異世界より来る人❖1
標高の高い山の頂きに構えた神殿では、朝靄が煙り、肌に冷たい。円卓会議から一夜明け、俺は神殿から旅立つというスークレイの一団を見送りに出ていた。
口からゆっくりと息を吐けば大気に白く溶けていき、俺は幌車に荷を乗せている討伐隊を眺めながら何度も手のひらを擦り、息を吐いて温める。
「……思い出しますわね」と、背後からの声。振り返るとスークレイがいた。
スークレイはこの早い時間にも表情はきりとして、纏うドレスには皺一つない。
「……なにを?」俺は首を傾げる。
「三年前、貴方が鎧を修理に出した時の日々よ」
「あぁ!」俺は思い出す。「壷に入れられて、よく二人で話してたな」
俺は改めて景色を眺める。当時は壷の中にいたけれど、薄青い空の雰囲気はあの時ととてもよく似ていた。
「……『勇名の者に偽装した戦闘魔導具アルテマ・マギ』」スークレイは呟き始める。「『板金龍』、『極致の魔導具』……次は『異世界より来る人』
名前が次々と変わりますのね」スークレイは呆れたように笑う。その目は棘がなく穏やかだ。
「はは、本当だ。俺の肩書きはよく変わるな」俺も同じ様に笑ってみせる。
その頬に、不意にスークレイは手を添えた。
「いい? 他者からどのように呼ばれ、肩書きを変えたとしてもアキラはアキラでしかない。
神から肉体を与えられたとしても、異世界より来る人だとしても、貴方を語るには肩書きだけでは足りないのよ」
「……勇名みたいにはなれないってこと?」俺は少し戸惑うように、再び首を傾げた。
スークレイは諭すようにゆっくりとした動作で首を振る。
「名が体を表すことは大いにありえるけれど、それだけでは足りないの。
今、世界は貴方に注目しているのよ……その時、名よりも雄弁に語るのは行動。何を為すかによって貴方の存在はいかようにも変わってしまう。それだけは胸に留めておきなさい」
その言葉に俺は頷く。
柄にもなく、スークレイは俺の実を案じてくれているのが少しくすぐったい。
「……本当に、格好良いな」
「女性に対して失礼ではないかしら?」
「それもそうか。でも本心だよ。誰かの言いなりになる気はないけど、スークレイみたいな生き様は憧れる」
俺の言葉にスークレイは口の端を吊り上げ、それを隠すように扇を開いた。
丁度その時、スークレイの護衛として神殿に来ていた討伐隊が荷造りを終えてスークレイを幌車に案内する。
「……これにて暇乞いをさせていただきますわ。どうか息災で」と、スークレイ。
「これからラーンマクに戻るのか?」
「いえ、私共は一代目国家アーゲイへ向かいます。そこには義体技術――つまり神経と魔導回路の接続、ガントールの義手を作るために必要な技術――が発展していると聞きますので、ガントール姉様に手土産の一つでも持って帰りますわ」
「そうか、ならば一団に大事無いことをここから祈ってるよ」
そして幌車は神殿の門を潜り、アーゲイへと遠く消えた。
❖
「スークレイ様が神殿を発ったことは後になってから聞きました。もう少しゆっくりしていただいてもよかったのに」カムロは言う。「円卓での御助力についても一言挨拶をしたかったのですが、残念です」
時刻は昼前、場所は宿のロビー。
これまでの疲れを癒すためにぐっすりと眠っていたカムロはスークレイが一代目国家アーゲイへと発ってからずいぶん遅れてその事実を知り、俺の元へやって来た。
「ガントールの為に色々と忙しくしているみたいだ。元より円卓に出ることは予定に無かっただろうしね」と、俺は言う。
カムロは、だからこそ挨拶はしておきたかった。と溜め息を吐いて、はたと思い出したように口を開いた。
「急な呼び出しなのですが、アキラ様」
「ん?」
「改めて『異世界より来る人』としてのアキラ様と話をしたいとの事で前王がお呼びしております」
そう言うカムロの語調は何時ものような事務的なものに変わり、重要な要件であると悟る。
「……本当に急だな。前王ってことはリーリウス様か。いつどこに行けばいいんだ?」
「本日午後より、改めて私がここに参ります。場所についても案内させていただきますが、奥之院というところです」
「奥之院……」俺はカムロの言葉を繰り返す。どこだろうか。
「神人種でも限られた者のみが入ることを許される神族の本殿にございます」
「はぁ、……緊張するから苦手なんだよなぁ、一体なんの話をするんだろう」
そんな素朴な俺の疑問にカムロは俯いて答える。
「……それは、私にも分かりかねます……」
❖
俺はカムロに連れられ、奥之院に招かれる。そこは白を基調とした神殿とは反転したように黒い石造りの廊下で、十字に交差して幾つかの部屋に繋がっている。
カムロに導かれるようにして奥之院の最奥、扉の横には『謁見ノ間』と彫られていた。
――字が読める……!
