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終焉❖2


 次に目を覚ましたのは見知らぬ部屋。

 極彩色の頭骨がこちらを睨み、歪に笑う。骨に表情なぞ作れるわけはないのであるが、それがどうして、ニタニタと。


 見上げる天井はまるで生き物のように右に左にうねり続ける。揺れる世界は勢いを増して、次の瞬間には背中に感じられた床が不意に消失する。


 浮遊感、否。落下――


 腹の底をかき混ぜられてひっくり返されたような強烈な嘔吐感に堪えられず、吐瀉物をぶちまける。天地の感覚も分からぬままに吐いたそれは己の顔や首に帰ってきて酷く不快な思いがした。


 水が低い方へ流れるという節理の通りなら、今自身が仰向けのままであることを漠然と理解する。しかしなぜこうも平衡感覚を失っているのだろうか。


 その後も幾度となく吐き続ける。全て湖の水であった。


「っ、は……はぁ……」


 なんとか上体を起こす。起こした筈だ。分からない。


 幻覚が酷い。ここはどこだ。仲間はどうなった。


 ふと、腕を見る。皮膚の上を虫が這い回っている。奇妙な百足むかでだ。節くれだった一本の太い胴から途中、先の方は五つに枝分かれしている。

 それが何度も私の全身を駆け回り、不快な痒みを残す。


 痒い。

 痒い痒い。

 痒い痒い痒い。


 かりかりかり、

 ばりぼり。

 ざく。


 音が変化した。

 それと同時に私の体は百足に押さえつけられる。

 気がつけば色彩鮮やかだった部屋の景色は赤一色に染まり、体は熱く燃えるように痛みだす。


 私はなりふり構わずもがいて、この部屋を出ようと体を捩るが、百足は全身に巻きついて離れてはくれない!


 燃え盛る炎は私の背中や腕、髪と燃え移り、焦げ付いた肌が激しく痛む。


 私は必死に叫ぶ。


「離せ! 離せ!」



❖――視点:アーミラ



「ああう! ああ、あぁあ!」


 酷い幻覚症状。目の前のカムロは既にたっぷりと霧を吸い込んでしまっている。死に至らなかったのは不幸中の幸いだと信じたいが、このような有様を前に、その思いは揺らいでしまう。


 定まらない視線。だらしなく開かれた口からは涎を垂らし、意味を読み取れない呻き声をあげる姿は以前のものとはあまりにもかけ離れていて、同一人物であるとはとても思えない。


「隊長……」暴れるカムロを押さえつけ、痛切な声でオクタは呟く。そして私に訊ねた。「一体、あの霧は何なんです?」


「恐らく、あれは麻薬オピウムを焚いた煙でしょう」


 デレシスを覆った白い霧。それは禍人種が行った非道な策であると知る。

 前線ばかりに気を取られていたが、やはり間者うかみは内地に潜り込み闇の中で動いていたのだ。いつまでも動きを見せないと思えば、まさかこのような物を使うなんて……


「隊長は咄嗟の判断で鰓を咥えていたのでしょう。おかげで命を落とさずに済みましたが、しかし、これでは……」ザルマカシムは苦い顔でカムロを押さえ続ける。


 あの時、私が二人と共にカムロの元へ向かった時には、既に湖に溺れていた。

 口に咥えていた鰓によって辛うじて呼吸していたが、鼻から水を飲み、麻薬による幻覚に錯乱状態であった。私達はやむなくカムロを引き上げることを諦め、驚異ヴンダー部屋カンマーに押し込んだ。


 つまり、私達四人は今、湖底に沈んでいる天球儀の杖の中である。


 玄関口である書庫では濡れそぼったカムロが意味をなさない言葉を叫びながら、自身の体を掻きむしろうと暴れる。オクタとザルマカシムはそれぞれ四肢を押さえつけ、変わり果てた彼女の姿を直視しなければならなかった。


