異世界より来る人❖2
❖――視点:カムロ
風の噂か、虫の知らせか、偶然にもアーミラから神殿へ水晶球が繋げられた。
アウロラ奪還作戦から円卓までの出来事は私にとって人生観を変えてしまうような経験であり、同時にアキラへの心象も変化していた……だというのに、私はアキラを騙し、アーミラを騙そうとしている。
心が痛まないわけはない。
罪悪感に苛まれて当然だ。
私は白衣の懐に忍ばせていた油紙の包みを開けて、白い欠片を摘むと口に運び、飲み込んだ。
「……こちら神殿、神族近衛隊長カムロでございます。如何致しましたか、アーミラ様」
「カムロ、さん……いえ、大した用事ではありませんけど、その、円卓がどうなったのか気になりまして、アキラさんはどうなりましたか?」
アーミラの問いかけに私は努めて平静を装う。顳顬は痛まない。即効性のある薬で助かる。
「円卓会議については全て無事に終了致しました。アーミラ様もアキラ様も禁忌を行った咎を負うことはないでしょう」
「……そう、ですか」アーミラは胸をなでおろし、安堵に顔をほころばせる。
私は大水晶球に映る彼女の顔を直視できず、目を逸らして呼吸を整える。
政を行う上で、このような瑣末な嘘はもう何度も繰り返してきただろうに、私は何故このように胸が苦しいのか。
仮面のように平静な顔を張り付かせて努めて毅然に対応する。
「アキラ様についてですが、『異世界より来る人』の名を与えられ、前線に送り出すことは神殿及び各国の総意として否決されました」
「……え……?」アーミラの表情は一転、凍る。
「アーミラ様には申し訳有りませんが、前線には派兵できません。
……アキラ様の身の安全については神族近衛隊が責任を持って保証致します。どうかご理解下さい」
アーミラは私の言葉に戸惑い、人が困惑状態に陥った時に共通するような笑みを浮かべて、言葉を失う。
まるで時間が止まったかのようにアーミラは固まる。その瞳だけは動揺に揺れて、思考を整理しようと忙しなく視線が震える。
薬で頭痛が抑えられたとしても、心の痛みは収まらない。
「……私としても、なんとかしたいとは思っていたのですが、円卓の総意となると跳ね返すことは難しく、……その上、アキラ様は現状、戦力とはなりません。大事な人物を私の独断で前線に送り出すには、その責任はあまりに大きく……」
嘘じゃない。
私の言葉は無理筋の理論や空論ではない。あの体でどう戦うというのか。アーミラもそれがわかっているからこそ、こうして言葉を失っているのだ。
しかし私よ。こうものべつ幕なしにべらべらと人を言いくるめられるとは、その舌はきっと二枚あるのか。あるいは禍人のように舌先が二つに別れているに違いない。
私よ、薄情者の私よ。
胸が痛むのは、まだ救いがあるということか。
❖――視点:アキラ
腹部を殴られ、奥之院のどこかに幽閉されてしまった俺は、しばらくして吐き気が治まり、ゆっくりと起き上がる。
黒大理石の床に手をつくと思ったよりも暖かい。ザルマカシムと呼ばれた男は俺を担いで運ぶ際に階段を下りていったから、恐らくこの温みは地下熱が伝わっているのだろうか。
あたりを見回すと、謁見ノ間とさして変わらない。部屋の大きさはこちらの方が狭いようだが、地下牢という訳ではなさそうだ。
部屋の中央に構えるのは大きな寝台。紗の白生地がゆったりと垂れ下がる天蓋を拵えられており、俺はぞっとしない。
――まさか……いや、だとするならこの部屋には……
俺は息を呑み四方に視線を巡らせる……いた。
音も気配も殺して、一人の女性が佇んでいた。
白い髪、白い肌、白い肌着。
黒大理石の硬質な闇の中でセラエーナの輪郭は浮かび上がり、幻か幽霊のように俺の目に映る。
『子を成して欲しいのだ。』……リーリウスの言葉。
俺は奥歯を噛み締める。幽閉とは、つまりそういうことか……!
