪夢を見せているのではないかという願いにも似た錯覚、現実味のなさが不気味に付いて回る。
「……きっと、マーロゥだ……」
その言葉に、私達は目を見合わせた。どういう意味か。
「マーロゥって、あの薬師か? なにか確証でもあるのか?」ザルマカシムは問い質す。
「ああ、ある……」オクタ短く応えて、睨むように視線を投げかける。
点と点が結び付き、繋がったのだと目は語る。
「申してみよ」と、オロル。
オクタは頷くと、しばらくの沈黙。そして順序だてて言葉を並べ始めた。
「まず、白い霧が麻薬であること。……これは、薬師マーロゥであれば精製可能だと思うんです。薬師としての腕は確かでした」
「『確かでした』とは、つまり薬を貰ったのか?」と、オロル。
「はい。私とヤーハは眠気覚ましを。隊長は頭痛を抑えるものを」
その言葉にオロルは心底呆れたような眼でオクタを睨む。マーロゥが本当に間者ならば油断もいいところだ。
「ですが、当時内地には対禍人、対魔獣の国境防壁を展開していました。一度国境を跨ごうものなら、禍人種の変装は剥ぎ取られるはずです」ザルマカシムは疑問を投げかける。
当時五代目国家二つが陥落した時、神殿から全国へ防壁が展開された。魔獣であれば侵入すら困難。禍人種であれば得意の変装魔呪術はたちまちに破かれ、頭からは龍の角が露わになることは必然だ。
しかし、オクタは首を振る。
「アキラの容態が悪化した時、マーロゥとはデレシスで合流しました。その間に二日を要した。特別疑問視する程ではないですが、時間がかかりすぎています。
それに、前線にいた時のマーロゥはうねりのない直毛でした。毛先の脱色自体はありましたが、あんなに酷くはなかった。
……混血による形態異常だと思っていましたが、今思えば何かを揉み消したように思えてなりません。
それに、国境の防壁はアキラの為に解除していたんですよ……」
「なんじゃと……!?」
「とても小さい穴を開けていたんです……幌車が通れる位の。
当時のアキラは魔呪術の放つ特有の気に当てられていたものですから、そもそもそれを看るためにマーロゥが呼ばれた……もし、それさえもマーロゥの仕組んだことだとしたら……」
そう呟きながらオクタの表情は一層険しくなる。言葉にする内にずるずるとマーロゥの手口がいかに巧妙であったか、どれだけ先手を読んだものであったかを知り、背筋に冷たいものを感じる。
オロルはこちらを見ず、不意に私を呼んだ。
「アーミラよ」
「はっ、はい……」
「天球儀でマーロゥを調べるのじゃ。奴は今どこで何をしておる」
皆の目が殺気立つ。
すぐに天球儀で彼の座標を調べるが、宝玉は何も映さない。
マーロゥ・メイディは、偽名だ。
❖――視点:アキラ
沈みゆく西日の熱は失われ、吹き荒ぶ風は身を切るような寒さである。
倒壊した屋敷一棟を丸々燃やし、それを焚火として各々が暖をとりながら体を休めていた。
勇名の大半を失い、この場の戦力は心許ない。姿を見せない蛇堕に対し、こちらはずっと気を張り続けている。
「ん……」ガントールの声。
閉じた瞼の裏で眼球が覚醒に向かって動くのが見えた。そしてゆっくりと開かれると、事態を思い出したのか、すぐに上体を起こして腹部の痛みに顔を歪める。
「まだ寝てた方がいい」俺はそっと肩に手を添えて地面に寝かせる。
「アキラ……リナルディは、奪還は成功したのか……?」と、ガントール。纏う服は襤褸同然の状態ながら恥じらう様子もなく――そもそも自身がそんな状態であると気付いてはいないだろう。
俺は答える。
「ランダリアンとラソマが防壁を展開させた。一応は奪還成功したよ……だけど、敵の綿甲には通用しないこともわかってる。
俺達だけでこの一夜を守り通さないといけない」
「そう、か……」ガントールはこの非情な現実に微かに動揺する。「すまないな。アキラ殿」
俺は心配させまいと笑みを作って見せようとしたが、疲労のせいか、頬が引き攣るのを自覚した。噛み締めていた奥歯が痛い。
「屋敷の地下に禍人が備蓄していた食糧があった。毒がないことも確認できてる。持ってくるよ」
「……あぁ、すまない」
俺は頷くとガントールから顔を背け、足早に食糧を取りに行く。一刻も早くあの場から逃げ出したかったからだ。
ガントールのあんな弱気な顔、初めて見た。
一夜を守り通さなければならないと告げた時のガントールの表情は、明らかに動揺していた。揺れる瞳……薄く開いたまま凍りついた唇。
俺にはそれが何を意味するか、わかった。
――感情の消失。心が折れた者の顔だ。
奪還に勇み、従えた戦力を失い、腕を失い、命さえ落としかけたのだから無理もない。
ガントールだけではない。
この夜を共にする儀仗兵もまた、恐怖と疲労に心を腐らせている。
オロルならば、人心を操れるだろうか? 士気を高く維持する彼女の手腕が、今は痛いほど身に沁みた。
備蓄されていた食糧――押し固められた穀物の団子と干し肉――を持って、ガントールの元へ戻る。
努めて表情を明るく。……せめて俺がガントールにとっての希望の光でありたい。
「ほら。こんなもんしかないけど、腹減ってなくても食ってくれよ」俺は横たわるガントールの側に膝をついて、切り分けた干し肉をガントールの手に乗せる。
