異世界より来る人❖4
「はぁ……」
俺は再びため息を吐いて湯に沈む。この身に降りかかる災難と、この世界の焦げ付きが頭の中で澱となって悩ませる。
「どうされたのです?」セラエーナは問う。
「いやぁ、どうしたもんかと思ってさ」
「外に出る方法を未だ見つけられていないということですか」
「それもある」俺は湯を手で掬って顔に掛ける。瞼や頬に熱が伝わり、気休めに心地良い。「俺の人生は何なんだろうって、思ってさ」
約束を守ることの難しさ。
肩書きによって変わる評価。
自分で考えることを放棄してきた板金鎧としての三年間は、膝の付くような浅瀬の微温湯にも等しい――ちょうど今身を沈めている心地の良い湯のような。
「人生、ですか」セラエーナは俺の言葉を繰り返す。「……それがあるだけ、羨ましいことです」
「え……?」俺はセラエーナに目を向ける。
そこには少し物悲しい表情で揺蕩う湯を眺めるセラエーナがいた。
「私には人生というものを感じたことはありませんでした。
生まれた時から神族の長姉としてのみ存在し、同時に形態異常の片翼は決して人に見せてはならないと奥之院の最奥へ匿われたのです」
セラエーナはそこで言葉を切る。俺はゆっくりと頷いて、続きを促した。
「人は、生まれた時におおよその運命が決まるのだと思います。
……それは違うと言う人もいるでしょうが、私が手に入れた一つの解はそれでした」
前線に生まれたなら戦士となり、内地に生まれたなら農夫となる。
獣人であれば武器を扱い。
魔人であれば魔法を扱い。
賢人であれば呪術を扱う。
「……私はたまたま、翼人として産まれてしまったのです。
それも、澄み切っているが故に毒へと裏返った血に肉体を歪められて」
セラエーナは自嘲するように口を吊り上げて目を伏せる。
なるほど、彼女は意思を抑圧され、神族の傀儡としての生き方を強いられて来たのか。
俺は何も言わず、再び考え込む。
異世界から来た俺は、この世界でどうすればいいのだろうかと。
傀儡であることを辞めるのであれば、俺は俺の意志に従い、アーミラの元へ戻る。戻りたい。……しかしそれではこの世界の体制は崩れてしまうかもしれない。
そもそも俺には、禍人種を殺める理由さえ無いのだ。大切な人を護れるならばそれでいい。
じっと手を見つめる。この肉体では一度として人を殺めてはいない。これまで斬り伏せた敵の返り血は全てあの板金鎧が浴びてくれていた。しかし、だからといって宿る魂は罪から逃れた訳ではない。
むしろもっと、悪質だろう。
「なあ、セラエーナ王女、ここに緋緋色金ってないかな?」俺は問う。
「ヒヒイロカネですか? ……であれば、この神殿に置かれている翼人の像がそれですよ」セラエーナは指をさす。
水瓶を持つ天使像、もとい翼人の像。
もしそれを俺が操れるとしたら、最奥寝所からの脱出ができるかもしれない。
「少し試してみる……下がって」俺はセラエーナを背中に庇い、翼人像に意識を集中させる。
微かではあるが、俺の念に呼応する緋緋色金を感じ取る。
――布留部 由良由良止 布留部……
――動き出せ……!