セラエーナは足音を立てず、それこそ本当に幽霊のように肌着の裾を揺らしながら俺に近付く。
視線は真っ直ぐに俺と交わるが、彼女の引き結んだ小さな唇は何一つ語ってはくれない。
その代わりにセラエーナは行動で示し始めた。
錠をかけられた扉を背にして逃げ場を失った俺に対して、セラエーナはそっと手を伸ばし、俺の腕を掴む。そして寝台の方へと招こうとする。
「……やめ、お止めください!」俺は扉から離れない。「王女様だって、こんなの嫌じゃないんですか……!?」
俺の問いかけにセラエーナは首を少し傾いだだけ。
綺麗な翠色の虹彩は穢れなど知らないといった顔で、俺を見つめながら寝台へ誘う。
敵と断言のできない無垢なる敵意。
拒まなければならないたおやかな女性の手。
乳白色の闇に囚われ、頭は混乱する。
「……やめてくれッ!」俺は半狂乱になって手を振りほどき、横へ逃げる。
この部屋には寝台が中央に大儀そうに安置されている以外には家具らしいものは何もなかった。
灯を燈す為の燈盞が天井に四方吊り下げられているのがせいぜいだ。そこの発光石が光を消せば、この部屋は他に明かり取りの窓もなく、完全な闇になるだろう。浮かび上がる白い王女に対してこちらは逃げ場はない。
しかし屈するわけにはいかない。
セラエーナは俺の態度に眉を下げて、困惑したような顔をすると、今度は静かに息を吸い込み、目を閉じた。
――何を、する気だ……?
そして次の瞬間、セラエーナは息を吐き、背中から燐光が溢れ出す。それと共に身の丈を超える片翼が出現した。
形態異常――それはマーロゥとは別の、血筋の揺らぎ。
混血ではなく、純粋な血の鎖の果てに、左右対であるはずの彼女の翼は歪んでしまった。
そしてその翼は俺の逃げ場を塞ぎ、壁際へ追い詰める。
「やめて下さい……セラエーナ王女……」俺は部屋の角に追い詰められて、懇願する。
こんな風にアーミラを裏切りたくない。
こんな風に世界に利用されたくはない。
セラエーナは何も言わず、その場で肌着を脱ぎ始める。
首の後ろに手を伸ばして結びを解くと、陶器のように白い乳房が露わになる。そして次は腰紐……
「……やめろ!!」
俺はセラエーナの腕を掴み、肌着を脱ぐことをやめさせる。
「頼むから、何か言ってくれ……
そんな風に何も言わず、まるで傀儡のようにリーリウスの言いなりになっていてはいけないんだよ……」
俺の言葉に、セラエーナの瞳は微かに揺れた。
「どうしたって拒み続けます。どうか諦めて下さい」
「――それは困ります」
どこからか声が聞こえて、俺は咄嗟にセラエーナを見る。……だが、彼女は首を振る。声の主は別にいるようだ。
「――受け入れて頂けるまでは、アキラ様はこの部屋から外に出ることは出来ません」
「ふざけんじゃねえ……ここから出せ!」
俺は声を荒げて部屋の中で声の出処を探す。
天井から壁際、燈盞の細部まで見つめるが、魔導具の類いは見つけられない。巧妙に隠してあるのか、別のからくりがあるのか……
「――それはできません」
返答は無機質に部屋に響く。
「姿くらい見せてみろ」
「――それも、できません」
俺は姿を見せない声の主に対して、一度怒りの矛を収めて対話を試みる。これでは無理問答だ。今は冷静に、情報を探り出した方がいい。
「……手段が、あまりにも強硬に過ぎるんじゃないのか。俺が誰なのかわかっているんだろうな」
「――わかっております。異世界より来る人……アキラ様だからこそ、こうしてここへ招いているのです」
「招いた?」俺はその言葉が引っかかり、眉を跳ね上げて虚空を睨む。
「――はい。次代の神族を産む父として……」
「ふざけんじゃねえ……」ぎりと歯を噛み締め、拳に力がこもる。「招かれた覚えはない、幽閉されたんだ」
「――少々手荒ではありましたが、前線と比べればその痛みは些細なものでございます。
戦に身を置いて命を落とすよりもここにいた方が賢明、それをご理解頂くためには、強硬にもなりましょう」
無機質な声は淡々と言葉を並べる。会話は平行線、お互いに譲るつもりはない。