ガントールは震える口でそれを咀嚼すると、ぎりと奥歯を噛み締めて俯いた。
静かに涙が溢れるのが見えた。
「私の、腕……」ガントールは呟く。「素材は緋緋色金で、アキラ殿の板金龍から調達した。スァロ爺様の特別製なんだ。スークレイがアーゲイまで行って造り方を調べてくれた」
「ああ」俺は頷く。
「なのに、簡単に壊された……アキラ殿が来てくれなければ、間違いなく皆死んでいただろうな……」
いつもは大きく見えた彼女の姿、その背中が今はとても小さく見える。
俺は首を振る。
「そんなこと、考えたってどうしようもない。
今こうして生きてる。それでいいしゃないか。
食べ終わったら腕を直そう。緋緋色金なら俺が直してやる。なんならもっと強い腕にしてみせる。
あともう少しだ。頑張ろうぜ」
ガントールは俺を見つめ、そして次に空を見上げる。
寒空に澄んだ大気。赤く照らされる焚火の煙が夜に溶け、視界には満点の星空が輝いている。瞳に溜めた涙が睫毛を濡らし、星の光を反射する。
満身創痍な心の空隙を突く景色――この期に及んでなお世界はなんて美しいのだろう。
ガントールは腹の傷をそっと抑えて身を起こす。神殿の祈祷による効果は底を見せ始めたようで、最低限の治癒を行うと皮膚は傷痕を残したまま回復を止めてしまった。
「祈祷が何を代償に私達を治癒するか、アキラ殿は知っているか?」ガントールは問う。
「代償……? 確か、全ての魔呪術は産出される魔鉱石から力を抽出してるんだろ?」
俺はアーミラに教わった通りに答える。しかしガントールは首を振る。
「術者の命さ。それを治癒の代償としている」
「そんな……!? いや、だったら――」
「その術は『禁忌に触れている』……か? 人の命を引き換えに行う術の行使は第三条の『非人道的なもの』にあたるかもしれない。だけど、認められているんだ」
俺はガントールの言葉に驚く。
彼女は魔呪術に対して疎いように思っていたが、禁忌については理解しているらしい。
禁忌とは、主に代償と成果の割が合わないもの。
禁忌とは、成果物が予期せぬ結果を招く、または安定していないもの。
禁忌とは、非人道的なもの。
神殿で行われる祈祷はその三つの定義に抵触していない。……例えガントールの代わりに命を落としたとしても。
「祈祷の治癒が底を尽きたみたいだ。これからは止血までしか行われない。……見てくれ。酷い傷痕だな」ガントールは諧謔とは別の、諦観にも似た笑顔でそんなことを言う。
そして、何も応えない俺からパンを取ると自力で飯を食べ始めた。
腕を失った時とは違う。誰かの命と引き換えの傷ではない。
誰も守れなかった記憶と共に刻まれた傷である。
「――ッ!」
俺は無我夢中でガントールを抱き締める。
「ア、アキラ殿……?」驚いた声、咄嗟に離れようとするガントールを俺は無理矢理抑えつける。
「ごめん。迷惑かもしれないけど、少しだけこうさせてくれ……」
何も言えなくてごめん。
頼りにしてばかりでごめん。
「皆みんな、俺が守る……アーミラだけじゃない。ガントールも、オロルも皆守ってやる。だから、側にいてくれ……」
胸に搔き抱いたガントールは、抵抗する力を弱め、そっと俺に身を預けてくれた。
「……懐かしいな」ガントールは言う。「覚えてるか? 確かあれはムーンケイでの事だ。内地で幅を利かせているだけの賊にやられたことがあっただろう」
「あったかな、そんなこと」俺はわざと覚えていないふりをする。
「傷心のアキラ殿を私が慰めた」
「今と、立場が反対だな」俺はそう言ってガントールの頭を撫でる。ムーンケイでしてもらったように優しく、何度も繰り返す。
「覚えてるじゃないか」ガントールは黙って頭を撫でられるままに目を閉じる。
そこに現れる一人の姿。
「……おや、アキラ様ではありませんか……」
背後からの声、俺は咄嗟に振り返る。
中性的な顔立ち、歪んだ背骨、性別も年齢も不明瞭な姿ではあるが、それが誰かはすぐにわかる。
「マーロゥ! 良かった! 生きていたんだな」
俺は勇名の生き残りに眉を開いて歩み寄る。
「えぇ、まさか前線で再会できるとは奇遇ですねえ」そう言って無感情な瞳に僅かに笑みを浮かべて手を伸ばす。
握手を求めているのだろうか。俺は訝しみながらも手を伸ばす。
「では、さらば」
しゅらっ。
「――えっ……?」俺は事態が飲み込めない。
糸が切れたように膝をつく体。視界はマーロゥの笑みを捉える。
感情の消失した貌。そこに上塗りされた凄惨な笑み。
「ごぽっ。がは……っ」口から溢れる大量の血。
何で――そう口にしたはずが、息ができないほどの鮮血に溺れて噎せる。
「がはっ!? ごぼぼっ……」地面に手をついて、広がる血溜まりに凍りつく。
喉が、熱い。
思考は異常なまでに昂り、引き伸ばされた時間の中で数多の疑問が駆け巡る。
何で血が出ている?
何で首が熱い?
何でマーロゥがここにいる?
何でマーロゥが首を切った?
何で俺より先に神殿を出たマーロゥが何で勇名は皆死んでるのに何で俺よりも後から前線に何で笑ってるの何で何で何で――