念を送るが、像は微動だにしない。
関節がないからそもそも動かないのか? ……いや、以前の俺なら自在に操ることができた。
であれば、肉体を取り戻したせいか。
俺は落胆に肩を落とし、湯浴場を後にする。
❖――視点:カムロ
「一体なんだというのだ」
部下より伝えられた、円卓より異音が聞こえたとの報告に私は揺すり起こされた。
誰もが寝静まっていた深夜の出来事。現場には謎の斬撃跡。
「意図を理解しかねますね……」困惑顔のヤーハバルが円卓を眺める。
手に持った照明具を壁に近付けて光に照らす。
円卓の壁は横に一閃の剣戟によって破壊されていた。
そばには床に倒れた板金鎧と円卓が、何も語ることなく舞い上がった埃を被っていた。
間者……にしては、行動の意図は不明瞭。囮や陽動ならば次があるはずだが、それに備えているザルマカシムとオクタからは何も報告はない。
「何より、おかしいのは……」私は独り言ちて壁の裂傷を睨む。「この壁は、内側から斬られていますね」
円卓のはめ殺しの窓から外を警戒してみるが、そもそもこの斬撃は外壁には達していない。間違いなく内側からの攻撃なのだ。
ヤーハバルはこの不可解な事態に眉を顰めて軽口を叩く。
「まさか板金鎧が動いた……なんて冗談ありませんよね」
「まさか――」
私は笑みを作ってみるものの、言葉に詰まってしまう。
「このまましばらくは警戒を密にします。神殿全域、及び奥之院の安全が確認されるまでは気を抜かないように」
私は水晶球越しに近衛隊に指示を飛ばすと、まだ眠い目を擦り髪をきつく縛り直した。
一夜に起こった異様な事件。不気味な空気を紛らわすため放ったヤーハバルの軽口が誠であったと知るのはまた別の機会である。故に間者は現れず、神族近衛隊は目に隈をつくることになる。
❖――視点:アキラ
体内時計は思う様に狂い、起きたところでやることもなし、二度寝、三度寝と繰り返してもう眠気は絞っても出ないという段になってようやく身を起こす。
昨夜――本当に日が沈んでいたかはわからないが、便宜上『夜』と記す――はあれからほどなくして最奥寝所に戻ったもののうまく寝付けず、目を閉じるとアーミラの姿が脳裏を巡った。次にガントール、オロルと面影が浮かび、眠るための薬を貰っていたことを思い出す。
それはオロルから渡された蒸留酒で、飲み方を知らないまま一息に琥珀色の液体を嚥下し、揮発する熱に驚き噎せる。オロルはどんな風に飲んでいたかを思い出しながら、少しずつ舐めて酩酊に心地よく意識を溶かしていった。
「……薬というよりは、毒だな」
頭は初めての二日酔いに苛まれ、口内は酒に焼けて酷く粘ついている。
「――おはようございます。アキラ様」
最奥寝所に声が響く。監視をしている神族近衛か侍女のものだ。人工的で故意に歪めてある声質のせいで耳触りは悪い。俺は揺れる頭をもたげて姿なき声を睨んで見せる。
「はいはい、おはよう」
「――セラエーナ様は先に起床し、湯浴場へ行きました。アキラ様は如何致しますか」
「……後で行く」
俺は寝台に腰掛けて無造作に頭を掻く。意識は未だ判然とせず、応対は適当にやり過ごす。
「――次に、アーミラ様に承諾を頂きました。後は次代の神族の子が産まれるのを願うばかりでございます」
その言葉に思考は止まる。
アーミラから承諾を得た。……いや、神族のやり口はすでに知っている。どうせ奸計を巡らせて言葉巧みにアーミラを騙したに違いない。
前線から離れることが出来ないのだから、どうあれ神殿に俺を閉じ込めて仕舞えば後はどうとでもなるのだろう。全くもって度し難い。
俺は何も言わず、セラエーナに倣って指を一つ鳴らした。
❖
朝とも昼ともつかない飯を準備させると、配膳を行う侍女達の列を割ってセラエーナが部屋に戻る。
「おはよう。昨夜は酷い寝相にございましたね」セラエーナは肩を怒らせて俺に言うが、心当たりがない。
「なんのことだ?」
「記憶がないとは、酷く酔っていたのですよ?」
「なに? 俺はてっきり、直ぐに寝たのかと……本当に記憶がない」俺は態度を改めてセラエーナに向き直る。「何かしたのか?」
「ええ。譫言を呟きながらふらふらと歩き回ったり、と思えば次は床に倒れたり、壁に頭を打ちつけたり。見ていて気が気じゃありませんでした」
それに……と、セラエーナは続ける。
「恐らくは人名でしょうけど、泣きながら何度も呼んでいました。
誰なのです? セリナって――」
「……!」俺はセラエーナの言葉に少なからずショックを受ける。
芹奈。
もう二度と会う事は叶わない妹の名前だ。
この世界で生きる以上、意識の隅に仕舞い込んだ家族の名前。