俺は静かに瞠目する。なるほど、五感は完全にこの世界と同期したと見える。
そうしている内に謁見ノ間の扉は開かれ、カムロに続いて一礼の後に中へと入る。
「……お待ちしておりました。異世界より来る人」と、リーリウスは椅子から立ち上がり、両手を広げて歓迎した。
「お招きして頂き、大変光栄です」俺はたどたどしく応える。
「そう立たせていては申し訳ない。まずは是非、お座り下さい」そう言ってリーリウスは俺に促す。そしてカムロに顔を向けた。「大儀であったぞ。カムロ。まだ疲れもあるだろう、暫くはゆっくり休むといい。もう下がってよいぞ」
「……はい。承知、致しました」カムロはそれだけ言葉を返すと一礼して踵を返す。
その時、一瞬だけ俺と目が合った。
物憂げな視線。何か言いたげな眼差しに、俺はその背中を見つめ続けた。
しかしカムロは振り返らず、謁見ノ間から退室する。扉は重厚な音を立てて閉じられると、この密室の空気は微かに張り詰めたのを感じ取る。
「……さて、アキラ殿」
リーリウスは俺を名を呼ぶ。四方を黒大理石の壁で囲われた密室に浮かび上がるリーリウスの輪郭。白い髪、白い髭、白い肌。神族の姿はこうして間近で対面するとあまりに雄々しく、獣人種よりも体躯は一回りも大きい。
俺はその姿に圧倒されて、何も言えない。
リーリウスは続ける。
「単刀直入に、アキラ殿には頼みたいことがあるのだ」
「な、なんでしょうか……?」
「神族の繁栄のため、是非我が娘セラエーナとの子を成して欲しいのだ」
「……は、い……?」
駄目だ。
頭に言葉が入ってこない。
いや、耳を疑う事を言われたのだ。
リーリウスは肘掛に手を乗せて、ゆったりと背凭れに身を預ける。そして対面している俺にこの世界について説明する。
神族の成り立ちから今まで、近親での交配を繰り返すあまり、血は純粋を極めて破綻した。王女セラエーナは形態異常として生来声を失っている。と、語られる。
「――神人種とはつまり、次代の神族のために選ばれた民。そしてアキラ殿はそれらを優に超える素質を持つ……まさに神の使いと確信している。
是非、君の血が欲しい」
リーリウスは縷々として、まるで演説でも行うように慣れた態度で俺にこの世界の歴史、神族が直面している問題を語った後、改めて俺を必要だと求めた。
俺は訥々と口を開く。
「……つまり、神殿をはじめとする現五代目国家まで全てを維持するために、私の血を選んだと言うことですか……」
「うむ」リーリウスは頷く。
俺は目を伏せて、認識に間違いがないことを受け入れる。まるで全てが仕組まれているみたいだ……
震える腕を組んで、右手で頤に添えた。
今思えば、カムロのどこか翳りのある態度は合点がいった……全て分かっていて、俺をここに連れ出したんだ。
謁見ノ間を退室する時に見せたあの表情……『裏切られた』。とは言い切れない。カムロとは心が通い始めていたと信じたい。きっと神族近衛隊の隊長としての務めを果たさなければならなかったのだろう。
いや、そんな事を考えている場合じゃない。
問題の原因や前触れを省みる時ではない。直面しているこの現状をどうするか。
リーリウスの話、『突如現れた俺の血を神族と掛け合わせたい』という頼みにはとてもじゃないが頷けない。
それはつまり、王女セラエーナと交配を行うということ。
それはつまり、俺がアーミラを裏切ってしまうということ。
「それはできない」俺は呟く。独り言のように口を突いて出た言葉に、心は確信する。
そしてリーリウスに向かいはっきりと繰り返す。
「それは、できません」
語調こそ丁寧に、しかし目ははっきりと意思を持ってリーリウスの視線にぶつかる。
俺はもう、傀儡なんかじゃない。
「……できない、か」リーリウスは渋い顔をして続ける。「その理由を話してはくれないか」