「……腹に据えかねるな。それこそ、アーミラだって黙ってはないだろう」
「――アーミラ様には事後承諾とはなりますが、現在アキラ様の身を預かることについて報告しております。
神殿のためであれば、きっと身を引いていただけるでしょう」
部屋に響くその声の、なんと慇懃無礼な態度か。
俺はあまりの怒りに閉口し、寝台の毛布を一枚剥ぎ取ると部屋の隅に褥として広げ、その上で身を休める。
「――……アーミラ様からの返答は追ってご連絡致します」声はそれを最後に途切れ、部屋はしんと静まり返った。
❖
地下に幽閉され、かなり長い時間が経ったように思う。
セラエーナは依然裸のまま、寝台に腰掛けて投げ出した脚を揺らしている。
俺はといえば部屋の隅でそれを眺めるばかり。思考を巡らせてもオロルのような解決策は浮かんでこない。
謎の声もあれから何一つ話しかけてくることはなかった。目的からして俺を餓死させるつもりはないようだが、飯はどうするのだろう。
排便をするにも、体を洗うにも、この部屋にはその為の設備はない。誰かに助けてもらうまで、こうしてここで待っている訳にもいかない。
「……なぁ、セラエーナ王女」俺は不貞腐れた態度で呼び掛ける。こうなった今、礼儀も何も知ったことではない。
セラエーナは生来声を出すことはできない。だが、俺の言葉を聞くことはできるはずだ。こちらの呼び掛けに気付くと脚を揺らすのをやめて、首を向けた。
俺は立ち上がるとセラエーナのところに向かう。
「セラエーナ王女はこのままでいいのか? 例えばお腹が減ってたり、風呂に行きたいとか思わないのか?」
セラエーナは小首を傾げて俺を見つめる。視線は俺の目の奥を覗き込むように真っ直ぐとしていて、雛鳥のような無垢さの奥に、人としての知性を感じさせる。
俺はセラエーナと向き合う位置に移動すると、床に胡座をかいて肘をつき、手の甲で顔を支えた。
「……いつも、会話はどうしてたんだよ」
セラエーナは俺の問に戸惑い、そして次に手を伸ばして俺の肩に触れた。
しかし、それだけ。
「なんだよ?」俺はその行動の意図を捉えかねる。
セラエーナはどこか悲しい顔をして首を振る。言語を解すること。何か伝えたがっていることだけは分かった。
何故肩に触れた……?
それ自体が何かの意思表示になるのだろうか? 俺がそれを知らないから、セラエーナは悲しそうに首を振るのか……
いや、待て。
もしかして魔呪術によって会話を行おうとしているのか……!
だとしたら俺に言葉が伝わらないのも頷ける。
「――失礼致します。セラエーナ王女」
不意に発せられる声。俺は辺りを睨む。
「――アキラ様は特異な体質をお持ちの為、念話ができないのです。
急ぎ首輪をご用意させて頂きました。これよりそちらにお送り致します。
尚、発声の為の魔導回路を備えておりますので、アキラ様は首輪には触れぬようお願い申し上げます」
説明を終えると同時に、錠が解かれて扉が開いた。白衣を着た男が二人、外から射し込む逆光で顔は見えないが、その姿には見覚えがある。
「オクタ! ヤーハバル!!」俺は目を剥いて驚く。「頼む! ここから出してくれ!!」
俺は扉に向かい走り出す。しかしヤーハバルは俺の前に立ち行く手を阻む。
「……そんな、なんでだよ……」俺は二人を睨む。
「悪いとは、思っていますよ」オクタは言った。「ですが、不満を抱くには贅沢ではございませんか」
「どういう――」どういう意味だ? と、問おうとして言葉に詰まる。
神人種と呼ばれる者は、神族に認められた者の集まり。その中で見初められた者のみが血を迎えられ、次代の王を産む権利を勝ち取れる。
それは神族近衛であるオクタとヤーハバルも同じ、さらに言えばあともう少しというところを、俺が奪ったようなものだ。
リーリウスは認められる人は居ないと断じたが、それを知る者はいないのだろう。
「……戦果は目覚ましく、功績は申し分ない。そして肩書きは唯一の異世界より来る人。神に肉体を与えられ、神族に認められた……羨ましいくらいです」と、オクタは言う。
「……」俺はその言葉に後退る。
俺の想いは、我儘なのか。