気持ちの折り合いはつけたと思っていたけれど、自分でも感じ取れない深層意識では抑圧されたまま押し込めた感情もあるのだろうか。
俺が苦い顔をしていると、セラエーナはおかしな誤解をして不機嫌に責め立てる。
「アーミラ以外の女の名前を、ああも呼び求めるなんて、はっきり申しますと見損ないました」
「いや誤解だ! ……というより見損なったと詰るほど、俺のことを評価してないだろう」
「それこそ誤解です。私はアキラ様を評価しております。
前線での勲しい活躍は常に神殿にも伝えられておりますので」セラエーナは続ける。「それで、セリナとは誰でしょうか。お答えをいただきたいのですが」
俺は再び頭を掻くと、横目に侍女を見る。配膳が済まされて退室するのを確認してから、改めて話し始める。
「芹奈ってのは、元の世界に残した妹だよ。
親を早くに亡くした俺たち兄妹は、結構仲がよくてな――」
俺は熱に浮かされたように語りだす。
酔いが残っているのか。
未練が残っているのか。
話し始めると抑えが効かなくなって、全て吐き出すようにして語りだした。
妹は生まれつき身体が弱くてさ、そのくせ負けず嫌いな性格だった。小学――俺の世界だと小中高と子供は学舎に集められるんだがセラエーナはわからないかもな――に上がると同輩の男の子に混ざって剣道を始めたんだ。
剣の道と書いて剣道。つまりは修行みたいなものだよ。
当時親も俺も運動部は反対だったんだけど、『頭ごなしに否定したら、きっと妹は心まで腐らせてしまう』ってことで、様子見で剣道のクラブに入れたんだ。
そしたら意外。筋がよくってさ。なんて言うのかな、丁寧というか、冷静というか……生まれ持っての癖がなくて、竹刀を握る妹は、研ぎ澄まされてた。
多分妹も剣道に並々ならない情熱を傾けてたと思う。人より弱い身体で、人と張り合える何かに飢えてたんだ。
布留部 由良由良止 布留部……そう言えば、この言葉を知ったのは妹からだったなぁ。
中学に上がった時に同じクラブの男の子から教えてもらったんだってさ。気持ちを落ち着かせる為の呪文、『布留の言』。
それが格好いいってんで、稽古の時は口癖みたいに呟いてた。
……まぁ、その時には親が亡くなっちまったから、もう一つの意味に心惹かれたんだろうけど。
『一二三四五六七八九十、布留部、由良由良止、布留部』
――死者蘇生の言霊。
妹は亡き両親への思いを力にして剣道に励んでいた。
だけど、現実は甘くない。
体力的不利をおして短期決戦を戦略の要とする妹にとって、大会そのものが不利な条件だ。勝ち上がればそれだけ体力を消耗するんだから。
中学三年の地区大会予選での試合。妹は準々決勝まで進んだものの、足の運びが縺れて捻挫――呆気なく最後の夏を終えた。
……そこからはまるで転げ落ちるようだった。
高校に上がってからは剣道を辞めてしまい、どこか生きる目的を見失ったように見えた。
人と張り合える土俵で、一つの限界を知って、妹は燃え尽きてしまった。
そこへ畳み掛けるように、肺を侵す重篤な病。――今では治っていると神から教えられたが、どのように生きているのだろう。
一人きりにしてしまった。
新しい人生において、新しい生き甲斐を見つけてくれているだろうか――それが心配でならない。
「……そう、貴方の世界でもいろいろあるのですね」
セラエーナは俺の妹、芹奈についての話を聞き終えると納得したような顔で言った。
「恐らく全てを理解できたわけではないけれど、よく分かりました。
いろいろなものをやり残してこの世界にいること、それをアキラ様は悔やんでいるのですね」
食事を終えて食後酒を傾けるセラエーナに、俺は頷いてから床に横になる。
「うん。……そうかも。
だから、せめて、ここではやり残しがないようにしたいよ」
セラエーナは思う所があるようで、何も言わずに杯を見つめていた。
❖
腹ごしらえを終えて人心地ついたのも束の間、セラエーナと寝台に潜り、体を重ねる。
此処を出る機会を手に入れるまでは、監視を欺き続けなければならない。体を交えども血は交わらず、唇を這わせたとて心は明け渡すことはない。
――セラエーナは、アーミラのような甘い匂いはしないんだな……
そうして、偽りの夜伽を終えると、外から扉を叩く音が響いた。
「失礼します」
男の声。最奥寝所の扉を潜るのは、あの日奥之院で俺の腹に拳を突き入れた男だった。
「セラエーナ王女。前王リーリウス様がお呼びで御座います」
セラエーナは視線だけを返して立ち上がると、男の後ろについて歩き、後には俺一人が残された。
ここにいたところでやることはない。かといって眠気もない。俺は汗にべたついた体を洗うため、指を二度鳴らす。