「もしその話を受け入れたら、私はセラエーナ王女と、その……子を成さねばなりません。
それは、前線に残したアーミラを裏切ることになります」
神族前王と二人きりの密室。向かい合うだけで圧され、声は震える。御前であるからには話す言葉にも注意を払う必要があるが、纏まらない思考ではそれができない。
リーリウスは背凭れから離れ、身を起こすと今度は前傾になる。上から照らす光が顔に落ち、彫りの深い眼窩は暗く翳る。
「……アーミラ・アウロラか……」と、呟く。その言葉の響きは厳かで重い。
「はい。私が板金鎧に魂を宿してからずっと、行動を共にして参りました。
肉体を取り戻す前から、私はアーミラと添い遂げると心に決めております」
よくぞ言い切った。と、心の中で叫び、俺は拳を固める。俺は傀儡ではないのだと示し、間違ってなるものかと確固たる意思を表明する。
しかしリーリウスの次の言葉はあまりにも無情に俺の心を砕いた。
「アキラ殿……その選択は間違っている|」
「な……っ!?」俺はたじろいで、思わず一歩後退る。「間違って、いる……? それは、どういうことですか」
なんとか喰い下がるための抵抗の言葉を吐き出す。しかし、頭の奥はじんと痛み、目の前が真っ白になる思いだった。
「アキラ殿が五代目次女継承のアーミラと共に生きることを選ぶなら、そのために我ら神族は遠からずその血の鎖を途切れさせることになるだろう。
であれば、神殿は機能不全に陥り、ひいては各国を守る防壁や結界は弱まる。
負けるのだ――禍人に。
君の選択一つでこの国は滅ぶ。それをわかっていないのだよ」
リーリウスの語調は後半になるにつれ荒々しくなり、内に秘めた憤怒を露わにした。そして自身がそれに気付くと、呼吸を整えて声を落とす。
「……代々繋がる血の鎖、その末端に我子がぶら下がる。そうして私は、上からも下からも引っ張られ、身動きが取れないのだ」
リーリウスは項垂れるように手で顔を覆う。
無理強いをしていることは理解しているのだ。大きなものを守るために、他にどうすることも出来ない苦悩を吐露した。
「貴方の妻である王妃カルミナ様は?」俺は恐る恐る問いかける。
「カルミナはラヴェルの最後の分家だ。旧姓はラヴェル・ユグド・カルミナ。……いずれにしろ我子達が最後の純血種となるだろう。天帝であり、翼人種としてのな」
翼人種……神族の元々の種としての名称だろうか。翼を持つ種族、それはこの世界の歴史の中で神族となったと推測できる。
「別に俺でなくとも、神人種から選べばいいのではないですか……」
「……いないのだ。神人種の中からはついぞ見つけられなかった。神族の血に混ざること、それに相応しい者はいない。現状では我が息子ユタと、我が娘セラエーナが次代を成すことになる」
「そんな……」
俺は目の前に突きつけられたあまりにも大きな問題を前に、思考は解決の糸口を見つけることはできない。
背負うにはあまりに大きすぎるこの世界の問題に対して、部外者の俺から言えることはないのだから。
「彼を幽閉しろ。ザルマカシム」
諦観の色を帯びたリーリウスの声……そしてその言葉に短く応える男がいた。
いつからそこにいたのか、接近を許した俺の腹部に拳が突き入れられる!
「……ごはッ……!!」
鈍く重い痛み。鳩尾は痙攣を繰り返した後、強く収縮すると胃の内容物を口から鼻から吐き出した。胃液の饐えた臭いが鼻腔を刺激し、目には涙が滲む。
ただ一発の拳。それだけで俺は容易く意識を奪われる。
――これほどまでに、肉体は柔らかいのか……!?
板金鎧として過ごしてきた三年は、俺の肉体の感覚を忘れさせてしまったのだと知る。
男の肩に担がれ、強制的に連れられる中で理解した。
この世界の闇はずっと黒く、そしてあまりにも大きなものが焦げ付いている。
意識が引き剥がされる刹那、俺は心の中で呟いた。
――ごめん……アーミラ……