「そのうち麻薬は体外へ抜けてくれるのか?」


 オクタは泣き出しそうな顔で誰にともなく問う。それに答えられる者はこの密室にはいない。

 だが、皆理解している。禍人がそのように生易しい麻薬を用いないだろうことを。薬が抜けた後も、侵された精神は元どおりにはならないことを。


「……祈るしか、ありません」私はそれだけ答えて、魔力を練る。


 いつまでも二人に抑えてもらうわけにはいかない。私はこの部屋に魔呪術を発動してカムロの四肢を床に飲み込ませ、拘束した。


「うううぅぅぅっ! あがぅ!!」視線の定まらないカムロの表情。そこには理性や知性の灯が消え失せている。


 ザルマカシムはやっと空いた両手を確かめるように曲げ伸ばし、疲れたようにため息を吐いた。


「細い体のどこにあんな力があるんだ……」


「これからどうするべきかわかりませんが、とりあえず今は体を休めて下さい」と、私。


「えぇ、そうさせていただきます。

 ……この部屋は神器の中なのですよね?」ザルマカシムは髭を撫でつけて部屋を見回す。


「はい。ここにいる間は安全です」私は答えながら部屋の奥から乾布を取り出すと、二人に差し出した。「オクタさんも、血を拭いて下さい」


「え……あー、すみません」


 オクタは茫然自失といった具合で、悶え続けるカムロを眺める。押さえつける際に彼女の爪が頬を切り裂いた事に気付いてなかったのだ。というのも、それ以上にカムロが自身の体を掻きむしり、首や耳に際限無く爪を立てていたから、流れる血が誰のものか分からない。


 これからどうするか。


 その問題を解決するための沈思が三人を無言にさせる。驚異の部屋にはカムロの呻き声ばかりが響き、濡れた体をどっしりと床に落として私は何も考えることができない。


 思考を先へ進めること。それは、この部屋の外――涙の盃という広大な湖が待ち受ける――には、麻薬によって自我を失い、溺死した者達の死体があるという事実を受け入れなければならない。


 その先には霧。恐らくデレシスだけじゃない。内地の各国、至る所でこの霧は人の自我を奪い、命を奪っただろう。

 そして前線……アキラは、ガントールは、オロルは無事だろうか。


 ……オロル。……そうだ! オロルさんなら今からでも合流できるはず。


 私は一縷の望みに賭け、叱責するように頬を叩いた。オクタとザルマカシムのひどく疲れた視線がちらりとこちらを見る。構うものか。私がしっかりしなければ。


 懐にしまい込んだ水晶球を取り出しながら、様々なことが脳裏に駆け巡る。魔獣の綿甲のこと。そしてそれがチクタクに及ぼす影響について。オロルであればすぐに実弾へと切り替えて対処しているだろうこと。


 彼女なら、きっと私達の報せに対応できるよう、支度を整えて待ってくれているはず。


 水晶球はすぐにオロルに繋がった。


「無事か? アーミラよ」


 オロルの声。そして水晶球に映る姿。後ろに広がる景色は私には見慣れた邸が見える。

 彼女は自国チクタクではなく、アウロラに立っていた。


「オロルさんこそ……私の国ごと守るなんて……」


「対した侵攻はして来ぬよ。敵はあくまでリナルディに集中しておる。

 幸いわしとお主の国は同じ戦闘魔道具を配備させておるのでな、造作もないわ」


 民を守ることを『造作もない』と言ってのける王の器。身につまされる思いだが、自責の念に打ちひしがれるのは後だ。


「アウロラにいるのでしたら、合流できませんか?

 私達は涙の盃から出られずにいます。天球儀の杖ごと湖底から引き上げていただきたいのですが」


 私の言葉にオロルはふむと考える。視線は私の後ろ、理性を失いもがき続けるカムロを見ていた。少ない情報から私達の置かれた状況を推し量っているようた。


「わしもお主と合流してリナルディへ向かおうと思っていたのじゃ。それは問題ないが、……後ろにいるのはカムロじゃろう? 何があった?」


「デレシスは麻薬の霧に覆われています。まず間違いなく間者の仕業だと思います。

 霧を吸って溺れてしまったカムロさんを助けるため、やむなく杖の中に逃げ込んだのですが……」


「そのまま湖底に沈んででられぬと」オロルは腕を組み、おとがいに手を添える。表情はますます険しくなる。「……なるほど。じゃとすると他の国も同様のことが起こっておるじゃろうな」


 私は頷く。

 同時多発的に、申し合わせた機会に間者はこの霧を全国にばら撒いただろうことは容易に想像できる。

 もはや戦場は前線だけではないだろう。むしろ内地であればあるほど、大打撃を受けていると見ていい。


 だからこそ、ガントールとアキラの元へ集まる必要がある。


「さて、困ったのぅ……」オロルは呟く。


「い、急いでいただきたいのですが……!」私はその焦ったさに声を荒げてしまう。


 しかしオロルはこの状況でさえも落ち着き払っていた。


「安心せい。もう着いておる」


 デレシスの巨大な湖『涙の盃』。そこに面したみぎわに火をべて、オロルは霧を払っていた。


 いつの間に――いや、柱時計の三女継承者にその言葉は意味がない。

 私と会話をしていたその時にはもう、星辰を止めてこの地に移動していたのだろう。


 そして蜘蛛のように枝分かれしたその神器は今まさに湖底に沈む天球儀の杖を持ち上げ、見事私達を引き上げた。


 時を操る三女継承。その頼もしさは計り知れない。

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